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「ルーゴン・マッカール叢書」第3巻『パリの胃袋』の概要とあらすじ
『パリの胃袋』はエミール・ゾラが24年かけて完成させた「ルーゴン・マッカール叢書」の第3巻目にあたり、1873年に出版されました。
私が読んだのは藤原書店出版の朝比奈弘治訳の『パリの胃袋』です。直訳では『パリの腹』となるそうですが、訳者が日本語の語感とこれまでの慣習に則って『パリの胃袋』と訳したそうです。
では、早速あらすじをこの本の帯から見ていきましょう。
舞台は食の殿堂パリの中央市場。ガラスと鉄で作られたこの近代建築のなかは、活気あふれる喧騒に満ち、肉、魚、野菜、果物、チーズと、いたるところ食物の山、山、山。
飽食と肥満が美徳のこの世界に、骨と皮ばかりにやせ細ったひとりの若者が入り込む。この男フロランは一八五一年のルイ・ナポレオンのクーデターの折に無実の罪で南米ギアナに流され、苦しみぬいた末に脱走を果たして、ひそかにパリに戻ってきたのだった。
市場で働く人々は、この哀れな男を初めは暖かく迎えるが、やがてうさんくさい異分子の匂いを嗅ぎつけ、彼の行動を監視して隙あらば追い出そうとする。正義と友愛を夢見ているフロランは、安楽な生活を守ろうとする彼らのひそかな敵意に苦しみ、ついには政治的陰謀に加担して第二帝政そのものの転覆をくわだてるのだが、さて、その結末は……。
藤原書店出版 朝比奈弘治訳『パリの胃袋』
今作の主人公は実はルーゴン・マッカール家の人間ではありません。主人公フロランはこの一族と血のつながりはないのです。
しかし彼の弟がマッカール家のリザという女性と結婚していて、その家に居候することになり、ルーゴン・マッカール家とのつながりが初めて生まれるのです。
ルーゴン・マッカール家家系図
リザは家系図では右側のマッカール一族に位置します。
リザは一般的な意味で言う悪者ではありません。いや、むしろまっとうな人間です。ですがそのまっとうさが実際はどんな性質を示しているのか、それがこの小説では問題にされているのです。
訳者解説ではこの点が非常にわかりやすく解説されていますので長くなりますが引用します。
匂いや音と並んでこの小説のなかに一貫して流れているものは、殺された生き物の血や肉や内臓のイメージだろう。
大量の豚が解体され、羊の頭が割られ、ハトの血が抜かれる。食べることには、この血なまぐささが必然的に伴っていることを、中央市場の舞台裏はくっきりと見せてくれる。
鉄とガラスの大建築の下でくり広げられる大食の夢、それは他の生命の肉を食らい、血をすする、動物的で盲目的な食欲の祝祭だ。
ゾラの筆は、近代都市の「美」の下にひそむ、そうした野蛮さ、血なまぐささを描くことによって、フランス第二帝政期の、いや十九世紀ヨーロッパの発展の原動力になった強烈な欲望、とどまるところを知らぬ貪欲を批判的に描き出そうとしているように思われる。
産業革命が完了しつつあったこの第二帝政期は、人間の物質的な欲望が赤裸々に解放された時代だった。宗教や倫理の規範も希薄になり、自分の欲望をどこまでも追求することが良しとされる時代。ゾラはこの小説のなかで、そうした歯止めのない欲求を、「食欲」という身近なかたちで表現しているようだ。
ここでは食べ物と屠殺のイメージを媒介として、生物学的なヴィジョンと資本主義のイメージが連結されている。華やかな近代社会の根底にある、野獣さながらのあからさまな「弱肉強食」の世界。
だがその世界は、強者の力だけで維持されているわけではない。この小説には“ honnête ”という形容詞が頻繁に出てくる。日本語になりにくいことばで、文脈によって「まっとうな」「正直な」「きちんとした」などと訳したが、要するに、悪いことはせず、まじめで律儀で、非難すべき点のない人や暮らしのことだ。
しかしその反面、ゾラが用いるこの形容詞には、自分さえ安楽に暮らせるならそれでよいというエゴイズムも含まれている。たとえば副主人公のリザは、きわめて「まっとうな」生活を送っている正直で善良な女だが、生活の安定を願うあまり外の世界には無関心になり、他人の不幸には目をつぶってしまう。
世間の多数を占めるそうした普通の人々の安楽を求める気持ちが、狭い範囲ではよそ者を排除し、大きく見るならば弱肉強食の社会のシステムを支えることになるのだ。ゾラの目から見れば、彼らも無実ではない。
この「まっとうさ」を目に見えるかたちで示しているのが、「膨れた腹」のイメージである。市場の女たちのでっぷりとした腹から建物や社会に用いられる比喩まで、「腹」はこの小説のなかにあふれている。
それは消化と排泄をつかさどる動物的器官であり、人間の野蛮さの象徴であると同時に、安楽さ、呑気さ、満ち足りた生活といったもののしるしでもある。
