(21)カラマーゾフとシラーの『群盗』の深い関係~ドミートリイの名言はこうして生まれた

「カラマーゾフの兄弟を読む」(21)カラマーゾフとシラーの『群盗』の深い関係~ドミートリイの名言はこうして生まれた
第三編 好色な男たち 三 熱烈な心の告白ー詩に寄せて
この章は何と言ってもドミートリイの名言に尽きます!
よくぞまあこんなに名言を並べたものだと驚くしかありません。それほどこの章ではドミートリイの詩人ぶりが発揮されます。
これまで見てきましたように道化のフョードルの大熱演もたいがいですが、長男ドミートリイも相当なぶっ飛びようです。カラマーゾフ家は個性的すぎます!この章ではそんなフョードルとは違った方向性のぶっ飛びぶりを目の当たりにすることになります。
と、その前にこの章の前半でアリョーシャが見抜いたフョードルの「格好つけ」の心理もぜひ味わって頂きたいです。章の前半でさらっと述べられるこのくだりですが、さすがアリョーシャという冷静で温かい人間分析がなされています。格好つけてものを壊してみたくなる心理と、翌日になってそれを後悔する心理というのはわかりすぎるほどわかる気がします。(実際に私はやったことはありませんが)
しかもこの箇所の巧みな点は、この分析がドストエフスキーのものではなく、アリョーシャによる分析であるということです。ドストエフスキーは著者による分析とアリョーシャによる分析を巧みに使い分けています。こうした細かい小説技術も私には「く~!」となるポイントです。
さて、そこからアリョーシャは偶然ドミートリイと出会い、様々な話を聞かされることになります。
しかし彼の話し方は何とも独特!まるで詩人のように朗々と繰り出される派手な言葉。しかもどこか芝居がかっていて、ジェットコースターのような話し方です。
それもそのはず、ドストエフスキーはこのドミートリイに激情家の詩人という性格を付与しています。しかもここでドミートリイ自身が述べるように、彼はドイツの詩人シラーに心酔しています。彼の言葉が大好きなのです。

そして実はこのシラーはすでに『カラマーゾフ』で登場しています。皆さんはお気づきでしたでしょうか。第二編の第六章でフョードルがシラーの『群盗』をもじって道化を演じていたシーンです。さらに第八章でもフョードルは『群盗』を持ち出しています。

実はドストエフスキーにとってシラーの『群盗』は特別な思い入れのある作品だったのです。
と言いますのも、ドストエフスキーは10歳の時、演劇でこの『群盗』を観て生涯忘れえぬ衝撃を受けたとされています。
ドストエフスキー自身、1880年8月18日オズミードフ宛の手紙で次のように述べています。
小生は生まれて十歳の時、モスクワで、モチャーロフを主役としたシルレルの『群盗』を見ました。誓って申しますが、そのとき受けた強烈無比な印象は、小生の精神的方面にきわめてよき影響をおよぼしました。
河出書房新社、米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集18 書簡下』P430
また、時代は遡りますが1840年の1月1日、兄ミハイルに宛てた当時19歳のドストエフスキーの手紙には次のようにも書かれています。
兄さんは、ぼくがシラーを読んでいないと書いてきましたね。とんでもないまちがいですよ、兄さん!ぼくはシラーを丸階記し、シラーの言葉で話し、シラーの言葉でうわごとを言っていたんですよ。(中略)
新潮社 工藤精一郎訳『ドストエフスキー全集20 書簡⑴父母兄弟への手紙』P46
シラーの名は、ぼくにとっては、限りない空想を呼び起してくれる、親密な、一種の魔法めいた響きになりました。
ドストエフスキーがいかにシラーに傾倒していたかがうかがわれる手紙ですよね。
このように、シラーの作品はドストエフスキーの文学人生にとって非常に大きな影響を与えたとされています。
その『群盗』を彼の集大成たる『カラマーゾフ』に登場させたというのは大きな意味があります。
ドストエフスキーはこの『群盗』の主人公カール・モールをドミートリイに重ねています。このカール・モールもまさに詩人でした。
このことについて、著名なドストエフスキー研究者モチューリスキーの『評伝ドストエフスキー』では次のように書かれています。
たしかに「カラマーゾフ兄弟」の筋は、どことなくシラー劇のテーマを思わせるものがある。いんぎんの仮面の下に父親への憎悪を隠し、父の死に道義的に責任のあるイワン、それに父親から自分の命を狙っているのだろうと疑われ、冤罪に打ち拉がれているドミートリー―このふたりは、作品の構成で、『群盗』の敵対しあう兄弟と似た位置を占めている。ドストエフスキーは、シラー劇をまだ子どものころに見たことがあり、名高い役者のモチャーロフの演技を生涯記憶していた。高潔だが放蕩息子のカルル・モールの面影は、ドストエフスキーの想像力のなかで、かっとなりやすく太っ腹なドミートリーと深いかかわりを持っている。「不遜な息子」の人物像をシラーの熱情的ロマンチシズムが染めている。ドミトリーが、このドイツ詩人の「歓喜の頌」を朗誦し、その宇宙的な生命感に酔い痴れるのも理由のないことではない。
