マキャヴェッリ『君主論』時代背景と感想~ダ・ヴィンチと同時代のフィレンツェ人による政治論

イタリアルネサンスと知の革命

マキャヴェッリ『君主論』時代背景と感想~ダ・ヴィンチと同時代のフィレンツェ人による政治論。時代背景を知ってから読みたい名著

今回ご紹介するのは1513年頃にマキャヴェッリによって書かれた『君主論』です。私が読んだのは2004年に講談社より発行された佐々木毅訳の『君主論』2022年第31刷版です。

早速この本について見ていきましょう。

近代政治学の古典として名高い『君主論』。その著者マキアヴェッリは、都市国家が並び立つルネサンスのイタリアにあって、共和政のフィレンツェ市書記官として活躍。国際政治の荒波のなか、軍事、外交にわたり東奔西走の日々を送った。その豊かな体験を生かして権力の生態を踏まえた統治術として執筆した名著を、政治学の第一人者が全訳し解説する。(講談社学術文庫)

Amazon商品紹介ページより

『君主論』はマキャヴェリズムという言葉があるほど有名な作品ですが、この本自体はなかなかに読みにくく、手強い作品となっています。

おそらく、世の大半の方は有名な『君主論』をそれ単体で読むのではないかと思います。私もそうでした。

「あの有名な『君主論』はどんな本なのだろう。ベストセラーにもなってるみたいだし、試しに読んでみようか」

そんな軽い気持ちで手に取ったはいいものの案の定挫折してしまった苦い思い出があります。

ですが前々回の記事で紹介した高階秀爾著『フィレンツェ 初期ルネッサンス美術の運命』を読んでから改めて『君主論』を読むと、全く別の顔を見せるようになったのです!とにかく面白いのなんの!時代背景がわかってから読むと、マキャヴェリの言葉がすっと入ってくるようになったのです。

さらに前回の記事で紹介したサマセット・モーム著『昔も今も』は『君主論』の強い君主のモデルともなったチェーザレ・ボルジアとマキャヴェッリを主役とした歴史小説となっています。こちらも非常におすすめです。

『昔も今も』の訳者は巻末の解説でマキャヴェッリとチェーザレ・ボルジアについて次のように述べています。

『昔も今も』に登場する主人公は、ニッコロ・マキアヴェリとチェーザレ・ボルジアである。マキアヴェリはフィレンツェ共和国に仕える才気煥発、敏腕な官僚であり、喜劇作家であり、そして何よりも『君主論』の著者であって、今日近代政治学の祖と言われる。

一方、チェーザレ・ボルジアは、長年〈ボルジア家の毒薬〉で知られる悪逆無道な権力亡者、目的のためには手段を選ばない、いわゆる〈マキアヴェリズム(権謀術数)〉の権化として、歴史にその名を記されてきた。

マキアヴェリは『君主論』のなかで、君主は世の美徳や評判に捉われることなく、時と場合によっては、残酷な行為も一気呵成に行ない、悪に踏み込んで行くことも必要である、獅子のごとく猛々しく、狐のごとく狡猾でなければならないと語っている。さらに、雄図半ばにして斃れたチェーザレ・ボルジアについて、「すばらしい勇猛心と力量の人であった。また民衆をどのようにすれば手なずけることができるか、あるいは滅ぼすことができるかを、十分わきまえていた」(『君主論』池田廉訳)と述べ、彼こそ新時代の君主となる人たちが模範とすべき人物であると称賛している。

しかしながら、そのようなキリスト教の美徳に挑戦する言辞が災いして、『君主論』はマキアヴェリの死後まもなく、高名な教会人によって〈悪魔の所産〉と弾劾され、やがて彼の全著作がローマ法王庁の禁書目録に載せられた。
※一部改行しました

筑摩書房、サマセット・モーム、天野隆司訳『昔も今も』P366-367

この箇所を読むだけでマキャヴェッリとチェーザレ・ボルジアがどのような人物だったかが浮かび上がってきますよね。

そして著者は続けます。次の箇所では当時のイタリアの時代背景が解説されます。

マキアヴェリの時代イタリアは、大小の都市国家が割拠して分裂し、そのために絶対王政の体制を整えたフランス、スペイン両大国の介入と収奪を許していた。たがいに傭兵を雇ったり傭兵に雇われたりして〈八百長戦争〉をしながら勢力均衡を維持し、豪華絢爛たるルネサンス文化を謳歌していた時代は去りつつあった。一四九四年のフランス国王シャルル八世の侵入以来、イタリアは全土が残忍な戦闘や略奪の横行する不安定な状況に陥っていた。

