(12)「来世は何によって証明し、何によって確信すればよろしいのでしょう」

「カラマーゾフを読む」(12)「来世は何によって証明し、何によって確信すればよろしいのでしょう」
第二編 場違いな会合 四 信仰のうすい貴婦人
幼子を亡くした母親への感動的な慰めや熱狂的な信者たちへの応対を、少し離れた場所から眺めていた貴婦人がいました。それがホフラコワ夫人です。
実はこのホフラコワ夫人、前の第三章の冒頭からすでに登場しています。その時のドストエフスキーによる解説では、「長老がもはやほとんど誰にも会うことができないのを承知していながら、今こうしてやってきて、もう一度《偉大な治療者にお目にかかる幸福》にあずかりたいと、しつこく哀願し、頼みこんでいたところだった」とあります。
つまり、とびきり押しの強い女性なのです。彼女は自らの身分の高さを知っています。その上でこうした無理を頼み込んでいるのです。
前章で見ましたように、ゾシマ長老に会いたいと願う信者がロシア全土からわんさとやって来ているわけです。そしてほんのわずかでもお目通りできたらと彼らは熱狂していたのでした。
しかしそれをすっ飛ばしてこのホフラコワ夫人は突然押しかけ「しつこく哀願し、頼み込んでいた」のです。この時点でこの女性の高慢さがうかがえます。
ただ、たちの悪い?ことに彼女には悪意がなく、むしろどちらかというと善良な性質を持つ、感じやすい上流婦人だったというのも見逃せません。
これまた癖の強い人間像ですが、ドストエフスキー群像らしい女性とも言えるでしょう。とはいえ、何となく「ああ、こういう人いるよね」と納得してしまうタイプでもあります。
そして開口一番、ゾシマ長老にこんな言葉を投げかけます。
ああ、あなたが民衆に慕われていらっしゃるのが、あたくしにはよくわかりますわ。あたくし自身も民衆を愛しておりますし、愛そうと望んでいるものでございますから。それにまた、どうして民衆を愛せずにいられますかしら、偉大な中にも純朴な、すばらしいロシアの民衆を!
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P125
何度も『カラマーゾフ』を読んでいる人間からすると、この言葉の裏に隠された高慢さにピンとくることでしょう。この女性は無意識のうちに完全に「民衆」を下に見ているのです。さらに言えば、これは彼女の頭の中でこしらえた理想の民衆でしかないのです。つまり、彼女にとって「民衆」とは自分の自尊心を満たす存在でしかないのです。
ドストエフスキーはこうした軽薄な民衆愛を嫌というほどロシアで目にしてきました。当時のロシアではそれこそ熱病のように「民衆へ!」と上流階級や学生たちが向かっていったのです。しかしその実態はどういうものだったのか・・・。ドストエフスキーはそれを冷静に問うているのです。
これはドストエフスキーだけの問題意識ではなく、あのツルゲーネフもこうした民衆愛をテーマに『処女地』という長編小説を書いています。
ドストエフスキーもツルゲーネフもこうした理念だけの民衆愛の欺瞞に危惧の念を抱いていたのです。
とはいえ、先にもお話ししましたようにホフラコワ夫人は基本的には善良な気質の持ち主ですので、彼女に関しては無害な高慢さというのが妥当なところでしょう。
そしてこのホフラコワ夫人の娘リーザも曲者です。リーザはアリョーシャのことが気になって仕方がないようなのですが、この子もかなりのひねくれ者です。そのひねくれっぷりは後にたっぷりと見ることになるのでこの子の存在も頭に置いていきましょう。
さて、ホフラコワ夫人とゾシマ長老の対話がここから続いていくのですが、これもまたえげつない。フョードルやミウーソフのおかげですっかり俗的な方向へ振れてしまったこの物語ですが、ここからは聖なる方向へと一気に転換しています。
そしてその中でもやはり印象的なのが、ホフラコワ夫人の「来世は何によって証明し、何によって確信すればよろしいのでしょう」という問いです。
いきなり核心に飛び込んできますよね。さっきまでフョードルがおちゃらけていたなんて信じられないくらいです。こうやってドストエフスキーは聖と俗を次から次へと飛び移っていくのです。
そしてこれまた見事なのがゾシマ長老の「この場合、何も証明はできませんが、確信はできますよ」という切り返しです。これを間髪入れずに返すということは、ゾシマ自身この問題について深く考えていた証でしょう。
また、「実効的な愛をつむことによってです。自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛をかちうるにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信がもてるようになることでしょう」と続けて助言します。
実に見事な言葉です。なぜなら、ホフラコワ夫人の高慢な人間愛を完全に見抜いての助言だからです。
そんな何でもお見通しのゾシマに対し、ホフラコワ夫人は自ら白状します。私の人類愛は報酬、つまり自分に対する賞賛やお返しの愛を求めてのものなのですと。
これを懺悔できるホフラコワ夫人というのはやはり善良な人間なのでしょう。
ゾシマ長老はその懺悔を受け入れ、ある医者の話を持ち出します。この言葉は皆さんも一度読んだら忘れられないでしょう。
自分は人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P136
まさにドストエフスキー節。人間存在の深淵をえぐり出すどぎつい分析です。しかもこの後に語られる具体例も秀逸です。誰もが「あぁ・・・!」と頷けるギリギリのラインをドストエフスキーは突いてきます。ただ名言チックな言葉を吐くだけなら誰にでもできます。しかし問題はその肉付けなのです。これが作家にとっての難題であり、腕の見せ所でもあります。それをドストエフスキーはこうも完璧にやってのけるのです。これには脱帽です。白旗です。完全降伏です。さすが世界最高の作家と言えるでしょう。
続く
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