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ルーゴン・マッカール叢書」第18巻『金』の概要とあらすじ
『金』はエミール・ゾラが24年かけて完成させた「ルーゴン・マッカール叢書」の第18巻目にあたり、1891年に出版されました。
私が読んだのは藤原書店出版の野村正人訳の『金』です。
今回も帯記載のあらすじを見ていきましょう。
80年代日本のバブル景気とその崩壊そのままの、19世紀金融小説!
世論誘導、粉飾決算などによる実体のない株価急騰、極限まで騰貴した株価の突然の大暴落、不良債権を抱えて自殺する事業家―高度資本主義社会における人間と社会の異常さを描ききる!
◆蕩尽せずにすまない人間とその時代
『獲物の分け前』の主人公であったサッカールは、パリ証券取引所を支配すべく一大計画を胸に秘めていた。彼は中近東の鉄道網、鉱山開発への投資を目的としたユニヴァーサル銀行を設立する。
そして新聞を巧みに利用して投資家の関心を集め、株価をつり上げていく。サッカールが証券取引所に君臨しようとするとき、そこに立ちはだかるのは巨大資本を持つユダヤ人グンデルマンである。銀行株をめぐる壮絶な仕手戦の末にサッカールは破れ、それとともに小口投資家たちの夢も無惨な結末をとげる。
サッカールの栄光と悲惨は、そのまま、万国博覧会の華やかさの裏に崩壊の影が忍び寄っていた第二帝政の運命であった。80年代日本のバブル時代を彷彿とさせるこの小説は、誇大妄想狂的な欲望に憑かれて、最後には自分を蕩尽せずにすまない人間とその時代を見事に描ききっている。
※一部改行しました
藤原書店出版 野村正人訳『金』
今作の主人公サッカールは『ルーゴン家の誕生』、『獲物の分け前』でも主要な役割を果たしていて、「ルーゴン・マッカール叢書」中でも非常に重要な人物として描かれています。
ルーゴン・マッカール家家系図
家系図では左側のルーゴン家に位置しています。
サッカールは初登場の『ルーゴン家の誕生』の時から狡猾で強欲な人間として描かれていましたが、その金に対する鋭い嗅覚や執着、才能は、次作の『獲物の分け前』で開花することになりました。
『獲物の分け前』では主に土地投機によって巨額の金を稼いだサッカールでしたが、今作では巨大銀行を設立することで新たな戦いに身を投じていく様子が描かれています。サッカールのライバルのユダヤ人はあのロスチャイルド家がモデルになっています。フランス第二帝政期では実際に新興銀行とロスチャイルド銀行との金融戦争が勃発していました。ゾラはこうした事実を丹念に取材し、この作品に落とし込んでいます。
そしてあらすじにもありますように、日本のバブル時代の熱狂を彷彿とさせるようなシーンが多々出てきます。あのバブルよりも100年以上も前にすでにパリでは同じような狂乱が起こっていたのですね。
巨大な資本があらゆるものを吸い上げ、そして崩壊していく。
そこに巻き込まれた人間は、働かずとも巨額の利益を得ることを夢見て投資するも、すべてを失ってしまいます。
何十年も勤勉に働いていた真面目な夫婦ですらその誘惑には抗えず、汗水たらして働くことが馬鹿らしく思うようになっていく様は恐怖すら感じさせます。
株価の高騰や配当、金利収入が人を狂わす過程をこの小説では丹念に描いています。
感想―ドストエフスキー的見地から
サッカールはたしかに金に対する猛烈な欲望を持っています。
しかし彼は貯金することには興味がありません。
彼は守銭奴ではなく、金の持つパワーそのものに魅了されているのです。
戦うこと、投機の激戦地で最強の人間になること、喰われないために他人を喰うこと、それは、栄光と快楽への欲求のつぎに、彼が事業に熱中する大きなそしてただひとつの理由だった。彼が蓄財しないのは、大きな数字と数字を戦わせ、軍隊を差し向けるように財産を放ち、敵対する大金を激突させて、勝利と敗退を決めるという別の喜びがあるからで、それが彼を夢中にさせていた。
藤原書店出版 野村正人訳『金』P69-70
金があればあらゆるものを買うことができます。
「いやいや、お金で買えないものもあるでしょ」というのももちろんなのですが、やはりお金のすごいところは「本来計量できないものも数値化できてしまうところ」にあると私は思うのです。
お金があれば、あらゆるものを金銭的な尺度で測ることができます。それはものだけでなく、労働などのサービスも含まれます。
例えばですが掃除を2時間かけて自分でやる代わりに、お金を払うことで人に動いてもらうことができます。
ここでは自分の掃除2時間分がお金に換算され、それを買ったということになります。
つまり支払った掃除2時間分のパワーをお金が持っているということになるのです。
では10億円持っていたらどれほどのパワーを持っていることになるのでしょうか。
100億円なら?1000億円なら?1兆円なら?
