エミール・ゾラの小説スタイル・自然主義文学とは~ゾラの何がすごいのかを考える
はじめに
エミール・ゾラ(1840-1902) Wikipediaより
今回の記事ではゾラの小説スタイルである自然主義文学とはどのようなものなのか、そしてそこからゾラの何がすごいのかということを考えていきたいと思います。
さて、よく古典文学の話になると、〇〇主義文学とか、~~派文学という言われ方がされたりしますよね。
ある作家がどのようなグループに属しているのか、どのような傾向を持っているのかということを知るにはこの〇〇主義、~~派という言葉はたしかに便利なのですが、いかんせんこの言葉自体が難しくて余計ややこしくなるということがあったりはしませんでしょうか。
解説を読んでもその解説に専門用語が並び、解説の解説が必要になり、ますますわからなくなる。私はそうした専門用語のループに何度も白旗を上げたものでした。
そんな中、ゾラは自分自身の言葉で自らの小説スタイルである「自然主義文学」を解説しています。それが非常にわかりやすかったので今回はゾラの言葉を参考にゾラの小説スタイルの特徴を考えていきたいと思います。
ゾラの言葉や参考書をそのまま引用するとかなり長くなるので、今回は引用した箇所をブログ末に注として掲載しますのでもし原文を読みたい方はそちらもご覧ください。また、今回参考にした本は以下の記事で紹介しています。
ゾラの小説スタイル「自然主義文学」とは
これから参考にしていくのは『〈ゾラ・セレクション〉第8巻 文学論集1865-1896』佐藤正年訳に収められている「 演劇における自然主義 」というゾラが1879年に発表した論文です。
論文のタイトルにありますようにこの論文は演劇における自然主義について語られています。
ですがこれは小説においてもそのまま適用される内容で、自然主義文学を知る上で最も簡潔かつわかりやすく書かれていましたのでこちらを見ていきます。
まず、ゾラは自然主義文学について次のように述べます。
自然主義小説とは、要するに自然、人間や事物についての調査である(注1)
『〈ゾラ・セレクション〉第8巻 文学論集1865-1896』佐藤正年訳「 演劇における自然主義 」P39
ゾラは科学の原則を小説に用いることを強く主張しました。
つまり、小説は作り話ではなく、現実の世界を科学的に観察し分析したものをそのまま描いたものでなければならないと言うのです。
そしてこの論文においてゾラは自然主義文学において以下の8つの定義を掲げています。
- 現実から取られ嘘を交えず科学的に分析された、肉と骨とを備えた人間をしっかりと舞台に立たせること
- 架空の登場人物、つまり人間記録としてはいかなる価値もない美徳と悪徳との紋切り型の象徴を厄介払いすること
- 登場人物たちは環境によって決定され、固有の気質の論理と結びついた事実の論理にしたがって行動すること
- もはやいかなる種類のごまかしもせず、もはや事物や存在者を刻々に変化させるような魔法の杖を用いないこと
- 承認しがたい話を語らないこと、また荒唐無稽な出来事―結果としてそれは、作品の優れた部分を破壊さえする―によって的確な観察を損なわないようにすること
- 月並みな処方、すなわち涙や安っぽい笑いに奉仕するうんざりさせる方式を放棄すること
- 劇作品は美文調から解放され、大げさな言葉や感情を脱して、真実に基づく高い道徳性、つまり真摯な調査から引き出された恐ろしい教訓を含むこと
- 小説において果たされた進化が演劇においても実現し、人々が現代の科学と芸術の源そのもの、すなわち自然の研究、人間の解剖、人生の絵図に戻ること (注2)
私はこの中で特に、5番目の荒唐無稽(ロマネスク)な出来事を語らないことというのが重要であるように感じられました。
ゾラは荒唐無稽な出来事、つまりロマネスクな話を嫌います。ロマネスクはロマン主義と同じ意味です。このロマン主義というのも美術や文学などでよく聞く言葉ですよね。私はロマン主義というのが何なのか今までどうしてもわからなかったのですがゾラの言葉を聞くことでなるほどと思えました。
ゾラはロマン主義を「小説的なもの」と表現します。つまり才能ある主人公が苦難やピンチを乗り越えるというような英雄物語や美しい女性のシンデレラストーリー、悲劇的な恋愛、あるいは読者を感傷的に泣かせるような話など、読む者を空想世界に引き込むようなものをロマネスク、ロマン主義というのです。(注3)
ロマンチックという言葉もまさにそこからイメージされる言葉ですね。
ゾラはそれら小説的、空想的物語を痛烈に批判します。
「いわゆる小説的なもの(ロマネスク)ほど危険なものはない。そのような作品は、偽りの色彩で世界を描くことによって空想好きの読者の頭を狂わせ、彼らを無謀な行為の中に投げこむ。「申し分のない姿」に伴う偽善や、花々で飾られたべッドの下で好ましいものにされる醜い行為については言うまでもない。我われにあっては、このような危険は霧散する。我われは人生についての苦い知識を授け、現実について気高い教訓を与える。これがありのままの事態である。 (注4)
