MENU

生きる意味とは?絶望の時代にどう生きる―ショーペンハウアーを読んで感じたこと

ショーペンハウアー
目次

時代精神を掴んだショーペンハウアー

これまで6回にわたってショーペンハウアーについて記事を書いてきました。

ショーペンハウアー(1788-1860)Wikipediaより

悲観思想、厭世思想の大家として世界中に大きな影響を与えた大思想家ショーペンハウアー。

厭世思想(ペシミズム)の大家ショーペンハウアーとドストエフスキーの記事でお話ししましたように、彼はこの世を「最悪の世界である」と考え、そこから「芸術的静観と仏教的涅槃」によって解脱するべきだと述べます。

ショーペンハウアーはこの世を最悪なものと見ます。

このブログでも紹介してきましたように、彼は『幸福について―人生論―』や『読書について』でこの社会の俗悪ぶりを鋭く批判します。金儲けや地位や名誉のために粗悪なものを大量に作り出し、愚かな大衆はそれを喜んで買い求め、俗悪な人間がますます儲ける。この社会においては真にいいものが全く無視されていると彼は批判するのです。

たしかに『幸福について―人生論―』『読書について』ではかなり辛辣な意見が述べられています。もし彼の言うことが世の中に全面的に適用されるとしたら、あらゆるものがその活動を停止せざるを得なくなるでしょう。

彼の言葉を聞いていると、そのうち本当に世の中が嫌になってきてどんどん絶望的な気持ちになってきます。

彼の思想は世界中に多大な影響を及ぼしました。

今の私と同じように、世の中が嫌になり絶望的な気持ちになった人間がどれだけいたか測り知れません。

「死んだら無」「どうせこの世なんて」と虚無感を抱えた人がどれだけいたことでしょう。

ただ、これは何もショーペンハウアーのせいというわけではありません。彼がそういうことを言ったからそうなったのではないと私は思っています。

ショーペンハウアーは時代の風潮、時代精神を掴み、それを言葉や哲学にして人々に掲示したということではないかと私は思うのです。

世の中が嫌になり絶望的な気分に落ち込みやすい社会状況がすでにこの世界にあった。しかし個々の人間は苦しみながらもその感情が一体何なのかははっきりとはわからない。何か漠然とした苦悩や怒りが人々の内にあった。

その言葉や形に表せない何とも漠然とした感情をショーペンハウアーは時代から掴み、絶妙に言い表したのだと思います。そしてその言葉に多くの人が共鳴したのではないでしょうか。

ショーペンハウアーの思想が流行したのは19世紀中頃からです。フランス革命からナポレオン戦争を経てヨーロッパ中がまだまだ混乱していた時代です。これまでの秩序が失われ、何が良くて何が悪いのかがあっという間に入れ替わり、何を信じていいのかわからない混沌とした世界でした。

そして新興資本家が次々と現れ、格差が一気に広がった時代です。金があれば何でもできる。金のためには何が何でも勝ち抜かなければならない。そして一度負のループに落ち込んでしまえばもう抜け出すことはできない。金のある人間の横暴、そして無いものの貧困や堕落が世の中を覆っていた時代です。

いくら勉強して知識を蓄えても、そこに自分の場所はない。夢や希望を持って学んだはずの知識や哲学も所詮世の中に出れば役に立たない。学問しても働き口もないのです。もし働くとしてもそれまで嫌悪していた新興資本家と同じことをしなければならない。もしそうなれたとしたらまだ抜群にいい方で、大抵は労働者として搾取されて終わりです。

実はあのツルゲーネフも学生時代に大学教授を志していました。しかしロシアの社会状況によってその道は閉ざされてしまったのです。ツルゲーネフが文学の道に進んだのも大学教授の道が閉ざされたことも大きな影響があったのです。

当時のヨーロッパ、特にロシアでは時代の閉塞感が私たちの想像を絶するものでした。秘密警察が暗躍し検閲も厳しく、密告やスパイが横行していました。そういう時代だからこそドストエフスキーも政治犯としてシベリア送りにされてしまったのです。

