すでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか-お釈迦様のことばに聴く

仏教コラム

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか―お釈迦様のことばに聴く

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか

岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P1

今回の箇所もこのお経の中で非常に重要なことばです。

近年子供の虐待のニュースが取り上げられることも多くなりました。

子育ては難しい。私は独身でまだ子育ての経験はありませんが、いろんな方の話を聞けば本当にそう思います。

体力的にも精神的にも親の負担はとてつもないでしょう。

そうした中でどうしてもかっとなって怒ってしまったり、投げやりな気持ちになってしまうことも起こってしまうでしょう。

子供たちは大人の思うままには動いてくれません。

自分の思い通りにならないというところに難しさがあります。

お釈迦様はこう述べられます。

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」

私たちは子供のことを「自分の子」と意識的にも無意識にも思ってしまいます。この「自分の」というのが厄介なのです。

自分の」ということばは「自分のもの」という感覚をもたらします。

そして「自分のものなのだから自分の思うままにしたい」という欲求が生まれてくるのです。

しかしお釈迦様は言います。

「すでに自己が自分のものではないのだから、どうして自分の子供であると言えようか」と。

自己が自分のものではない」

よくよく考えてみればたしかにそうですよね。私たちは私たち自身すらどうにもならないことがあります。いや、そもそも私たちは自分を自分の意思で動かしていると思っていますがこれも怪しいものです。

遺伝や生まれ育った環境、後天的に得たものの考え方、その日の体調、今の状況、あらゆるものに影響されて私たちの心は成り立っています。

自分の意思で自分を動かしていると思いきや、実は自分の意思外のものに影響を受けて知らず知らずのうちにそう動かされているのかもしれないのです。

「自己すら自分のものではない」

この考え方は非常に重要な人間観のひとつです。

そして自己が自分のものですらないのに、なぜ自分の子を「自分のものだ」と言えるだろうかとお釈迦様は言うのです。

言い換えるならば、子供はそもそも「あなたのもの」ではない。子供は「ひとりの人間」なのだというようにも言えるかもしれません。「あなたの思い通りになるもの」ではそもそもないのですよとお釈迦様は説くのです。

そうした「思い通りにならない存在」としての子供と向き合った時、私たちはどんな思いを抱くのか、どんな行動をとるのか。それが私たちにに試されているのです。

物事が思い通りにならない時、私たちはどうするのか。

これはもはや修行と言ってもいいのではないでしょうか。

子育てはまさに自己を修める修行じゃないのかと私は思うのです。修行は山にこもってするものだというイメージがあるかもしれませんが、思い通りにならぬことを目の前にしてどう自分の心を修めていくかというのはまさに修行そのものです。正直、家庭内の修行ほど難しいものはないのではないかとすら思ってしまうほどです。

それだけのことが子育ての現場でなされているんだということを私は思うのです。これは只事ではありません。これを自分たちだけでやりきるのは並大抵のことではありません。

かつては家族内や近隣のサポートなどもあったり、多くの人の手を借りて子育てをすることができていました。しかし今やそうした昔ながらの家族形態も少なくなり、近隣のつながりも希薄化したことで、親2人、あるいは1人で何とかしなければなりません。これは非常に負荷のかかる状況です。

こうした中でストレスがかかり、心の準備ができていない親が誰ともつながれずそのまま閉鎖空間で子育てをしたならばやはり悲劇は起こってしまうのではないかと私は思ってしまうのです。

毎年痛ましい虐待事件が報道されます。もちろん虐待をした親の責任は重大です。ですが彼らを親として最悪な極悪人と非難するだけでなく、そうした出来事が起こる背景ということを私たち自身は考えていかなければならないのではないでしょうか。

実はあのドストエフスキーも虐待問題には強い関心を持っていました。小説内でも虐げられた子どもの話が何度も出てきますが彼の個人雑誌『作家の日記』ではかなりの分量を割いて虐待問題について語っています。

子どもが大好きだったドストエフスキーは当時のロシアの悲惨な状況に物申さずにはいれなかったのでしょう。なぜ虐待が起こるのか、そしてそうした家庭で育った子どもたちがどうなってしまうのかをドストエフスキーはそこで語っています。

また、虐待とまでいかなくとも、子供たちに過度な期待をかけ、「いい子」にしようとする圧力も子供は敏感に察します。

いい成績をとること。スポーツで勝つこと。いい学校に行くことなどなど、そうしたことそのものは悪いことではありませんがそれが親の「自分の思い通りにしたいこと」の投影だとしたら、子供たちにとっては苦しみの元になります。

修行は山ごもりのみにあらず、家庭にこそある。

「自分の思い通りにならぬ」子供という存在を前にして自分はどう思い、どう行動するのか。

これはまさしく修行です。

何事も上手くこなす完璧な人間はいません。失敗しがらも精進し続けることこそ修行の大切な心構えです。

私もいつか親になった時、悪戦苦闘しながら子育てをする日が来るでしょう。その時私はどう思うのか、これは気になるところであります。

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