『〈ゾラ・セレクション〉第8巻 文学論集1865-1896』佐藤正年訳「 演劇における自然主義 」P42-43
空想の世界に読者を導くことは、彼らを現実の問題から目を背けさせることになり、頭を狂わせることにつながる。そんな人間が増えるから世の中はどんどん悪くなっていくのだと、ゾラはかなり辛辣です。
そして、だからこそ我々が世の中のありのまま、自然のままの現実を暴き出し、現実に対する教訓を与えるのだとゾラは言うのです。
つまり、彼の自然主義とは「小説的な脚色を排したありのままの現実を小説にすべきである」という考え方のことなのです
これがゾラの自然主義の考え方です。
英雄物語やシンデレラストーリーなんて嘘っぱちだ。そんな人間がこの世にどこにいる!とゾラは叫ぶのです。
ここにゾラの小説の特徴があります。
これまでの記事でもお話ししてきましたように、ゾラの小説はまるで映画を見ているかのように写実的に描かれます。
そして社会の悲惨をこれでもかと暴き出します。それも淡々と。
その小説スタイルの根本にあるのが「自然主義」という、空想的、虚構的物語との決別だったのです。
おわりに―結局ゾラの何がすごいのか
ゾラの小説が読者を空想の世界に引き込むロマン主義文学とはまったく異なる立場から書かれていることがここまでで明らかになりました。
ですが、なぜこれまでロマン主義文学が人気だったかというと、やっぱり面白かったからです。
現代で例えるなら『ワ〇ピース』や『シ〇デレラ』、『ア〇と雪の女王』もロマン主義と言ってもいいかもしれません。
ものすごい潜在能力を持った主人公が何度もピンチを切り抜け成長し、ついには何か偉大なことを達成する。あるいは胸がキュンとするような恋愛模様の物語などなど。
たしかに現実ではそんなことありえないと皆わかっています。でも物語の空想の世界に入り込むのはやっぱり楽しい。(私も大好きです)
となるとみんなどうしても読みたくなるのです。
ですが、それをゾラは批判するのです。
もちろん、まったく読むなとは言いません。
しかし小説家たる者、科学的な精神を持ち世の中を真に見極め、それを読者に伝えることで世の中を良くしていくことこそ使命なのではないか。皆が楽しむものを書いてばかりでは世の中は現実を直視しない人間ばかりになり、世の中が狂ってしまうぞと彼は警告するのです。
だからこそ彼の書いた「ルーゴン・マッカール叢書」は悲惨な話ばかりなのです。
もうとにかく救いのない話ばかりです。彼は悲惨な状況に陥る人々の様子をひたすら映し出し続けます。
主人公もロマン主義小説のように成長などしません。ずっと主人公は主人公のままです。
『ワ〇ピース』で主人公が最初からずっと成長しないまま物語が進むと想像してください。
ぞっとしますよね。
ですがゾラからすれば「人間そんな簡単には変わるわけはないだろう」というわけです。
主人公が何かを成し遂げてピンチを打開しハッピーエンドを迎えるなどという筋書きは「ルーゴン・マッカール叢書」にはほとんど存在しません。
ピンチはピンチであり、そのまま悲惨な道へと直行するのが現実なのです。
ゾラは科学者のごとく、客観的、分析的、合理的に物語を描写していきます。ご都合主義など彼には言語道断だったのです。
そう考えてみると、そんなゾラの作品なんて読みたくないと思う方もおられるかもしれません。
しかしご安心を。
そんな悲惨な描写ばかりなのになぜか引き込まれてしまうような、読まずにはいられない魅力があるからこそゾラはやはりすごいのです。
言葉の芸術家とはやはりこういう人間のことを言うのでしょう。
言葉だけで脳内にそのシーンが鮮明に浮かび上がり、視覚だけではなく音や匂いまで感じさせるゾラの筆の力は尋常ではありません。
たしかにロマン主義的なわかりやすく感情的に盛り上がれる筋書きはゾラにはありません。
しかしそれがなくとも人を魅了してやまないその言葉の魔力。
これがゾラの最大の魅力だと思います。
間違いなくゾラは偉大な才能を持つ芸術家です。
ストーリー自体は暗いものが多いですが、ゾラは「だからこそ私の声を聞いてくれ!」と暗黙のメッセージを作品から私たちに届けてくれます。
ゾラの作品を読む前と後では、見えてくる世界が異なってしまうほどの衝撃を受けるかもしれません。それほどゾラは世界を徹底的に見つめています。
ゾラは非常におすすめな作家です。
以上、「ゾラの小説スタイル・自然主義小説とは~ゾラの何がすごいのかを考える」でした。
※2021年7月9日追記
ゾラ文学の特徴を知るために以下の記事もおすすめです。
フランス文学の王様ユゴーに対する批評が非常にわかりやすくて面白い!