筑摩書房 モチューリスキー 松下裕、松下恭子訳『評伝ドストエフスキー』P635
たしかに、シラーの『群盗』を読んでいると、何度も何度もカラマーゾフ的なシーンにぶつかります。
先程も申しましたように、カラマーゾフ家の長男ドミートリイに関してはそっくりです。
『群盗』の中からその一部をご紹介します。
下の引用にあるモールこそ、カールのことです。
この場面は盗賊達の集団の中でモールが自分の運命に嘆き苦しみ、その感情を高々と吐き出していくシーンです。モール以外の人物は皆盗賊仲間です。
シュワルツ 日が沈んでゆくあのながめは、じつにすばらしいじゃないか。
筑摩書房、実吉捷訳『世界文学大系18 シラー』P155-156
モール (そのけしきに見とれながら)英雄はこんなふうに死んでゆくのだな。―あたまがさがるよ。
シュワルツ ひどく感動しているようだね。
モール まだ子供だったころ―太陽のように生きて、太陽のように死にたいと、わたしはいつも考えていた―(苦痛をおさえながら)あれは子供っぽい考えだった。
シュワルツ おれもそうしたいと思うな。
モール (帽子で顔をおおう)あのころはなあ――わたしをひとりにしておいてくれよ、きみたち。
シュワルツ モール、モール。いったいどうしたんだい。―すっかり顔色が変っているじゃないか。
グリム こりゃおどろいた、どうしたんだ。気持でも悪いのか。
モール あのころ、おれは夜のいのりをうっかり忘れると、そのあとどうしてもねむれなかったものだ―
グリム おい、気はたしかか。子供のころのことを考えて、気がとがめるとでもいうのかい。
モール (グリムの胸にあたまをあてる)兄弟、兄弟。
グリム どうした。子供みたいになるな―おい、たのむぜ―
モール 子供だったら―子供にかえれたらなあ。
グリム よせ、よせ。
シュワルツ 元気をだせよ。見ろ、この画みたいなけしきを―気持のいい夕げしきをさ。
モール なるほど、きみ、この世はいかにも美しいね。
シュワルツ そうだ。よく言ったぞ。
モール この大地はいかにもすばらしいなあ。
グリム よし―よし―その調子なら安心だ。
モール (ぐったりとなって)しかもこの美しい世のなかで、わたしはこんなにみにくい人間なのだ―このすばらしい地上で、わたしは人非人なのだ。
グリム やれやれ、どうも。
モール わたしの純潔、わたしの純潔。―みんな、聞いてくれ。だれもかれもが、春のおだやかな光をあびようとして、そとへ出て行った―なぜわたしだけが、天国のよろこびのなかから、地獄を吸いとるのだ。―だれもかれもじつに幸福で、平和の精神によって、みんななごやかに暮らしている―全世界は一家族で、天にはひとりの父があるのに―それはわたしの父ではない―わたしだけがのけ者で、わたしだけが、純潔な者の隊列から、とりのけられた―わたしには、人の子というやさしい名前は、さずかっていないし―恋人のやるせないまなざしに、見つめられることもなく、親友の抱擁を受けることも、けっしてけっしてありはしないのだ。(はげしくうしろへとびしきりながら)人殺しにとりまかれ―まむしにかこまれ―鉄のきずなで、悪徳にしばりつけられ―悪徳というゆらぐ葦に乗って、罪業の墓のなかへ、よろよろとはいってゆく―幸福な世界の花々のまんなかで、泣きわめいているアパドンナというところだ。
シュワルツ (ほかの連中に)わけがわからん。今まで一度だって、こんな様子を見せたことはないんだがね。
モール (うれわしげに)母親の胎内にもどれたらなあ。こじきに生まれてくればよかったになあ。―いや、それ以上ののぞみはないのだ。おお神よ―なれるものなら、その日かせぎの連中のひとりになりたい―そうなれば、こめかみから血がしたたるほど、あくせくはたらこうものを―たった一度のひるねの楽しみを―たったひとつぶのうれしなみだを、手に入れるためにな。
グリム (ほかの連中に)まあ、じっと待ってろ。発作はもうしずまりかけている。
モール あのころは、毎日が楽しく流れていったものだ。―おお、平和の日々よ。わが父の城よ―みどりの、夢多かりし谷々よ。おお、わが幼年の楽園のあらゆる場景よ。おまえたちは、もう二度ともどってこないだろう―二度とこころよいそよ風で、わたしのもえる胸をひやしてくれることはないだろう。―いっしょに悲しんでくれ、自然よ。―あれらは二度ともどってこないだろう。二度とこころよいそよ風で、わたしのもえる胸をひやしてくれることはないだろう。―すぎ去った、すぎ去った。もう取返しがつかないのだ。
