(10)恋はあやまちである~ファンチーヌよ、なぜそんなクズ男に惚れてしまったのか・・・

(10)恋はあやまちである~ファンチーヌよ、なぜそんなクズ男に惚れてしまったのか・・・
第一部 ファンチーヌ 第三章 一八一七年に
さて、いよいよ第一部も第三章に突入です。この章ではコゼットの母親、ファンチーヌについて語られます。
このファンチーヌがなぜ悲惨な転落をしなければならなかったのかということについてはすでに当ブログの「ファンテーヌはなぜ悲惨な道を辿ったのか~『I Dreamed A Dream(邦題 夢やぶれて)』」の記事でお話ししていますのでここではお話ししませんが、それにしても、「ファンチーヌよ、なぜそんなクズ男に惚れてしまったのか」と思わずにはいれません。
この章の冒頭で彼女の恋人トロミエスについて語られるのですが、まずそれを皆さんにお目にかけましょう。
トロミエスは、古風な、老学生だった。金持で、四千フランの年金があった。サント・ジュヌヴィエーヴの丘では、四千フランの年金といえば、大した醜聞だ。トロミエスは三十歳の道楽者で、体もよくなかった。皺がより、歯が抜けていた。頭も禿げかかっていたが、自分では平然と「三十で頭、四十では膝」などと、言っていた。消化が悪く、片方の目に涙がたまっていた。しかし、若さが消えうせるのにつれて、彼はますます陽気になっていった。抜けた歯は冗談で、薄い髪は陽気で、衰えた健康は皮肉で補い、涙のたまっている目は、いつも笑っていた。健康が衰えているのに、外面は華やかだった。その青春は年齢より早く逃げ支度をしていたが、整然と退却の合図をし、よく爆笑したりするので、見たところは活気があった。ヴォードヴィル座で、脚本を拒絶されたこともあった。あちこちに、詩のようなものを書いていた。それに、あらゆるものを高慢ちきに疑ってみせたので、これが弱者には、偉力のように思えた。だから、皮肉屋で頭の禿げている彼が、首領だった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P232-233
いかがでしょうか。もうこの時点で「なぜこんな男を・・・」としか思えないのでありますが、よくよく考えてみると、この世界では「なぜこんな男と・・・」という現象が今もひっきりなしに発生していることに思い当たります。
そうです。これはよくあるパターンなのです。
口先ばかりの男がなぜかやたらモテる。
外部からは「なぜあんな軽薄な男が」と思えても、それにはまる女性が後を絶たないのです。
それに「あちこちに、詩のようなものを書いていた。それに、あらゆるものを高慢ちきに疑ってみせたので、これが弱者には、偉力のように思えた。だから、皮肉屋で頭の禿げている彼が、首領だった」というのも肝ですね。
トロミエスはポンコツではありましたが詩を書いていました。現代でしたら詩人や作家を名乗るヒモのようなものでしょう。そして口先の強さは「弱者には偉力のように見えた」というのもポイントです。
つまり、ある一定数の女性にめっぽう強いのがこうしたトロミエス的なクズ男なのです。
案の定、ユゴーもこんなクズ男に恋してしまったファンチーヌをこう弁護しています。
恋はあやまちである。それをみとめることにしよう。ファンチーヌは、あやまちの上に漂う純潔さであった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P240ー241
そう、これはあやまちなのです。それも単なるあやまちではありません。恋はそもそもあやまちなのです。これは生涯変わらず恋(不倫)に突っ走ったユゴーらしい定義でありますが、たしかに、恋は盲目です。恋は合理的な判断でなされるものではありません。
しかもファンチーヌの場合、そこに不純なものはありませんでした。彼女は単にあやまった人間に恋をしたのです。それも純粋に。その恋自体に不純さはなかったとユゴーは強調します。
う~む、これはなんとも微妙なところです。
そんなクズ男に何の疑問もなく尽くしてしまっている時点で、まっとうな恋と言ってよいのか疑問なところでもあります。
作中、トロミエスのクズっぷりが端的に出ているこんなエピソードもありました。
彼は仲間たちの前でいつものように得意げに大演説をぶちます。そしてその締めに「僕に接吻してくれ、ファンチーヌ!」と言っておきながら、間違って別の女性に接吻するのです。
よろしいでしょうか、「間違って」です。
恋する相手への接吻を普通間違うでしょうか。ここに彼の無関心ぶりが見て取れます。
基本的にファンチーヌはグリゼット(お針子)という社会の底辺に近い非常に弱い立場の女性でした。しかも彼女は田舎からパリという大都会に出てきたばかりでした。そんな彼女がコロッとこうしたクズ男に引っかかるというのはたしかに私もわかる気がします。私も地方から東京に学生時代上京しましたので、その雰囲気はよくわかります。ユゴーが彼女を弁護するのもたしかにうなずけましょう。
