キューバってどんな国?~歴史から見るキューバ像⑵-アメリカ植民地時代とキューバ革命 キューバ編③

キューバ編

キューバってどんな国?~歴史から見るキューバ像⑵-アメリカ植民地時代とキューバ革命 僧侶上田隆弘の世界一周記―キューバ編③

前の記事では1902年にキューバがスペインから独立したものの、アメリカの半植民地と化してしまったところまでお話しした。

今回の記事ではそこからキューバがアメリカと戦い、真の独立を果たすまでの歴史をお話ししていきたい。

1902年以降、アメリカの傀儡政権が実権を握り、キューバはアメリカに言われるがままに搾取され続けていた。

そして1952年、事態はさらなる悪化を見せる。

突如クーデターが勃発し、軍人のバティスタが政権を奪取。独裁政治をスタートさせたのだ。

バティスタはただちに秘密警察を放ち、民主政治を求める市民を暗殺。2万人を超える市民が殺害されたと言われている。

そして彼の政策はこれまで以上に輪をかけてアメリカに利益が行くように施されたものだった。

電話や電気、鉄道などのインフラもアメリカが支配し、莫大な利益がキューバからアメリカへ流れることになった。

これまではサトウキビ生産が主な搾取対象だったのだが、バティスタ政権下ではもはやその対象はあらゆるものに広がっていったのだ。

キューバ人はバティスタ政権の出現により、最悪の状態に置かれることになってしまった。

だが、実はこれらはすべてアメリカの思惑通り。

そもそも軍事クーデターそのものがアメリカの支援によって遂行されたものだったのだ。

つまり、そもそもの最初からアメリカとバティスタはグル。

議会があればひとつひとつ法律の制定や政策を決めるのにも手間暇がかかり、度を越した搾取は法の問題上手を出すことができなかった。

だが、議会を解散させ独裁政治にしたならば法律の制定も政策の実行も自由自在。

というわけで白羽の矢が立ったのが軍人のバティスタだったのだ。

キューバをより徹底的に支配するには、アメリカの言いなりの独裁者による政治が最も効率的だったというわけだ。

自由と民主主義を国是とするアメリカも、他国に関してはその原則は適応させないらしい。

バティスタ政権はアメリカの意向通り、以前にもまして自国民を搾取し始めた。

そしてそれに手を貸した政府要人はアメリカからたっぷりの謝礼をポケットにため込んでいったのだ。

その一方、国民の生活は悲惨極まるものだった。

アメリカの砂糖会社に雇われたキューバ国民は早朝から日暮れまでカリブの炎天下の中で重労働をして生きていくのがやっと。

砂糖が収穫できるのは1月から4月のみ。収穫がない5月から12月は収入も途絶え、会社からの借金で生活するしかない。

結局その借金も容赦のない利息によって返せる見込みもなくなり、ますます貧しくなっていく。

こうしてアメリカ企業の奴隷としての生活が始まっていくのだ。

餓死寸前の困窮、水道や電気のインフラも整備されない最悪の衛生状況。

キューバの子どもたちの3分の2は学校にも通うことができなかった。

キューバはそんな悲惨な状況に立たされていたのだ。

キューバ国民を売り、自分のポケットを膨らますことしか考えていないバティスタ政権。

そしてそんな状況にNO!を突き付けたのがあのフィデル・カストロだったのだ。

キューバ革命はここから始まっていく。

1952年、当時25歳だったカストロはバティスタを社会保安法違反で告発。しかし裁判所がこれに応じないのがわかると、カストロは武力での政権打倒を決意。

翌1953年にはバティスタ軍の拠点であるモンカダ兵営を襲撃した。

しかし軍事の訓練も受けていないカストロたちはあっという間に制圧され、逮捕されることとなった。

カストロは裁判にかけられ、弁護人も立てずすべて自分で弁護した。

なぜならカストロの職業は弁護士。他人に頼るより自らの言葉で語りかけることを選んだのであった。

そこで生まれたのが「私を断罪せよ。それは問題ではない。歴史は私に無罪を宣告するだろう」という言葉だった。

裁判は非公開だったが記者の一人がこの言葉を速記し、地下運動によって印刷され人々の間に広まっていくことになる。

結局カストロは禁固15年の実刑判決を受け刑務所に収監されることになってしまうのだが、カストロの言葉に共鳴したキューバ国民は多く、カストロの恩赦を求める声は政府も無視できないほどになっていった。