こうしてサッカールは無限のパワーを求めて戦うのです。
訳者解説にも次のように述べられています。
こうした金に対する考えは、ゾラ自身のものでもあった。次作の『金』を語る新聞のインタビューの中で彼は述べている。「私は金を持ち上げようと思っています。金が持っている惜しみなくものを生み出す力、その溢れんばかりの力を絶賛するつもりです。私は金を罵る人たちの意見には賛成できないのです。私の出発点となる原則は、金をうまく使えば人類全体のためになるというものです」(『ジル・プラス』一八九〇年四月八日号)
藤原書店出版 野村正人訳『金』P562
作中でもサッカールのビジネスパートナーであるカロリーヌという女性を通してゾラはこう語ります。
そのときカロリーヌ夫人は突然、金こそ明日の人間が成長するための肥料なのだと悟ったのだった。サッカールの言葉が、投機についての理論の端々が甦ってきた。性欲がなければ子供が産まれないように、投機がなければ生き生きと実り豊かな大企業も存在しないという考えを思い出した。(中略)
金は毒をまき散らし破壊もするが、ありとあらゆる社会的な植生の誘因になり、人々を和解させ、地上に平和をもたらす大工事に必要な腐植土ともなる。先ほど金を呪っていた彼女は、今度は畏怖するように金を賛美しているのだった。山を削り、海峡を埋め、人間が大地に住めるような環境をつくり、そして人間を仕事から解放し、機械の操作をするだけでよいようにしてやれるのは、金だけではあるまいか。あらゆる悪が金から生まれるように、善も金から生まれてくる。彼女は自分という人間の奥深くから揺すぶられて、もう何がなんだかわからなくなってしまっていた。
藤原書店出版 野村正人訳『金』P307-308
ゾラが「ルーゴン・マッカール叢書」で描いてきた第二帝政期は急速に経済が発展していった時代でした。
このとき生まれた消費資本主義は私たちの生きる現代社会と直結しています。
金は悪であるという風潮は今でもどこか私たちの中に刻み込まれた感覚であると思います。
しかし金は同時にこの社会そのものを動かしている原動力でもあり、そのことは否定できない事実ではないかとゾラは私たちに問いかけるのです。
たしかに金は人を狂わし、強欲さは人を傷つけます。
しかし、うまく金を使えば、それは人類を幸福にするし、現にそれは今もなされているとゾラは言うのです。
さあ、このゾラの意見を私たちはどう受け取るでしょうか。
お金の動き、人間の欲望をはたしてうまくコントロールすることなどできるのでしょうか。
ドストエフスキーは人間は非合理的であって、機械のように最善の手を打ち続けられるのならそんなものは人間じゃないと述べます。
利益になるとわかっていても、「そうしたくない」と思ってしまうのが人間だと彼は言うのです。
皆さんはどう思いますか?
たしかに金は絶対悪でも絶対善ではないということは私も納得できます。
しかし、それをうまくコントロールできるかどうかとなると、う~ん…と言わざるをえないのではないかと私は思ってしまいます。
とはいえお金があり、経済が回るからこそ私たちの生活が円滑に回り、人と人とのつながりが生まれてくるのも事実。お金のいい面も確実に存在していることも改めて感じます。
今作の『金』はお金についてとても考えさせられました。
現代は超巨大企業が世界の富の大半を所有し、格差がかつてないほどに広がっています。
そうした現実を考える上でも、非常に役に立つ一冊であるように私は思いました。
以上、「ゾラ『金』あらすじと感想~19世紀パリで繰り広げられたロスチャイルドVSパリ新興銀行の金融戦争!」でした。
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