目次
「カラマーゾフを読む」(14)「神がいないならば、善もない」つまり、何をしても「罪と罰」はない・・・
第二編 場違いな会合 六 こんな男がなぜ生きているんだ!
前章は「国家と教会」という、なかなか手ごわい話題が取り上げられましたが、この章ではさらに根源的な問題まで突き進んでいくことになります。
・・・と、その前に、ようやくここでドミートリイが登場しました。どうやら、教えられた時間が間違っていたようです。(それが本当かどうかはわかりませんが)
そしてこの長男ドミートリイが意外なほど紳士的に現れたものですから我々読者も含めてそこにいた面々は逆に驚かされることになります。
とはいえ、ここでは当のドミートリイはまだ主役ではありません。彼がこの章で存在感を見せるのはもう少し後のことになります。
この章ではまず、最初に述べましたようにイワンの口から語られる衝撃の仮説が私たちの目を引きます。
不死がなければ、善もないのです。
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P167
ここでいう「不死」というのは、言い換えるとすれば神のことです。つまり、神がいなければ、善もなく、したがって罰せられるべき悪もないということになります。
先に私は「衝撃の仮説」と述べましたが、正直、現代を生きる私たちには何が衝撃なのかすらピンと来ないことでしょう。
ですが、前回の記事でお話しした「国家と教会の問題」が当時ホットな話題であったように、この「神はいるのかいないのか」という問題もロシアだけでなくヨーロッパ中で盛んに議論されていたのです。
その最強の例がニーチェの「神は死んだ」という有名な言葉でしょう。彼は1883年に出版した『ツァラトゥストラ』でこの問題を取り上げています。ドストエフスキーが『カラマーゾフ』を執筆完了してから3年後です。
また、時代は少し遡りますが、ドイツのダーフィト・シュトラウスが書いた『イエスの生涯』という本も無神論者にとてつもなく大きな影響を与えた書物です。
ダーフィト・シュトラウス(1808-1874)Wikipediaより
「(7)シュトラウス『イエスの生涯』あらすじ~青年たちのキリスト教否定と無神論への流れとは」の記事より
こちらがシュトラウスの『イエスの生涯』(1835年著)です。写真ではわかりにくいですが、かなり分厚い本です。
この作品は奇跡を徹底的に排して実証的にイエスの生涯を分析しています。有名なラザロの復活のシーンも、そもそもラザロは死んでいなく、仮死状態だったラザロをイエスが生き返らせたように見せただけだと述べます。数々の病気治癒も奇跡ではなく、実証的にそれはありうると考察していくのです。
この本は「イエスは奇跡を操る超人間的な存在ではなく、あくまで我々と同じ人間である」という立場で書かれています。これはキリスト教の教義に真っ向から反論する立場です。
一九世紀半ばには科学技術の発展もあり、「科学的に証明できなければ事実として認めない」という流れができ始めていました。シュトラウスも、まさしくそうした立場からイエスの生涯を考察していったのです。
実はこの本こそ、あのマルクスやエンゲルスに巨大な影響を与えた本でもあったのです。マルクスが後に「宗教はアヘンである」と語り、エンゲルスが『空想より科学へ』という本を出したのも、こうした「科学的」な思想に影響を受けたからと思われます。
こういうわけで、神の存在が自明であったヨーロッパ世界において「神は本当にいるのかどうか」という問題は極めて現実的で切実なものとして存在していました。
そんな中でドストエフスキーはイワンの口を借りて無神論的な命題を持ち出したのです。この「不死がなければ、善もない」という考え方は『罪と罰』でも重要な位置づけが与えられていました。
ドストエフスキーは『罪と罰』を書き終えた後もずっとこの問題と向き合い続けていたのでしょう。まさにドストエフスキーのライフワークでもあります。信仰があるからこそ、こうした無神論的な考え方も深く突き詰めざるをえないのです。これが深淵を覗く天才、ドストエフスキーのドストエフスキーたる所以なのです。
さて、話は少し大きくなってしまいましたが、イワンはこの「不死がなければ、善もないのです」という言葉を大真面目に語りました。フョードルのようなおふざけではないのです。
そしてそれを感じ取ったであろうゾシマ長老は「本当にあなたはそう思いなのですか?」と問いかけ、「そうであるならばあなたは不幸なお人ですの!」と語りかけます。やはりこの長老は本物です。ここでも長老はイワンの奥底にある苦悩を見通しているのです。
そしてこうした長老の問いかけに、イワンは顔を赤くします。
この「顔を赤くした」というのは極めて重要なポイントです。あの冷徹なイワンが思わず顔を赤くしたのです。この点からもイワンが本気でこの問題に悩んでいることが暗示されています。
当初の見立てではイワンもフョードルやミウーソフと同じく、修道院に対して無礼な態度を取るのではないかとアリョーシャも心配していました。しかしどうでしょう!むしろイワンは真剣そのものだったのです。
それはイワンの「説明しがたい微笑」にも表れていますし、なんとその後には自分からゾシマ長老の下に祝福を受けにすら行くのです。これには庵室の一同も驚きでした。あのイワンがまさかそんなことをするとは!と度肝を抜かれたのです。
イワンのこうした謎めいた行動はまさにこの物語のハイライトたる「大審問官」の章へと繋がっていきます。ドストエフスキーはこうして丁寧に丁寧に伏線を張っていくのです。
ここでのイワンとゾシマ長老との対話は短いながらも非常に意味深なものとなっています。イワンは一体何を考えているのか、目が離せません。
そしてこの直後、厳粛な雰囲気をぶち壊す騒動が持ち上がります。まさに「こんな男がなぜ生きているんだ!」という事態の勃発です。
続く
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