「腹」は満腹さえしていればそれで充分で、ほかのことなど気にかけはしない。誕生したばかりの活気ある大衆消費社会の裏側にゾラが見据えていたものは、おそらくこのような膨れた腹たちの勝利の饗宴のありさまだったと思われる。
※一部改行しました
藤原書店出版 朝比奈弘治訳『パリの胃袋』P442-443
感想―ドストエフスキー的見地から
この小説はまさしく私たちの生きる現代とまったく同じ状況を指し示しているのではないでしょうか。
私たちは美味しいものを食べるのが大好きです。そしてできるだけたくさん食べたいという欲求も否定しがたいことでありましょう。
美味しいものを食べることが罪だとは今の人はほとんど思いませんよね。いや、美味しいものを食べることは絶対的な善であるようにすら私たちは感じているのかもしれません。
ですが、私たちはそれが生き物を殺していのちを頂いているということが実感できません。なぜならもはや私たちの大多数が直接手を下していないからです。首を切り、血を流す動物の姿を見ていないのです。これは私たちも色々な場で言われるお話ですよね。
ですが今回の話はそれだけでは終わりません。
ゾラは 今回の作品において 人間のあらゆる欲望を食べ物で象徴しています。私たちは欲望追求が善であるような時代を生きているのです。その時代に順応し秩序を守って安楽に生きることをゾラは「まっとうな」生き方と言うのです。
副主人公リザは「まっとうな」人間の代表です。彼女の言うことは本当にまっとうです。ですがそのまっとうさがゾラの手にかかればどこか虚しさを感じることになるのです。
その中でも印象的だったシーンを取り上げます。
リザは主人公のフロランに感化され反政府活動に肩入れしようとする夫に対して、自分の思いを次のように言いました。
わたしがあなたに不正直な人間になれなんて勧めたことがめる?手形を払わないとか、お客さんを騙すとか、悪いことをしてでも猛烈な勢いでお金を貯めこむとか、そんなことをあなたにさせたりしたことがある?……しまいには怒りますよ!わたしたちはちゃんとした人間よ。略奪だの、暗殺だの、そんなことはけっしてしません。それでたくさんでしょ。ほかの人のことは、どうだっていいわ。(中略)
商売を繁盛させてくれる政府を支持するのは当然でしょ。政府が汚いことをしているとしても、そんなことは知りたくもない。だってわたしは何も悪いことをしてないんだから。ご近所で後ろ指をさされるような心配はけっしてないわ。風車にぶつかって行こうなんて、あんまり馬鹿げている……(中略)
あなたには妻もいれば、子どもたちもいるのよ。何よりもまず家族を守る義務があるでしょう。家族の幸福を壊そうとするなら、それはあなたの罪だわ。鉄砲を撃ちたいと思うのは、火も家もなくて、失う物が何もない人たちだけよ。まさか人に騙される間抜けな男なんかになりたくはないでしよう!だったら家でじっとしてなさい。お馬鹿さんね。よく寝て、よく食べて、お金を稼いで、心にやましいところがないようにすることよ。
藤原書店出版 朝比奈弘治訳『パリの胃袋』P231-233
実にまっとう。まっとうなることこの上なしです。
普通に考えたら最高にいい人です。
ですが、そのまっとうさ、平和な暮らしがどのような犠牲の下成り立っているかをゾラは暴き出すのです。
これはまさしく仏教的な視点なのではないかと私は感嘆しました。
現実をありのままに見る。仏教には、この世はいかなるものかを情を排して徹底的に分析する姿勢が根本にあります。
同じようにゾラは科学的に、客観的な視点によって社会を見通そうとしました。
そして私が今研究しているドストエフスキーは主観的な視点で自らの心の奥底に潜っていきます。
それぞれ時代や方法は違えど、現実をとことんまで掘り下げて見通そうとする姿勢が共通しているなと感じたのでありました。
この小説の最後の言葉は次のような驚くべきセリフで締められています。
まっとうな奴らというのは、なんて悪党なんだ!
藤原書店出版 朝比奈弘治訳『パリの胃袋』P433
恐ろしいセリフですね。ゾラの世の中を見通す力を感じました。
私は『ルーゴン・マッカール叢書』でどの作品が1番好きかと言われたらおそらくこの『パリの胃袋』を挙げるでしょう。それほど見事に人間の欲望を描いています。
ゾラ得意の映画的手法や、匂いなどの五感を刺激する描写、欲望をものや動物を描くことで比喩的に表現する手腕など、すばらしい点を列挙していくときりがないほどです。
文庫化されていないのが不思議なくらいです。ぜひこの本が世の中にもっと広まることを願っています。
以上、「おすすめ!ゾラ『パリの胃袋』全てを貪り食うパリの飽くなき欲望!食欲は罪か、それとも…」でした。
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