(3)ハリドワールの祈りの儀式プージャを体験~巡礼者達の熱気とエンタメ性溢れる祭式に驚愕

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(3)ハリドワールの祈りの儀式プージャを体験~巡礼者達の熱気とエンタメ性溢れる祭式に驚愕

18時半。一休みして英気を養った私は夜のプージャを観に行くために宿を出た。日中に街を一回りしただけでショック状態に陥ってしまったものの、ハリドワールのメインはここから。ここでは毎晩メインガートにて祈りの儀式、プージャが執り行われる。これを観るのを私は楽しみにしていたのである。

昼間より明らかに人が多い。そして暗くなってきた分、より雰囲気がある。道行く人達からも何か独特な熱気というか、高揚感のようなものが伝わってくる。

次の動画もプージャ前の熱気がよく感じられる一幕だ。流れてくる掛け声に合わせて皆両手を上げ言葉を発する。儀式が始まる前からそれは始まっているのだ。

そしてメインガート近くまでやって来るといよいよその混雑度合いも高まってくる。

ガイドさんの後ろに付き、少しずつ前の方に進んでいく。

かなり前のエリアまでやってきた。すぐそばにはシートの上で靴を脱いで座っている団体が陣取っていた。色とりどりのサリーが目にまぶしい。そしてその中で引率者らしき中年男性が熱弁し、お金を集めている。この熱弁がまたものすごく、インド人の熱量をまざまざと感じることになった。インド人の雄弁はつとに有名だが、まさにさもありなんである。

下の映像を観ればその雄弁と熱量を感じることができると思う。

そして19時頃になり、儀式の開始を告げる音楽がかかり始めると皆一斉に立ち上がり、前の方へと押し寄せていった。私もその勢いに飲まれ最前方付近まで押し流された。押されている内は何が何だかわからなかったが、ここ、シートの上ではないか!

「え?いいんですか?こんなとこにいて!しかも土足ですよ?」

「いいんです。気にしないで。こういうものなんです。ほら、皆そうでしょ?」

たしかに周りは人だらけでそんなことを気にしてる人など誰もいない。でも、このシートの上に座ってた人達の靴はどこに行くのだろうか・・・わからない。だが、そんなこと気にせず皆押しのけ押しのけで前までやってくる。ルール無視のカオス。そういうとこだぞインド人・・・・。

そしていよいよバラモン(宗教者)がやって来て目の前で火を焚き始める。大音量で流れる音楽に合わせて彼らは燃える祭具を操っていく。その動きはゆったりしているが、荒々しい炎は有無を言わせぬ迫力がある。火の熱気や煙のにおいがこちらまで漂ってくる。

集まった巡礼者達も本気だ。彼らも音楽に合わせ掛け声を発したり大声で歌っている。何という一体感だろう!異邦人の私ですらそう思うのだ。同朋のインド人達ならばその比ではない一体感を感じているのではないだろうか。

そして私が度肝を抜かれたのはここからだった。プージャの音楽が終わり、儀式も終わろうかというその瞬間、どよめきのようなものを私は感じたのである。そしてすぐに私は気づいた。ここにいる大群衆が目の前で焚かれていた火に向かって我よ我よと群がってきたのである!

見ての通り、火を焚いていたのはまさに川岸だ。その川岸に向かってこの大群衆が押し合いへし合いのとんでもない修羅場を演じ始めたのである。一歩間違えればこの濁流にドボンではないか!これには私も面食らった。

男性も女性も関係ない。我先にとほんのわずかの隙間でもあれば身体をねじ込んでくる。そして川岸までたどり着いた者はその神聖な火に手をかざして熱気を受け取り、それを自身の頭に沁み込ませるように大事に撫でつけていた。

こうして巡礼者達は自身の罪を清めるのである。ガンジスの沐浴で罪を洗い流し、さらに聖なる火によって身を清め、幸福な日々と来世を願うのだ。堀田善衛の『インドで考えたこと』という本でインド人の「おっかない顔」について書かれていたがまさにこの修羅場の本気のインド人の顔は私にとっても「おっかないもの」だった。彼らがなぜここまで本気になれるのか、私は末恐ろしくなったのである。罪の自覚があるからなのか、はたまた幸福への飽くなき願望なのだろうか・・・今の私にそれを判断する余裕はない。早くここから退散しよう。