さらに言うならば、彼女はたしかに純潔で心優しい女性でした。トロミエスグループは男女各4人ずつでそれぞれがカップルを形成していました。そしてファンチーヌ以外の3人の女性はすでに堕落し、はなから遊びだと思って付き合っています。この4人の関係性を見てもファンチーヌの純潔性はたしかにうなずけます。
また、老いさらばえた馬が馬車を引けず立ち往生している姿を見て、「可哀そうな馬」と彼女が同情したのも見逃せません。車夫に乱暴な言葉をかけられ、容赦なく鞭で打たれる様を見て自然と彼女は同情したのです。可哀そうな動物を見て心を痛めるというのはドストエフスキーの『罪と罰』でも出てくる有名なシーンですが、これは人間の良心を示す象徴的な表現であると私は思います。それをこのファンチーヌも有していたのです。
ちなみにでありますが、他の3人の女性はこうしたファンチーヌを馬鹿にしています。こうした対比によってファンチーヌの特異性をユゴーは丁寧に描いています。
やはりファンチーヌの恋はあやまちです。彼女が未熟だったのは否定できません。クズ男を見抜けなかったのは彼女の落ち度です。ですがそれは彼女の性格が悪いからではないのです。むしろ、素朴で純潔であったからこそクズ男に付け込まれたということになりましょう。
最後に、このくそ野郎の最低最悪な置手紙を皆さんにお目にかけてこの記事を終えたいと思います。言葉が汚くなってしまい申し訳ございませんが、これしか言いようのないくそ野郎ぶりなのです。ぜひご刮目ください。
おお、われらの恋人たちよ、
僕たちに両親があることを、知っていただきたい。両親、あなたがたはそれがどういうものかをよくご存じない。幼稚で、正直な民法では、それを父と母と呼んでいます。ところで、両親は嘆き、年老いて僕たちに呼びかけます。爺さんと婆さんは僕たちを放蕩息子と呼んで、僕たちの帰郷を願い、子牛を殺して待っています。僕たちは親孝行ですから、彼らに服従します。あなたがたがこれをお読みになるころは、五頭立ての駿馬は僕たちを父と母の方へ運んでいるでしよう。ボシュエが言ったように、われら退却す、です。われらは出発す、われらは出発せり。われらはラフィットの腕に抱かれ、カイヤールの翼に乗ってのがれる(訳注 いずれも駅馬車会社名)。トゥルーズ行きの駅馬車は僕たちを深淵から救い出してくれる。深淵とは、おお、われらの美女たちよ、あなたがたのことです!
僕たちは社会に、義務と秩序の中に、時速十三キロの割合で、早駆けして帰ります。世間の人と同じように、僕たちが知事や家父や森林看守や国会議員になることは、祖国のために必要なのです。僕たちを尊敬しなさい。僕たちは自分を犠牲にするのです。ただちに僕たちに同情し、すぐさま僕たちの代りを捜しなさい。もしこの手紙があなたがたの心を引裂くならば、この手紙を引裂きなさい。さらば。
二年近くの間、あなたがたを幸福にしてあげたのだ。だからうらまないでください。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル ⑴』P271-272
いかがでしょうか!これでもファンチーヌは彼を憎まないのです!
ただ彼が行ってしまったことを嘆き、生まれてくる赤ちゃんのことを思うのみなのです。
これはミュージカル版の『夢破れて』でもそうなっています。
ファンチーヌは聖人か!
普通こんな捨てられ方をしたら憎しみでどうにかなってしまうのではないでしょうか。ですが彼女はそうではなかった・・・。そしてトロミエスの存在はいつしか薄くなり、彼女の愛は全てコゼットに注がれていきます。愛する対象に全力投球するしかできない存在、それがファンチーヌということなのでしょうか。ふむ、そう考えると、ミリエル司教と同じように、彼女も限りなく高潔な精神を持った希有な存在と見ることもできるかもしれません。
それにしてもトロミエスのクズっぷりにはもうこちらが我慢できなくなります。ちなみにですが、故郷に帰った彼は地方の有力者となり、相変わらずの金持ちぶりと道楽ぶりであったそうです。やってられませんね。ですがこれが当時のフランスの現実だったということです。ファンチーヌの悲恋も特殊なことではありません。当時のパリでは極ありふれた悲劇でありました。だからこそユゴーは彼女を責めないのです。彼女ひとりではどうにもならない社会の闇がそこにあったのです。それをユゴーはこの作品で告発しているのです。
さて、トロミエスのクズっぷりを告発するのはこれくらいでやめておきましょう。ミュージカルではほとんど出てきませんが、原作ではこうなっているのです。それをぜひお伝えしたいと思い今回の記事を書いてみました。いやあ、恋は難しいですね。恋多き男ユゴーがこう語るのですから本当にそうなのでしょう。私達もぜひ気を付けたいものです。
続く
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