私はこれを読んだ時、ドミートリイしか感じられませんでした。『カラマーゾフ』を読んだ方ならきっとわかっていただけると思います。
まあ、ドストエフスキーがシラーの影響を受けてドミートリイを書いているのですから当然と言えば当然なのですが、それにしてもこのドミートリイっぷりには驚かされます。
逆に言えば、おそらくシラーから入った人が『カラマーゾフ』のドミートリイを読めば「なんてシラー的なんだ」と驚くのでしょう。
それほどまでに似ています。
ドストエフスキーがわざわざ最晩年の大作にこれを持ってくるというのは、やはり並々ならぬ思い入れがあったからこそなのでしょう。
上のカール・モールの詩人ぶりはぜひ覚えていてください。この後のドミートリイも終始この調子です。
また、フョードルが道化ぶりを発揮した時、このカール・モールをドミートリイではなくイワンに当てはめていることにも注目です。フョードルがドミートリイをコケにするためにあえてそう言っているのが見えてきます。ドストエフスキーは本当に細かいですね。
さて、話は戻りますがこの章はドミートリイの名言のオンパレードです。『カラマーゾフ』には歴史に残る数々の名言がありますが、この章だけでいくつもそれが飛び出してきます。
せっかくですのでそれらを見ていくことにしましょう。
なあ、アリョーシャ、屈辱だよ、今だって屈辱に泣いているのさ。この地上で人間は、恐ろしいほどにいろいろなことに堪えていかなけりゃいけないんだ。人間には恐ろしいほどたくさん災厄がふりかかるんだよ!
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P259
どうせ奈落に落ちるんなら、いっそまっしぐらに、頭からまっさかさまにとびこむほうがいい
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P261
情欲は嵐だからな、いや嵐以上だよ!美ってやつは、こわい、恐ろしいものだ!
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P263
そして特に有名なのが次の言葉です。
俺が我慢できないのは、高潔な心と高い知性とをそなえた人間が、マドンナ(訳注 聖母マリヤのこと)の理想から出発しながら、最後はソドム(訳注 古代パレスチナの町。住民の淫乱が極度に達し、天の火で焼かれた)の理想に堕しちまうことなんだ。それよりもっと恐ろしいのは、心はすでにソドムの理想をいだく人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やす、それも本当に、清純な青春時代のように、本当に心を燃やすことだ。いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P263-264
このマドンナの理想とソドムの理想だけでも強烈ですが、最後の「人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。」という言葉は今作中でも屈指の名言です。
そしてこの直後、もうひとつ伝説的なフレーズを残します。
こわいのはね、美が単に恐ろしいだけじゃなく、神秘的なものでさえあるってことなんだ。そこでは悪魔と神がたたかい、その戦場がつまり人間の心なのさ。
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P264
「そこでは悪魔と神がたたかい、その戦場がつまり人間の心なのさ。」
数多くの名言を残すドミートリイですが、これはその中でも白眉です。彼の代名詞と言ってもよいでしょう。そんな素晴らしい言葉が登場から間もなくの間に炸裂するのですから恐ろしい・・・。アクセル全開です。
こう見ていくと、上巻も中盤に差し掛かってきましたが、けっこう見どころがあるなという印象を皆さんも受けるのではないかと思います。
『カラマーゾフ』はやはり飛び抜けて面白い作品です。単に暗くて重い小説というわけではありません。ただ、その面白さを見つけるのが我々日本人にはなかなかハードルが高いということなのです。
ですが、その面白ポイントがどこにあるかがわかればしめたもの。もう怖いものはありません。
ここまでこの連載にお付き合い頂いている皆さんもきっとその面白さを感じて頂けているのではないかと思います。
ぜひこれからも一緒に『カラマーゾフ』を楽しんでいきましょう!
続く
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