幸せになるためには何をすべきか~ショーペンハウアー『幸福について―人生論―』より

イギリス・ドイツとドストエフスキー

はじめに

前回の記事でショーペンハウアーの述べる幸福とは何かということをお話ししました。

「私達が感じる幸せは私たちの内部で感じる快不快によって決まる。つまり、私たちが私たちの外部のものをどう感じるかによって幸せかどうかは決まる。よって外的要因たる財産や地位、恋そのものに幸せは宿らない。

『われわれのあり方、人柄』こそ幸福の根本要因である。

そしてそれは外的な環境要因、運命に隷属するものではなく、根本的に自由であり、誰からも奪い取られることもない。だからこそ人柄、人生のあり方がそれぞれの幸福の真の要因なのだ。」

ショーペンハウアーの幸福論をざっくりまとめると上のようになります。

「ふむふむ、ショーペンハウアーの言いたいことはわかった。でも、具体的に私たちはどうしたらよいのか。私たちは幸せになりたくて悩んでいるのに、『幸せなんて外にない。あなたの人柄が幸せの条件だ』と言われても何の解決にもならないではないか」

そんな疑問が浮かんでくるかもしれません。

ですがご安心ください。ショーペンハウアー先生は私達が何をすべきかをこの本ではしっかり教えてくれます。

今回の記事では幸福になるために私たちは何をすべきかをショーペンハウアーに聞いていきたいと思います。

幸せになるために何をすべきか~ショーペンハウアー『幸福について―人生論―』より

われわれとしては、与えられた人柄を最大限に活用するだけである。したがって柄に合った計画だけに努力を集中し、柄に応じた修行の道に励み、他のいっさいの道を避け、柄にぴったりとくる地位や仕事や生き方を選ぶことである。

異常な体力に恵まれた逞しい人間が、外部の事情のために、座業すなわちこまごまとした手仕事に従事させられたり、自分に恵まれていない全く別種の能力を必要とするような研究や頭脳労働までさせられたりして、そのためかえって自分の秀でた能力を活用しないでいるとすれば、一生不幸な思いがすることであろう。

しかし知的能力の圧倒的に秀でた人が、知的能力を必要としないくだらぬ仕事や、まして思う存分力の発揮できない肉体労働などで、その能力を発達させもせず活用もせずにほうっておかなければならないとしたら、一層不幸な思いがするだろう。とはいえこういった場合、ことに若いときには、ありもしない能力を過信する危険は避けるようにするがよい。
※適宜改行しました

新潮社、橋本文夫訳『幸福について―人生論―』P19-20

あの大哲学者ショーペンハウアーがまず言うのは柄に合った生き方を選べという至極真っ当なことでした。少し意外です。

そして彼はこう続けます。

富の獲得に努力するよりも、健康の維持と能力の陶冶とを目標に努力したほうが賢明だということも明らかである。だが、そうかといって必要で適当な生活の資を得ることを怠るべきだなどと誤解してはならない。

けれども富と言いうるほどの富、すなわち有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。金もちに不幸な思いをしている人が多いのはそのためである。なぜ不幸な思いをするかというと、本当の精神的な教養がなく、知識もなく、したがって精神的な仕事をしうる基礎となるような何らかの客観的な興味を懐いていないからだ。

というのは、現実の自然な欲望を満足させる以外に、富によってなしうることといえば、われわれの本当の幸福感にとっては影響の少ないことばかりで、むしろ大きな財産の維持のために不可避的に生ずる数々の心労のために、かえって幸福感が害われるくらいである。しかし何といっても、人としてのあり方のほうが、人の有するもの、、、、、に比して、われわれの幸福に寄与することがはるかに大であるにちがいない。

それにもかかわらず人間は精神的な教養を積むよりも富を積むほうに千万倍の努力を献げている。だからすでに得た富を殖やそうとして、席の暖まる暇もないほどに忙しく、蟻のようにこつこつと、朝から晩まで骨を折っている人が実に多い。

富を殖やすための手段の世界を自己の視界とし、この狭い視界からそとに出れば、何一つ知らない。精神はからっぽで、そのため、ほかのものはいっさい受けつける力がない。最高級の享楽、すなわち精神的享楽は、高嶺の花である。

暇はかからないで金のかかる刹那的・感能的な享楽を合間合間にむさぼって、最高級の享楽の埋め合せをしようとするけれども、一向埋め合せにはならない。

それでさてご臨終の時の総決算はといえば、運がよければ、事実、莫大な黄金の山を積んで、相続人に遺していくが、相続人がこれをもっと殖やすか、それとも湯水のように使ってしまうか、知れたものではない。だからこんな一生は、いかにも真剣な勿体ぶった顔つきで過した一生ではあっても、赤い頭巾に鈴つけて道化者でございと世を渡った星の数ほどある人間と、ばかさ加減は変らない。

新潮社、橋本文夫訳『幸福について―人生論―』P20-22

ここでショーペンハウアーは富ではなく精神的教養を積めと述べます。真の幸福は富を追い求めても達成されるものではないと言うのです。

だから人の本来有するもの、、、、、、(訳注 すなわち人のあり方)こそ、その人の人生の幸福のために最も本質的なものなのだ。

ただ人の本来有するものが通常はごく僅かであるために、生活苦との闘いを切り抜けた人たちも、結局は、まだ生活苦に喘いでいる人たちと同じ不幸な思いをしているのが大多数である。