そんな人々に「この世は最悪だ」「死ねば無だ」「世の中には俗物が溢れていて真にいいものが捨てられている」という言葉はどのように響くでしょうか。

ここが当時の時代背景を考える上で非常に重要ではないかと私は思うのです。

ドストエフスキーもツルゲーネフもトルストイもこうした絶望の時代に生きていた。そしてそんな中で自分の思想を文学作品に託して世界にぶつけていた。

それは迫力が違うのは当然だと思いました。絶望の中どう生きていくのか、どう打破していくのか、世の中は最悪だとしてそれでもなお生きる意味はどこにあるのか、それを問うのが彼らの文学だった。そう考えると彼らの作品に込められたものがまた違って見えてくるような気がします。

ショーペンハウアーの悲観思想は毒かワクチンか・・・

さて、最後にもうひとつ。上の副タイトルにもありますようにショーペンハウアー思想は毒なのかワクチンなのか・・・このことは非常に重要な点だと私は感じています。

というのも、ショーペンハウアーは後のニーチェと同じく、世俗的なもの、俗物的な商業世界を激しく非難します。

ざっくりと言い換えるなら、

「この世界はわかってない人間ばかりで低俗極まりない。愚かな大衆は金儲けや名誉欲に駆られた俗物たちにいいように騙されている。しかし大衆はそれに気付かない。いや、自ら進んでそれを幸せだと信じている。人間における真の価値をわかっている人間はあまりに少ない。なんて嘆かわしい世の中なのだ」

ということになります。そしてわかっている人間わかってない人間に不当に扱われ、受難の憂き目に遭うだろうと予言します。

たしかに世の中そういう面もあるかもしれません。資本主義の世界、いや世界そのものはきれいごとだけでは済みません。

しかしショーペンハウアー思想の危険なところはこの「わかっている人間」と「わかってない人間」を二分するところにあるような気がするのです。

どういうことかと言いますと、ショーペンハウアー思想に傾倒すると次のようなことが起こりえます。

「私は世の中を知っている。世界は低俗だ。周りの人間は何もわかっちゃいない。だが、私は真に正しいものを知っているし、行いも正しい。周りの人間はあまりにひどい。こんな人間たちとなど一緒にいたくもない。あぁ、なんて憎たらしいのだ。なんでこんな奴らと私は・・・あぁ!私は不当に扱われている!なぜ正しいはずの私がこんな目に遭うのだ!なぜ私のような人間がこんな惨めな思いをしなければならないのだ!憎い・・・!この世界が憎い・・・!」

自分はわかっている人間であり、周りはわかってない人間だと二分することで、相手が敵になっていってしまうのです。

たしかにショーペンハウアーの言うように、そういう仕組みによって世界が悪い方向へと向かって行ってしまうのは確かかもしれません。しかし、「自分はわかっていて正しいが、他の人間は低俗だ」と決めつけてしまうのは、ただただ攻撃性を増してしまうのみになってしまうのではないでしょうか。

これはありがちですが非常に危険なことだと思います。

世の中そんな単純ではありません。簡単に善悪で割り切れるはずもなく、どれだけ多くのグレーゾーンがあるかは私たち自身が一番感じている部分ではないでしょうか。

「自分はわかっている」、「自分は正しい」、「なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのだ。おかしいのは奴らだ

こうした精神状態は一歩間違えばかなり危険な状態へと向かいます。悲劇はこういうところに起こります。ロシアではそれがやがてテロリズムと結びつき、皇帝の暗殺やテロが相次ぐ時代になりました。日本でも悲惨な事件が今でも起きていますよね。

ショーペンハウアーの思想をこう受け取ってしまうとそれは毒にもなってしまうでしょう。

世の中にはおかしいことがたくさんあります。批判しなければならないことも当然たくさんあります。ですが「自分は正しい」と独善的になり過ぎてしまうとそこにもまた思わぬ罠があるのです。

