放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る―お釈迦様のことばに聴く

放逸に耽るな 仏教コラム・法話

放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る―お釈迦様のことばに聴く

二五 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。

二六 知慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝をまもるように、つとめはげむのをまもる。

二六 放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。

岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P13ー14

今回は『真理のことば』第二章「はげみ」よりいくつかご紹介します。

第二章のタイトルが「はげみ」とありますように、ここでは修行者が日々努め励むことについてお釈迦様は述べられます。

「二五 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。」

とお釈迦様が仰られるように、日々自己を修め、努め励み、煩悩の激流にも押し流されない島を作るようにせよというのが修行者の心構えとなります。

「二六 放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。」

普通、「楽しみ」と言えば、飲んだり歌ったり、恋愛の楽しみだったり、あるいは様々な娯楽のことを思い浮かべてしまいますよね。

しかしお釈迦様は修行者たちにはそれを勧めません。

修行者にとっての楽しみというのは、

「二三 (道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。」

と言われるように、安らいだ境地のことを言います。愛欲と娯楽による刺激は修行者にとっての幸せではないのです。

さらに言えば、修行し、自己を修め奮励することそのものが幸せなのです。自制と克己は手段ではなく目的そのものでもあるのです。

刺激のない心穏やかな境地は、普通に考えたら物足りない、味気ないもののように感じるかもしれません。ですがお釈迦様の説く幸せはそこにこそあるのです。

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