内面の空虚、意識の稀薄、精神の貧困が、彼らを駆って社交界に走らせるが、さてこの社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。類は友を呼ぶとしたものなのだ。そうして集団的に娯楽や慰安をあさる。

娯楽や慰安も、はじめは感能的な享楽に、各種の遊興に、これを求めるが、あげくの果てには淫蕩にこれを求めるようになる。

金もちに生れてきた長男殿が莫大な遺産をあっという間に使いきってしまうことがよくあるが、こうした手のつけようもない濫費の原因は、事実、今言ったような精神の貧困と空虚とから起きる退屈以外の何ものでもない。

この種の青年は外面的には金もちに生れても、内面的には貧乏に生れたわけで、何でもかんでも外部から、、、、取り入れて、外面的な富に内面的な富の代りをさせようと一生懸命になったのだが、どうにもならなかったわけである。白髪頭の老人が若い娘の発散する香気に触れて若返りを試みるのと似たり寄ったりだ。天罰覿面てきめん、とどのつまりは内面の貧困が外面の貧困までも引き起したわけである。
※適宜改行しました

新潮社、橋本文夫訳『幸福について―人生論―』P22-23

「内面の空虚、意識の稀薄、精神の貧困が、彼らを駆って社交界に走らせるが、さてこの社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。」とショーペンハウアーは切って捨てます。この辺りはニーチェにも通じていく思想ですね。

才知に富む人間は何よりもまず苦痛のないように、痛めつけられることのないように努め、安静と時間の余裕とを求める。そのために静かでつつましやかな、しかも誘惑のなるべく少ない生き方を求め、したがって、いわゆる世の常の人間というものに多少近づきになってから、むしろ隠遁閑居を好み、ことに精神の優れた人であってみれば、いっそ孤独をすら選ぶであろう。

それはそのはずだ。人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。

新潮社、橋本文夫訳『幸福について―人生論―』P37

才智に富む人間は外部からの刺激を求めず、安静と時間の余裕を求め、一人静かにその幸福を楽しむ。

静かで誘惑の少ない、つつましやかな生活が苦悩の少ない賢い生活であるとショーペンハウアーは述べるのです。

ですが多くの方はこう思うかもしれません。

「そんな生活なんてつまらない。私はそんな味気ない生活なんてごめんだ」と。

ショーペンハウアーはそんな声を見越してこうも言います。

われわれの実際の現実生活は、煩悩に動かされるのでなけれぱ、退屈で味気ないものである。さりとて煩悩に動かされれば、たちまち苦痛なものになる。

新潮社、橋本文夫訳『幸福について―人生論―』P53-54

この言葉を読んで驚かれた方も多いかもしれません。「煩悩なんて、まさしく仏教じゃないか」と。

ショーペンハウアーは仏教に強い影響を受けています。この箇所はまさにそれが端的に見える言葉となっています。

たしかに煩悩に根差した娯楽や遊興、美食、放蕩など感覚的な快楽、刺激がなければ退屈で味気ないと思ってしまうかもしれません。ですがその煩悩が結局苦しみを生み出し、その苦しみを癒そうとしてまた快楽や刺激に耽り、新たな苦しみを再生産するという苦しみの連鎖が生じることになるのです。

内面の空虚から生ずるのが、ありとあらゆる種類の社交や娯楽や遊興や奢侈を求める心である。これがために多くの人が浪費に走り、やがて貧困に落ちるのである。こうした貧困を最も安全に防ぐ道は、内面の富、精神の富である。

新潮社、橋本文夫訳『幸福について―人生論―』P36

こうした心の貧しさ、苦しみを防ぐにはやはり内面の富、精神の富を高めていくしかない。やはりショーペンハウアーはそう説くのです。

「精神修養に励みなさい」

「自分の心を豊かにしなさい」

彼の説をざっくりとまとめるとそういうことになります。

この本では幸せの源泉とは何か、そしてなぜその幸せが多くの人にやってこないかを述べます。そして幸せになるために必要なのは内面の富であると断言します。

ですが、実はこの本には私たちが具体的に何をすべきかということが事細かには書かれていません。ショーペンハウアー流に言わせれば、「それは自分で考えなさい」ということになるのではないかと思われます。

「幸せとはこうである。これをすればあなたは幸せになれる。だからこうしなさい」と言われて「はい、やってみます。これで幸せになれるのですね」と従ってしまえばそれはもうショーペンハウアーの説く幸せとは全く正反対のことになってしまうのです。

言われたことを鵜呑みにしてそれを幸せだと思い込んでしまったら、「外部の要因」を幸せだと思っているのと何も変わりません。

「人柄、内面の富」が幸福の条件。だがそれを磨くには人それぞれの「有しているもの」や境遇があります。それこそ千差万別です。自分にとって何が幸せで、何が自分の心の富になるのかは自分で考えなければならないのです。

「これをやればあなたは幸せになれる」という単純なものではないのです。ショーペンハウアーはあくまで目指すべき方向を示すだけです。そこから先どう進むかはそれぞれが考えなければならない。それが外部に幸せを求めるのではなく、自らの内部にこそ幸せがあるとする道です。

さすがショーペンハウアー先生。一筋縄ではいきません。

ここではそれらすべてを紹介することはできませんが、興味を持った方はぜひこの本を読んでみてください。面白い発見がたくさんあると思います。

ショーペンハウアーの中でも特に読みやすい本です。とてもおすすめです。

以上、「幸せになるためには何をすべきか~ショーペンハウアー『幸福について―人生論―』より」です。

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