この乱世の時代にチェーザレ・ボルジアが登場した。まだ二十七歳という若い剛毅な君主である。彼は法王アレッサンドロ六世の私生児ながら、統一をめざして国民軍を創設し、法王領の実権を握るべく群小領主の一掃に邁進する。

彼の野望に直面して、フィレンツェやヴェネツィアや、シエナやボローニャは動揺する。彼らにとってイタリアの分裂状態と勢力均衡こそ自国が繁栄する条件だった。このままチェーザレの過激な行動を許すならば、とりわけ大都市国家の存立が脅かされる。その自由と繁栄が失われる。

おりしもチェーザレの傭兵隊長たちが、自分たちも主人の野望の生け贄にされかねないと恐怖して謀反を起こした。これはフィレンツェにとって、共和国が生き延びる格好のチャンスだった。強欲な軍人どもが共食いをしてくれるならば、漁夫の利を得るのはフィレンツェである。こうしてフィレンツェ政府は巨額の傭兵契約を求めるチェーザレの許に、口八丁手八丁のマキアヴェリを使節として送りこんだ。反乱の結果が見えるまで、舌先三寸でチェーザレの矛先をかわそうという作戦だった。

かくして物語は、二人の天才的人物の丁々発止のやりとりを縦糸にし、女好きなマキアヴェリが手練手管を発揮する恋の火遊びを横糸にして進行する。マキアヴェリは男盛りの三十三歳、共和国に忠実な官僚であるとともに、情熱的な生身の一個の男である。出張先のイーモラに到着したとたん、有力な商人の若い女房にひと目惚れし、多忙な外交交渉の合間をぬって、彼女をモノにしようと奮闘する。この必死の政治活動とマメで真剣な恋愛活動とが、モーム得意の軽妙なタッチで描かれる。

マキアヴェリの涙ぐましい活動の顛末は本書を読んでいただくとして、そのコミカルな物語の展開のなかにも、マキアヴェリとモームの鋭い人間観察が表裏一体となって現われ、読者を随所で楽しませてくれる。『昔も今も』を一読されたあと『君主論』を手にするならば、読者は大いに興味・関心を刺激されて読書が進むのではあるまいか。
※一部改行しました

筑摩書房、サマセット・モーム、天野隆司訳『昔も今も』P367-369

チェーザレ・ボルジアが教皇アレッサンドロ六世の私生児であるというのは驚きですよね。しかもその立場を利用してイタリア全土を掌握しようというとてつもない野心を持った人物でした。

そしてこの作品で説かれるように、チェーザレ・ボルジアは単に生れを利用しただけの男ではなく、信じられないほど優秀な人物でもありました。その鋭敏な頭脳、カリスマ性、権謀術数にはただただ驚くしかありません。

さて、マキャヴェッリの『君主論』といえばマキャヴェリズムという言葉があるように、厳しい現実の中で勝ち抜くためには冷酷無比、権謀術数、なんでもござれの現実主義的なものというイメージがどうしても先行してしまいます。

たしかに『君主論』の中でそうしたことが語られるのは事実です。

ですが、「マキャヴェッリがなぜそのようなことを述べなければならなかったのか」という背景は見過ごされがちです。

当時のイタリアの政治状況はかなり特殊な状況です。上の解説でも少しだけ触れましたが、イタリアはそれぞれの都市国家がひしめき合っていました。そして形の上では共和制という一見民主的なシステムの下運営されていましたが、その実態は腐敗し機能不全という体たらくでした。

しかもそこにフランスやスペインなどの強力な絶対王政国家がイタリアを侵略しようと動き出し、さらにはオスマン帝国の勢力にも地中海地域を蹂躙されていた時代です。

腐敗し機能不全を犯していた都市国家群。そんな形だけの民主主義をベースにした小国が小競り合いに明け暮れていたのがマキャヴェッリの生きたイタリアだったのです。もしフランスやスペイン、トルコなどの大国が侵略してこなかったならイタリア内で茶番の小競り合いを続けていてもよかったでしょう。

ですが大国が問答無用で攻めてくる状況にあっては強力な国家体制が必要になってきます。もはや、腐敗した民主主義ではどうにもならない状況なのです。

マキャヴェッリもできることなら愛するフィレンツェが健全な民主主義の下繁栄することを願っていたでしょう。ですがこの危機の時代に相変わらず腐りきった少数の人間達が共和制の名の下に無能を晒し続けている・・・

