シェイクスピア『あらし(テンペスト)』あらすじと感想~『リア王』と対をなす大団円!爽やかな読み心地が魅力の傑作劇!

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シェイクスピア『あらし(テンペスト)』あらすじと感想~『リア王』と対をなす大団円!爽やかな読み心地が魅力の傑作劇!

今回ご紹介するのは1611年から1612年頃にシェイクスピアによって書かれた『あらし(テンペスト)』です。私が読んだのは新潮社によって発行された福田恆存訳の『夏の夜の夢・あらし』2016年第70刷版です。

早速この本について見ていきましょう。

妖精の王とその后の喧嘩に巻き込まれ、さらに茶目な小妖精パックが惚れ草を誤用したために、思いがけない食い違いの生じた恋人たち。妖精と人間が展開する詩情豊かな幻想喜劇『夏の夜の夢』。ほかに、奸悪な弟に領地を奪われ、娘ミランダと共に絶海の孤島に漂着したミラノ公プロスペローは、魔法の力を究め弟の船を難破させたが……シェイクスピア最後の傑作『あらし』を収める。

Amazon商品紹介ページより

今回ご紹介する『あらし』は以前紹介した『夏の夜の夢』と一緒に収録されています。

『夏の夜の夢』は私にとってシェイクスピアの中で一番好きな作品で、それと一緒に収録されている今作『あらし』も同じく読みやすくて楽しい作品となっています。

上の簡潔なあらすじにありますようにこの作品は弟の奸計によって地位も財産も、全てを奪われたミラノ公プロスペローが主人公の物語です。

プロスペローは元々ミラノ大公という実質国王のような地位にありました。しかし彼は政治にあまり関心を持っておらず学問の研究に没頭していました。そして元々人を疑うことを知らない善良な気質があったため、地位を狙う者からすれば隙だらけという状態だったのです。案の定その隙を狙われ弟に地位を奪われ追放されるという憂き目に遭うことになります。

そして時は流れ、弟たる現ミラノ大公やナポリ大公一行が乗る船が嵐に巻き込まれ難破します。絶体絶命かに思われた彼らでしたが奇跡的にとある島に漂着します。

そしてその島こそプロスペローの住む島であり、この嵐も漂着もすべてプロスペローの魔法によって仕組まれたものだったのでした。

プロスペローは長年の研究で魔法を使えるようになっていました。そして風の妖精エーリアルの活躍もありこの物語はプロスペローの思惑通りに進んでいきます。

プロスペローは何を求め、どんな筋書きを描いていたのか。それを私達読者は追っていくことになります。

この作品について訳者の福田恆存は次のように述べています。

四大悲劇を書き終えたシェイクスピアは、更に『アントニーとクレオパトラ』『コリオレイナス』『アセンズのタイモン』と人間不信の悲劇を書き続ける。その後の『ぺリクリーズ』(一六〇八―九)を転機として、所謂「浪漫喜劇」の時代に入り、『シンべリン』『冬の夜話』『あらし』の三作を書きながら、この大詩人は不信、憎悪、復讐という暗黒の黄泉を一作毎に潜り抜け、明るく澄んだ調和と和解の世界に到達したと言われる。

こういう解釈は必ずしも教科書的俗説とのみは言切れない。事実、シェイクスピアの全作品系列が一つの劇を構成している。悲劇時代がクライマックスなら、晩年の浪漫喜劇時代は差当りアンティ・クライマックスの機能を果している。

私は嘗て悲劇の最高峰として『リア王』を挙げ、喜劇の最高峰として『あらし』を挙げると言った。が、『リア王」について、たとえいささかなりとも自分の感動を語り得た舌は、『あらし』に対しては殆ど用をなさない。

一つにはその原文の詩の美しさが、他国語に翻訳し得る限界を遥かに越えているという事もある。勿論、それは『あらし』に限らぬ、シェイクスピアを訳す以上、程度の差こそあれ、どの作品についても言える事だ。それにしても、『あらし』に関しては、その歎きが殊のほか深い。が、それはもう言うまい。だが、翻訳不能の原文の美しきを別にしても、『あらし』の様な作品について、吾々はどうしてその感動を語り得ようか。何かを語れば、作品そのものの、そしてそれから受けた感動そのものの純粋と清澄とを穢さずには済まされまい。『あらし』はそういう作品なのである。
※一部改行しました

新潮社、シェイクスピア、福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』2016年第70刷版P279-280

シェイクスピア翻訳で有名な福田恆存が悲劇の最高峰として『リア王』を、そして喜劇の最高峰としてこの『あらし』を挙げたというのは非常に大きな意味があると思います。

そしてこの後でさらに次のように述べます。

『あらし』は『リア王』の世界を浄化したものであるが、その浄化恢復かいふくされた秩序感覚の底には依然として『リア王』の世界が潜んでいる。不信、絶望、嘲笑、醜怪、不条理が悪夢の様に、しかし晴れ渡り澄み切った朝、目が醒めて、それが信じられぬ様に、正にその様な形で残っている。その意味で、「ああ、素晴らしい、新しい世界が目の前に、こういう人たちが棲んでいるのね、そこには!」(第五幕第一場)というミランダの有名なせりふより、私にとっては次のキャリバンのせりふの方が遥かに強く胸を打つ。

時には歌声が混じる、それを聴いていると、長いことぐっすり眠った後でも、またぞろ眠くなって来る―そうして、夢を見る、雲が二つに割れて、そこから宝物がどっさり落ちて来そうな気になって、そこで目が醒めてしまい、もう一度夢が見たくて泣いた事もあったっけ。(第三幕第二場)

無垢のミランダではなく、醜悪の化物キャリバンにこういう美しいせりふを言わせる、天才シェイクスピア以外の誰がそれを為し得たであろうか。

新潮社、シェイクスピア、福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』2016年第70刷版P282-283

この解説を読んだ後にじっくりと『あらし』を読んでみるとその意味がよくわかります。私が初めて『あらし』を読んだ時は解説を読まずに『夏の夜の夢』の流れでぼんやりと読んだだけでした。ですのでこの作品の持つ意味をあまり感じ取ることもできませんでした。

ですがこの解説を読み、そして『リア王』も読み返し、さらには様々なシェイクスピア作品や解説書を読んだ後で改めて『あらし』を読んでみると、なるほど、この福田恆存の解説はなんと味わい深いものかとどきりとしました。

まさに『あらし』には『リア王』の悲劇がその背後に流れています。

プロスペローの境遇は娘たちに裏切られたリア王や息子に裏切られたグロスター伯を彷彿とさせます。

『リア王』ではそんな彼らが救いようのない絶望に叩き込まれて物語は終わるのですが、『あらし』ではなんと、プロスペローはその地位を回復し、さらには敵とまで和解するという離れ業までやってのけます。

「魔法を使う」という現実世界では反則的な方法を使いはするも、シェイクスピアがこのようなフィナーレを書いたというのは非常に大きな意味があると思います。ましてこの作品はシェイクスピアが単独で書いた最後の作品になります。自身の演劇人生のフィナーレにこうした物語を持ってきたというのも何とも味わい深いですよね。

この文庫版では福田恆存の解説の他にも中村保男による解説も収録されていてこちらの解説も非常にわかりやすいです。ぜひ文庫版の『夏の夜の夢・あらし』をおすすめしたいなと思います。

『リア王』と合わせてぜひおすすめしたい作品です。

以上、「シェイクスピア『あらし(テンペスト)』あらすじと感想~『リア王』と対をなす大団円!爽やかな読み心地が魅力の傑作劇!」でした。

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