そして「世の中は最悪だ、死んだら無なのだからどう生きようが関係ないではないか」という虚無主義の絶望へと落ち込んでいきます。

ショーペンハウアーを読むと気分が重くなります。正直、彼の記事を更新している期間、たしかに気が沈んでしまいました。

ですが、ショーペンハウアーは何も世の人々に絶望を運ぶために思想を説いたわけではありません。

彼の主著『意志と表象としての世界』の解説でも次のように書かれていました。

厭世主義、非合理主義、自殺の哲学、女性の敵、反動主義、性愛の哲学、頽廃の哲学―ショーぺンハウアー哲学にはさまざまなレッテルが貼られ、それらが一人歩きすることによって、無数の顔をもった妖怪のような姿で読者を幻惑する。そうした一般評価がほんとうに的を射たものであるかどうかは、読者諸賢が本書を直接読むことによって確認してくださるであろう。

中央公論新社、西尾幹二訳『意志と表象としての世界Ⅰ』P1

ショーペンハウアーは難解過ぎて誤解されがちなのです。

ですので彼の思想が完全に理解される前に、その悲観的な思考が読者を圧倒してしまうのです。

そしてそれに飲み込まれてしまうと、先ほど申しましたように毒となってしまうのです。

ですが、もしそうしたショーペンハウアーの思想を摂取し、それに耐えることができたならそれは厳しい世の中に対するワクチンともなります。

ショーペンハウアーは世のあり方に厳しいメスを入れ、私たちが気付かない、あるいは見ようとしない世界の姿をはっきりと私達に突き付けます。

もしそれに対する免疫を持っていなかったら、私たちはそれに対して全く無防備ということになり、パニックを起こしてしまうことでしょう。

しかし、「世界とは、人生とは、幸福とは」とショーペンハウアーの思想を摂取することでそれに対する免疫を持つことができます。

そして彼の悲観主義、厭世思想を知った上で、「ではどうやってそれを乗り越えていくのか、最悪の世界だとして、それでも私はなぜ生きるのか」と私たちは考え始めるのです。

悲観主義に沈むのはあっという間です。現実の辛い環境に置かれればどんな強い精神を持っていたとしても押しつぶされてしまっても全くおかしくありません。

しかしそれでもなお考え続け、生きていく。そのもがきこそショーペンハウアーとの戦いになるのです。

ツルゲーネフもトルストイもドストエフスキーもなぜ生きるのかということにストレートにぶつかっていきます。

フランスの文豪エミール・ゾラもショーペンハウアーの悲観思想と戦っています。

そして今私が読んでいるロシアの偉大な劇作家チェーホフもまさしくショーペンハウアーと真向かいになっています。特に彼の代表作『六号病棟』『退屈な話』『ともしび』ではまさしくショーペンハウアー思想が物語として語られていきます。この作品におけるチェーホフの筆は鬼気迫るものがあります。彼がどれほどショーペンハウアーと真向かいになっていたかが感じられます。

このタイミングでショーペンハウアーを読むことができて本当によかったなと思います。

彼の本を読み、考え、記事にするのはなかなかに厳しい時間でした。普段の数倍疲労感がたまり、気持ちも落ち込みました。

しかしだからこそショーペンハウアーの悲観主義を乗り超えねばならぬとも感じました。ドストエフスキーやトルストイはその偉大なる先達なのだと改めて感じたのでありました。あの時代の文豪たちがなぜあそこまで本気で「生きること」について思索し続けていたのかが少しわかったような気がしました。

絶望の時代だったからこそ彼らは「生きること」に真剣になっていたのだと。そしてその葛藤を文学にぶつけていたのだと。

ショーペンハウアーは答えを与えてくれません。

「思索せよ。言われたことを鵜呑みにしてはならない。じっくりと自分の頭で考えるのだ。」

ショーペンハウアーは改めて私に大きな課題を与えてくれたように思えます。

絶望の時代にどう生きるのか。

これは今まさしく私たちが直面している問題です。

コロナ禍において「世の中何かおかしい。これでいいのか。自分は何をすべきなのか」と多くの方が考えられたと思います。そして同時に「何をしても事態は変わらず、何をしても無駄。何を信じていいかわからない」というという無力感、絶望感を感じた方も多いのではないでしょうか。