そんな中でマキャヴェッリは『君主論』を書いたのでした。

そう考えるとこの作品がかなり特殊な状況を前提とした意見書であることが見えてくるのではないでしょうか。

『君主論』やマキャヴェリズムはビジネス書や様々な本の中でもよく語られます。

「厳しい世の中を生きていくためにはマキャヴェリズムが役に立つ」というニュアンスで語られることもありますが、はたして現代社会でそのままこれを適用してもいいものなのか・・・

そもそも『君主論』は「戦乱の世における王」はどうあるべきかということを考察した作品です。しかも「大国による侵略の危機にある小国の王」というさらに狭い条件の下提出された思想です。

ですので勝てば官軍、権謀術数なんでもござれのマキャヴェリズムは本来適用範囲が非常に狭い思想なのです。

それを世に生きる全ての人々に当てはめるのはやはり無理があります。

ですがそれでもここまで世界中で人気になったのはなぜなのか。

それはやはり上昇志向を持った人間には後ろ盾として非常に有益な思想だったからではないでしょうか。勝つためには手段を選ばず。それを全面的に肯定してくれるマキャヴェリズムは非常に心強いものであり、様々な方策を授けてくれたのでしょう。

たしかに、世の中を現実的に見ればマキャヴェッリの言うことはまさにその通りです。綺麗事だけでは世の中回りません。

最近大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていたのですが、後白河法皇はまさにマキャヴェリズムを巧みに使いこなした老獪な人物として描かれていました。まさに権謀術数何でもござれ。チェーザレ・ボルジアと違って露骨な武力行使はありませんが、綺麗事を廃した非情な政治手腕を発揮しています。その結果彼の権力は凄まじいものがありました。そして現に強力な力をもって国に君臨していたわけです。そして源頼朝が権力を確立する様や主人公北条義時がドラマが進む度にダークサイドに落ちていくのもまさにマキャベリズムを感じます。

ただ、それも乱世の世において強力なリーダーシップを取る存在が必要だったという背景もやはり存在していたと思います。国が乱れ、混乱しているときに烏合の衆しかいなければ全てが崩壊します。そこで強力なリーダーがいることでなんとか秩序が維持され危機を回避することができる。こうした側面も忘れてはならないと思います。危機の時には強力な存在、王が必要になるというのも歴史から考えさせられることです。

そして翻って現代社会、特に日本ではどうなのか。

現代はかつての戦国時代のような、一触即発の危険な時代ではありません。もちろん外国の脅威や国内政治の混乱は当然あります。ましてロシア・ウクライナ戦争が起こった今、国家間の危機は無視できないものとなっています。ビジネスの世界もとてつもなく厳しい競争の世界であるのもわかります。

ですが、日本においてはいきなり剣で突き殺されたり、捕縛され拷問されるような世界ではありません。一応は法治国家です。様々な問題はありながらも、マキャヴェッリの生きたイタリアとは全く事情が違います。

そして私たちの大半はもちろん「君主」ではありません。

「君主」ともなれば綺麗事だけでは済まされません。ですが私たちは違います。無理して『君主論』に合わせて冷酷無比になる必要はありません。わざわざ権謀術数を使う必要もないのです。私たちにとっては幸いなことに、それがなければ生きていけないというものではないのです。

もちろん、私たちも綺麗事だけでは生きてはいけません。ですがだからといって自分から率先して冷酷無比になり権謀術数を駆使して相手を騙し、出し抜き、徹底的にやっつける必要はないのです。

あくまで、「中世イタリアの戦乱の世における理想の王とは何か」を考察したのがマキャヴェッリの『君主論』だということ、そしてそのことを通して私たちが何を思うのか。これが大切なことだと思います。マキャヴェッリの言うことをそのまま鵜呑みにして私たちの日常生活に適用してもきっと幸せはやってきません。

相手を騙して徹底的にやっつけたところで私たちの日常生活がよくなるということはないのではないでしょうか。当時とは社会システムが違うのです。当時ですらやったやられたの憎しみで凄まじいことになっていたのです。結局『君主論』のモデルとなったチェーザレ・ボルジアも最後は悲惨な死を迎えています。