この大混雑を抜けて帰るのも難儀なものだった。まるで花火大会の帰り道だ。しかもこれで雨季のオフシーズンということでかなり空いている方だという。乾季のピークシーズンはそれこそ全く身動きが取れなくなるほどだそうだ。

それにしても、花火大会という年数度のイベントならまだしも、毎日がこれだというから何とも言えない。しかもこれがオフシーズンだというのだからなおさらだ。ハリドワールという街は年中祝祭的な雰囲気の街ということなのだろう。

そしてゆっくりゆっくり進みながら帰っていくと、途中で儀式の音楽のようなものが聞こえてきた。

ただ、私はこの儀式そのものよりも、奥でやる気なさそうに太鼓を鳴らしている女性にくぎ付けであった。これがインド流なのだろうか、信仰熱心なのか適当なのかもはやよくわからなくなってくるのがインドなのである。

なんとか宿に戻ってきた。

思い返しても「あれは何だったのか」と問わずにはいられない。プージャの熱気に今も当てられてしまっている。

そして不思議なことにあのプージャの音楽が頭を離れないのである。今回初めて聴いたメロディーであったにも関わらずである。それほどキャッチーで忘れがたい音楽だったのだ。

この映像は翌日に撮影したものだが、より全体像が見えるかと思う。そして音楽もより聴きとりやすいのではないだろうか。

これを聴いて皆さんも感じるのではないだろうか。「たしかにインドらしいと言えばインドらしいが、ずいぶん現代的な音楽だな」と。

そうなのである。ここは古くからヒンドゥー教の聖地として有名だが、この音楽は明らかに現代風だ。しかもスピーカーで爆音で流されている。まるでライブ会場だ。目の前には聖なるガンジス。建物群も日常を離れた宗教施設であり、火を使った儀式もエンタメ性が非常に強い。非日常の祝祭空間がこれでもかと演出されている。現代のライブコンサートもこうした非日常性や祝祭性を演出していることは周知の通りだが、ここハリドワールでも私はそれを強く感じたのである。

だが、そもそもエンタメ性は現代のライブや演劇、ショーなどの専売特許ではなく、古代より人間は様々な場面でそれを活用し、楽しんできた。王の謁見やパレード、詩の朗読や演劇だけでなく、宗教儀式もその一つである。宗教の儀式や祭りは人々のそうした祝祭性を求める気持ちの受け皿ともなってきた。魅力的な祭式がない宗教は遅かれ早かれ衰退していくのが運命である。ここインドにおいて仏教が衰退しヒンドゥー教が栄えていったこととこのことは無関係ではないだろう。インドの仏教はそうした祭式を重視しない傾向にあったのである。

それに比べ東南アジアや中国圏に伝わった仏教は各地の土壌と融合し、それぞれに特徴的な祭式を作り上げその地に根付いていった。教えの魅力は確かに宗教の根幹だ。しかしそれだけではダメなのである。それだけでは決定的に足りないのだ。

ここハリドワールのプージャではそのことを痛烈に感じた。なぜここの音楽が現代的に聴こえたのかはわからない。本当にこの音楽が最近作られたものの可能性もある。(※事実、2月のヴァーラーナシー滞在時、そのからくりを知ることになった。このことについてはいずれ改めてお話ししたい)

いずれにせよここのプージャが巡礼者に強烈な体験を与えているのは確かだろう。遠路はるばる苦労してでもここに来たい。一生に一度はここに来たいと心の底から願っている人たちがここに集まってくるのである。そしてそのエネルギーがあの「おっかない顔」に集約されているのだ。

プージャの異様な熱気に当てられヘトヘトになった私だが、これは何にも代えがたい刺激的な体験となったことは間違いない。祭式の重要性を全身で体感したハリドワールの夜であった。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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