私はそのどちらも感じました。いや、今も感じています。

絶望の中でどう生きるのか。なぜ私たちはこの世を生きねばならないのか。

ショーペンハウアーを読んでそのことを改めて強く意識しました。

このタイミングでショーペンハウアーを読めて本当によかったなと思います。

次の記事ではドストエフスキー亡き後のロシアで活躍したチェーホフについてお話しします。

先程述べましたようにチェーホフはショーペンハウアー思想に強い影響を受けています。

チェーホフを読むとショーペンハウアー思想が世の中にどう受け入れられていたかが非常にわかりやすいです。

ぜひ引き続きお付き合い頂けましたら嬉しく思います。

以上、「生きる意味とは?絶望の時代にどう生きる?―ショーペンハウアーを読んで感じたこと」でした。

次の記事はこちら

あわせて読みたい
帝政ロシア末期を代表する作家チェーホフ―ドストエフスキー亡き後のロシアを知るために チェーホフを学ぶことで当時の時代背景や、ドストエフスキーやトルストイがどのようにロシア人に受け止められていたかが見えてくるようになります。これはドストエフスキーを学ぶ上でも大きな意味があります。 そして何より、チェーホフ自身が圧倒的に魅力的な作家であること。これに尽きます。

前の記事はこちら

あわせて読みたい
ショーペンハウアー『読書について』あらすじと感想~良い本とは?私たちは何を読むべきか 読書は質か量か。何を読めばいいのか。そもそも読書に意味はあるのだろうか。なぜ読書をしなければならないのか。 そんな読書についての疑問にショーペンハウアーが鋭い意見を述べていきます。かなり辛口です。ショーペンハウアー節を味わうのに格好の一冊です 「本を読むこと」についてはっとさせられるような言葉と出会うことになるでしょう