そのためカストロは2年で出獄し、メキシコへ亡命。そこで本格的な武装革命の訓練に入る。

そしてそこでたまたま出会ったのがあの、チェ・ゲバラだったのだ。

歴史はつくづくおもしろい。この偶然が世界を変えるほどの出来事になるとはこの時誰が予想できただろうか。

ゲバラはアルゼンチンで生まれた革命家・・・と言いたいところだがはじめから革命家だったわけではない。

ゲバラは裕福な家庭に生まれ医学部に進み、学生時代に南米を旅したことがきっかけで社会正義について考えるようになっていった青年だった。

その旅は『モーターサークル・ダイアリーズ』というゲバラの日記をもとにした著作に記され、同じ題で映画化もされている。

そしてゲバラは大学を卒業し医師となった後、不平等に満ちた世の中を変えるため革命家としての道を志す。

アルゼンチンを飛び出し各地を転々とした後にメキシコへ渡り、そこでカストロとの運命的な出会いを果たすのであった。

さて、カストロとゲバラの運命的な出会いの後、彼ら若き革命家たちは軍事訓練を積み着々とキューバ革命の準備を進めていた。

そして1956年、ついにキューバへと上陸する日がやってくる。

彼らは12人乗りの船に82人で乗り込み、キューバを目指した。

彼らの革命はここからスタートしたのだ。

彼らの乗った船グランマ号の実物

実際に見てみると定員の12人が乗ったとしてもぎりぎりくらいの小さな船。

そこに武器弾薬をもった82人の屈強な男たちが乗っていたとは信じられない。

キューバ人は楽観的だとよく言われるが、その中でもカストロは特に強烈な楽観主義者だったと言われている。

きっとこのキューバ上陸作戦でもその楽観主義は遺憾なく発揮されていたことだろう。

そうでなければとてもじゃないがこの船に82人乗るという半分狂気のような発想は出てこないだろうと思ってしまう。

案の定、キューバ上陸の日は天候は大荒れ。予定していた上陸地点にたどり着くことさえできず、ほぼ漂流と言ってもいいほどの状況となってしまう。

船酔いにも苦しめられ、やっとのことで上陸したと思えばキューバ本国隊との約束の日もとうに過ぎ、援軍はひとりもいなかった。彼らはすでにバティスタ軍に壊滅させられていたのだ。

さらにはそこにバティスタ軍が待ち伏せしており、彼らは一斉攻撃を受けることになってしまった。

万事休す。

絶望的な状況の中、なんとかその死地を脱出し生き残ったのはわずか12人。

散り散りになって逃げのびた彼らは集合場所のシエラマエストラという山に命からがら到着する。

ゲバラがそこでカストロと再会したのはなんと上陸から16日後。

さすがのゲバラもこの惨状に意気消沈するも、カストロはこの時こう語ったと言われている。

「これで独裁者の命運は尽きた」

そしてそれを聞いたキューバ人たちが歓喜し銃を手に踊り始めたという話が残っている。

これがキューバ人の底抜けの楽観性のなせる業だ。

これだけ手痛い革命の幕開けにもかかわらず、彼らは革命の成功をまったく疑っていなかったのだ。

これに対しアルゼンチン人であるゲバラは「こいつら正気か?」と頭を疑ったという。

しかし、カストロの展望はまさに現実のものとなっていく。

ジャングルと言ってもいい山の中に拠点を作り、ゲリラ戦を展開していく革命軍。

国民全体を味方につけたカストロたちは徐々にその勢力を増やしていく。

そしてキューバ上陸から3年も経たない1959年にはなんと、独裁政権を打ち破り革命を成功させてしまったのだった。

この戦いの顛末は記事の分量上ご紹介できないが、まさに奇跡と言ってもいいほどの戦いっぷりだった。

炎天下のジャングルでゲリラ戦を戦う彼らの底知れない強さ。

強靭な肉体と理想に燃えた圧倒的な精神力がなければとうてい不可能なものだろう。

そして社会の正義を目指した彼らに共鳴していくキューバ国民。

キューバ革命の成功はまさに奇跡と言うにふさわしい勝利であった。

たった12人から始まった彼らがバティスタ政権を本当に打ち倒してしまったのだ。

こうしてバティスタ政権による独裁時代は幕を閉じ、キューバは新しい時代へと踏み出していく。

そう。ここからアメリカとの対立の時代が幕を開けていくのだ。

次の記事ではキューバ危機と社会主義国家としてのキューバについてお話ししていきたい。

続く

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