それよりもいかに他者と協力して社会活動やビジネスを繁栄させていくかが現代のシステムで求められています。冷酷無比で権謀術数なんでもござれな人と一緒に仕事したいと思いますでしょうか?時にはそういうことも必要な場もあるかもしれませんが、長い目で見ればそれは双方に苦しみをもたらすのではないかと私は考えています。

私が思うに、自分から冷酷無比、権謀術数なんでもござれになる必要はまったくありません。ですが、自分の身を守るために、そうした人たちがいるということを知っておくのは非常に大切なことだと思います。

マキャヴェッリも本書の中で次のように述べています。

人間というものは非常に単純で目先の必要によってはなはだ左右されるので、人間を欺こうとする人は欺かれる人間を常に見いだすものである。

講談社、マキャヴェッリ、佐々木毅訳『君主論』P143

「人間を欺こうとする人は欺かれる人間を常に見いだすものである。」

恐ろしい言葉ですよね。ですがこれは真理だと思います。

人を騙そうとする人間は騙されそうな人間を嗅ぎつけるのです。

まぁ、よく宗教の説話でもあるのですが、「騙されるくらい純朴な人の方が人生幸せだし、善人である」という話もあるのですがなかなかそうも言ってられないというのが正直なところですよね。

これはまた難しい問題なのでここではお話ししませんが、『君主論』を読むことでイタリアの不安定な政治状況や民主主義の機能不全、絶対王政の強みなど様々な面も知ることができます(かと言って絶対王政が万能というわけでは当然ありませんが)。

そしてなぜマキャヴェッリが「権謀術数なんでもござれ」を説かねばならなかったのかということに注目して読むとものすごく面白い作品となっています。

最後にこの本を読むにあたってのポイントをお話ししてこの記事を終えたいと思います。

私が読んだのは講談社版の2022年第31刷版なのですがこれがとにかくおすすめです。というのもまずこの本は「大文字版」ということでシンプルに文字が読みやすいです。文字の見やすさって意外と大事ですよね。特にこうした古典作品ですと小さな文字が並んでいるだけで「うっ!」となってしまう方がたくさんおられると思います。私もそうです。読み始めるのにもかなり覚悟が必要になってきます。その点でこの「大文字版」は非常にありがたいです。

また、本書の冒頭に訳者による「まえがき」があり、そこで時代背景やこの本を読む際のポイントなどを解説してくれています。これもわかりやすく、挫折しがちな『君主論』を読み通す際に大きな助けになってくれると思います。

そして『君主論』そのものについてなのですが、正直前半部分はあまり面白くないです。内容も掴みにくく、読むのが苦しい展開が続きます。ですがそれを耐えて中盤に差し掛かる頃、第六章くらいですね、この辺から一気に面白くなってきます。ですので前半はなんとか耐えてください。厳しければ流し読みでも構いません。中盤まで来てしまえば一気に読みやすくなります。別物の作品なのではないかというくらい面白くなってきます。

私もかつて『君主論』に挫折した一人でありますがまさにこの前半で躓き、中盤からの展開を全く知らずにおりました。もしあの時中盤までたどり着けていたら挫折することなく読み切ることができたかもしれません。それほど中盤からの展開は面白いのでぜひご期待ください。

そして繰り返しになりますがぜひ『君主論』を読む前に高階秀爾著『フィレンツェ』とサマセット・モーム著『昔も今も』を読んで頂ければと思います。この二作品を読めば『君主論』がとてつもなく意味深く面白い作品であることがよくわかります。これは絶対におすすめしたいです。

今回の記事ではあえて『君主論』で説かれる具体的な言葉をあえてほとんど紹介しませんでした。なぜなら、そこで語られる言葉よりも、まずはその時代背景を知ることの方が大切なのではないかと思ったからです。

レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロもまさしくマキャヴェッリやチェーザレ・ボルジアと同時代人です。彼ら芸術家はこうした政治家の有力な道具として重宝されていました。以前紹介したW・アイザックソン著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』という伝記の中でもチェーザレ・ボルジアが出てきました。

ダ・ヴィンチやミケランジェロもこうした政治的状況と密接に関係して生きていたんだなと思うと非常に興味深いものがありました。

そうした意味でも今この時期に『君主論』を読めたのは非常にありがたいものがあったなと感じます。私にとってもようやくこの本をしっかりと味わうことができとても嬉しい読書になりました。

以上、「マキャヴェッリ『君主論』あらすじと感想~ダ・ヴィンチと同時代のフィレンツェ人による政治論。時代背景を知ってから読みたい名著」でした。

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