関連記事

あわせて読みたい
ショーペンハウアーおすすめ4作品と解説記事一覧~仏教にも影響を受けたドイツの厭世思想の大家 この記事ではショーペンハウアーのおすすめ作品を4本と、番外編ということで解説記事と参考記事を6本紹介していきます。 彼の本を読み、考え、記事にするのはなかなかに厳しい時間でした。普段の数倍疲労感がたまり、気持ちも落ち込みました。 しかしだからこそショーペンハウアーの悲観主義を乗り超えねばならぬとも感じました。ドストエフスキーや、チェーホフ、ゾラはその偉大なる先達なのだと改めて感じたのでありました。あの時代の文豪たちがなぜあそこまで本気で「生きること」について思索し続けていたのかが少しわかったような気がしました。
あわせて読みたい
僧侶が問うコロナ禍の日本~死と病が異常事態になった世界で 今本当に見るべきことは何か。問題の本質はどこなのか。私たちは目先の不安や憎悪に流されることなく、冷静にこの事態を見ていかなければなりません。 伊藤計劃さんの『ハーモニー』はそんな今の日本に警鐘を鳴らしてくれている作品だと私は思います。こういう時代だからこそ文学の力、言葉の力は私達に大きなものの見方を与えてくれるのではないかと私は信じています。
あわせて読みたい
厭世思想(ペシミズム)の大家ショーペンハウアーとドストエフスキー 不思議なことにドストエフスキーその人にはあまりショーペンハウアーの影がありません。同時代のツルゲーネフやトルストイは彼に強い関心を持っていたのにドストエフスキーはそうではなかった。この事実は逆に興味をそそります。 また、ショーペンハウアーは仏教の影響を受けた哲学者としても有名です。いつか読んでみたいと思ってはいたのですがそれが延び延びになってしまっていた哲学者です。 これもいい機会ですのでこれよりショーペンハウアーを読んでいきたいと思います。
あわせて読みたい
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』あらすじと感想~やはり難解!ドイツの大哲学者の主著 『意志と表象としての世界』はかなりの大作です。これを完全に理解するのは当時の人たちにとっても現代の私達にとっても至難の業です。 しかも驚くべきことに著者のショーペンハウアー自身が序文でとてつもないことを述べるのです。 彼はまず言います。この本は2回読まねばわからぬと。 こんな難しくてしかも長い本を2回も読めと。しかも1回目はまずわからないだろうから忍耐が必要だと最初から宣言するのです。さすがショーペンハウアー、言うことが違います。 他にも驚きの言葉がどんどん出てきます。やはりこの作品は一筋縄ではいきません
あわせて読みたい
ショーペンハウアー『幸福について』あらすじと感想~仏教に強い影響を受けたショーペンハウアー流人生論 「幸福は蜃気楼である。迷妄である」 『幸福について』というタイトルから「人生を幸福なものにするための方法」を教えてもらえるのかと思いきや、いきなり幸福など幻に過ぎぬとばっさり切ってしまうあたりショーペンハウアーらしさ全開です。 この本ではショーペンハウアーが「人々の信じる幸福の幻影」を木っ端みじんにし、どう生きればよいのか、真の幸福とは何かを語っていきます。
【日々是読書】僧侶上田隆弘の自問...
404: ページが見つかりませんでした | 【日々是読書】僧侶上田隆弘の自問自答ブログ 本を愛する浄土真宗僧侶です。2019年「宗教とは何か」をテーマに13カ国を巡り、全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/親鸞とドストエ...
あわせて読みたい
ショーペンハウアー『自殺について』あらすじと感想~なぜ自殺はいけないのか―キリスト教の死生観への反論 当時のキリスト教の教義では自殺が禁じられていて、自殺したものは正規の葬儀も行ってもらえず罪人として扱われてしまっていたのでした。 ですがショーペンハウアーはこれに疑問を投げかけます。この論稿はそうしたショーペンハウアーの自殺についての考察が展開されていきます 150年以上も前に書かれた本ですがこの本に書かれた問題は今もなお重大な意味を持っています。
あわせて読みたい
ザフランスキー『ショーペンハウアー』あらすじと感想~時代背景や家庭環境まで知れるおすすめ伝記 難解で厳しい哲学を生み出した哲学者ショーペンハウアーだけではなく、人間ショーペンハウアーを知れる貴重な伝記です。この本が傑作と呼ばれるのもわかります。
あわせて読みたい
ゾラ『生きる歓び』あらすじと感想~ゾラ流のショーペンハウアー的ペシミズムへの回答とは 話の大筋としては主人公の少女ポリーヌがダメ人間ラザールに恋をしてしまう可哀そうな物語ではありますが、そこはゾラ師匠。単なる優しい女の子の残念な恋愛で終わらせません。 実はゾラはラザールに当時大流行していたショーペンハウアー的なペシミズム(悲観主義、厭世主義)を意図的にまとわせ、それに対置する形で生きる歓びを体現するポリーヌを立たせているのです。 そうしてゾラは当時大流行していたペシミズムに対する反論を述べようとしているのでした
あわせて読みたい
「すべての者は必ず死に至る」―お釈迦様の死生観とは~お釈迦様のことばに聴く 「すべての者は必ず死に至る」―お釈迦様の死生観とは~お釈迦様のことばに聴く みなさんこんにちは。新年1月もあっという間に終わり2月が始まりましたね。 さて、本日...
あわせて読みたい
中村元訳『ブッダのことば』を読む~お釈迦様のことばに聴く 最古のお経のひとつであるこの『ブッダのことば(『スッタニパータ』)』はお釈迦様が存命当時実際に説かれていた教えに最も近いとされています。 シンプルだけれども心に響く深い味わいがある、そんなお経がこの『ブッダのことば』です。 有名な「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉もこのお経で説かれています。私も大好きな経典です。
あわせて読みたい
中村元訳『ブッダの真理のことば』概要と感想~簡潔で心に響く原始仏教のエッセンスを知るならこの1冊! 『真理のことば』はひとつひとつの文が簡潔で、非常にわかりやすいです。哲学的なものというより生活実践としての言葉がそのほとんどを占めます。ですのでとてもわかりやすく、すっと心に染み入ってきます。 そうしたわかりやすさ、率直さ、簡潔さがあったからこそこのお経が世界中で親しまれることになったのです。 仏教入門としてこのお経は非常に優れています。お釈迦様が説かれていた教えに触れるにはこのお経が非常におすすめです。
あわせて読みたい
自分らしさ・ありのまま讃美の危険性とは~「自分の思いのままにできること」が人生の幸せ? 前回の記事「他人の過失を見るなかれ。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ―お釈迦様のことばに聴く」ではお釈迦様のことばをもとに、なぜ人は他者を攻撃せずにはいられないのかということを考えました。 今回の記事では引き続きこの言葉を参考に、なぜ人は他者に寛容でいられないのかをもう少し踏み込んで考えていきたいと思います。
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次