私はレミゼが大好きですが、ゾラも大好きです。
そんな二人の文学観がぶつかり合う批評は非常に興味深いものでした。とてもおすすめです。
注
(注1)自然主義小説とは、要するに自然、人間や事物についての調査である、と私は言った。それはしたがって巧みに考案され、一定の規則に基づいて展開される見事な寓話にはもはや関心を示さない。想像力はもはや用をなさず、導入部、山場、大詰めのいずれにも腐心しない小説家にとっては、筋はほとんど重要ではない。つまり小説家は、現実から削除したり現実に付加したりするために介入することはせず、またあらかじめ抱いた着想の必要性に応じて骨組をそっくりでっちあげることもしないのである。我われは、自然は充足しているというこの一点から出発する。それをあるがままに受け入れなければならない。決してそれを変えたり削り取ったりしてはならない。自然は十分に美しく十分に偉大であるので、それ自体始、半ば、終わりを提供してくれる。事件を想像し、それをもつれさせ、情景から情景にかけて最後の結末へと導くための突発的な事件を準備する代わりに、人生の中から単に一個人や一集団の歴史を取りあげ、行為を忠実に記録するのである。作品は調書となる。それ以上のものではない。その優れた点もっぱら、正確な観察、分析による多かれ少なかれ深い洞察、諸事実の論理的な連結にある。
『〈ゾラ・セレクション〉第8巻 文学論集1865-1896』佐藤正年訳「 演劇における自然主義 」P39
(注2)私が期待するのは次の八つの点である。第一に、現実から取られ嘘を交えず科学的に分析された、肉と骨とを備えた人間をしっかりと舞台に立たせることを期待する。第二に、架空の登場人物、つまり人間記録としてはいかなる価値もない美徳と悪徳との紋切り型の象徴を厄介払いすることを期待する。第三に、登場人物たちは環境によって決定され、固有の気質の論理と結びついた事実の論理にしたがって行動することを期待する。第四に、もはやいかなる種類のごまかしもせず、もはや事物や存在者を刻々に変化させるような魔法の杖を用いないことを期待する。第五に、承認しがたい話を語らないこと、また荒唐無稽な(ロマネスク)出来事―結果としてそれは、作品の優れた部分を破壊さえする―によって的確な観察を損なわないようにすることを期待する。第六に、月並みな処方、すなわち涙や安っぽい笑いに奉仕するうんざりさせる方式を放棄することを期待する。第七に、劇作品は美文調から解放され、大げさな言葉や感情を脱して、真実に基づく高い道徳性、つまり真摯な調査から引き出された恐ろしい教訓を含むことを期待する。最後に、小説において果たされた進化が演劇においても実現し、人々が現代の科学と芸術の源そのもの、すなわち自然の研究、人間の解剖、人生の絵図に戻ることを期待する。こうして、舞台の上ではまだ誰もあえてそれをやってみょうとしなかっただけに、演劇はいっそう独創的で強い正確な調書となるであろう。
『〈ゾラ・セレクション〉第8巻 文学論集1865-1896』佐藤正年訳「 演劇における自然主義 」P58
(注3・4)いわゆる小説的なもの(ロマネスク)ほど危険なものはない。そのような作品は、偽りの色彩で世界を描くことによって空想好きの読者の頭を狂わせ、彼らを無謀な行為の中に投げこむ。「申し分のない姿」に伴う偽善や、花々で飾られたべッドの下で好ましいものにされる醜い行為については言うまでもない。我われにあっては、このような危険は霧散する。我われは人生についての苦い知識を授け、現実について気高い教訓を与える。これがありのままの事態である。その心構えで臨んでいただきたい。もう一度繰返すが、我われは科学者、分析家、解剖学者にほかならず、我われの作品は科学上の著作の確実性や堅固さを備えており、実践的に応用されている。これほど道徳的でこれほど厳しい流派を私は知らない。
『〈ゾラ・セレクション〉第8巻 文学論集1865-1896』佐藤正年訳「 演劇における自然主義 」P42-43
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