まるで異世界!ユダヤ教の安息日、シャバット~嘆きの壁の祈りに心が震えた! イスラエル編⑨

イスラエル編

まるで異世界!ユダヤ教の安息日、シャバット~嘆きの壁の祈りに心が震えた! 僧侶上田隆弘の世界一周記―イスラエル編⑨

4月5日金曜日。

ユダヤ教徒にとって、毎週金曜夕方から土曜日の夕方までは安息日あるいはシャバットと呼ばれる特別な1日である。

安息日にはいかなる労働もすることは許されない。

これは単に仕事を休むというレベルに収まるものではない。

車に乗ることも料理を作ることも禁止される。

さらにはペンを握ることも、電化製品のスイッチを入れることさえも禁止されるのだ。

正直、どうやってそれで生活が成り立つのかぼくには想像もつかない。

この安息日の規定はモーセの十戒に記されている。

だからこそエルサレムのユダヤ教徒は厳格にその決まりを遵守するのだ。

では、労働を休んで人々は何をしているのだろうか。

彼らはその時間をお祈りであったり、家族や親しい友人たちとの時間を思い思いに過ごすのだそうだ。

そしてシャバットの夜、すなわち金曜の夜は嘆きの壁でのお祈りはピークを迎える。

というわけで、ぼくもその夜、嘆きの壁に行ってみることにしたのである。

前に見た時とは比べられないほどの人である。

そして黒い服を着た超正統派の方々が目立つ。観光客の姿は逆にまばらだ。

これは嘆きの壁から離れたところからズームで撮った写真だ。

今日は神聖な祈りの日だ。ぼくはこれより先、写真を撮るのを控えた。

それだけ、前回来た時とは空気が違ったのだ。

キッパを被り、ぼくもこの中に入っていく。一般人もここに入ることは許されている。もちろん、邪魔をしない限りという制限はきっとあるのだろう。

恐る恐る、嘆きの壁に近づいていく。

ものすごい人の数だ。近づけば近づくほど、その威圧感を感じる。

ユダヤ超正統派の黒い服装の人たちが大挙してここにお祈りに来ている。

そして不思議なことにこれだけの人数の人がそれぞれ自分のペースでお祈りの言葉を捧げているのだ。

前後に頭を振りながら、手にした聖書を口ずさんでいる。

これだけ多くの人がそれぞれに動き、言葉を発している。

だが、そのばらばらな声の響きがなぜか合流し、ひとつのどよめきのように聞こえてくるのだ。

ばらばらな頭の動きもなぜか一体感があるように感じられてくる。

本当に不思議な光景だ。息を呑んで見入るしかなかった。

そしてぼくはこの嘆きの壁の左端の入り口から、室内のお祈り場所に歩を進めた。

これは暗くなる前に撮った写真であるが、この写真の左側に穴のようなものが見えるだろうか。それが室内のお祈り場の入り口だ。

この室内も壁に向かって祈れるようになっている。壁は建物で外からは見えなくなってしまうが、ずっと先まで続いている。室内に入っても壁に触れることは出来るのだ。

そして室内は広い洞窟のような構造で、奥に進むとドーム状の天井をした長方形のスペースが広がっている。

ここもユダヤ超正統派の方達ですでにいっぱいになっていた。壁に向かって前方からびっしりと並んでお祈りをしている。

壁の反対側が通路になっていて、ここだけかろうじて人が通れるようになっていた。

そこを歩きながらドーム近くまで入り、通路そばの超正統派の方たちの間にお邪魔させていただいた。そこしか立ち止まれる場所がなかったのだ。

ここは室内。しかも洞窟のように声が反響する。

外で聞く祈りの声とはまたちがう響きだ。より強く、より太く聞こえてくる。

19時を少し過ぎた頃だろうか、どこからともなく歌声が聞こえてくる。

一人の声だ。

するとそれまでめいめいが自分のペースでしていたお祈りの声が止み出す。

そして一人の歌声が柔らかにこの広場内に響き渡る。

何が起こったのかわからないぼくは呆然と辺りを見渡す。

すると、突如大合唱が始まったのだ!

これまでそれぞれが唱えていた祈りが急に一つに集約された。

それも今までとは比べられないほどの声量で。

一瞬で持っていかれた。

鳥肌が止まらなかった。未だに何が起こっているのかわからない。

ぼくは突如始まった合唱に圧倒されてしまった!

ここは洞窟のような室内だ。閉じられた空間に祈りの歌が充満する。

その声は「音」というより「物質」のように膨張していく。それはまるでどんどん太くなっていく柱のようだった。

それほどの圧力だった!

歌は徐々にリズミカルに変化していき、思わず体を揺らしたくなるような、そんな曲調に変わっていった。

手拍子をする人も出てきた。

もはや祭りのようだ。歌っている人たちも楽しそうな表情や恍惚の表情を浮かべている。

リズムと共にどんどん場の空気も高揚してくる。

すると、急に満員の群衆が一斉に壁とは反対の向きに体を反転させてきた!

つまり壁のほうを向いているぼくと相対する形になったのである。

これには面食らった。いや、もはや恐かった!逃げ出したかった!

でも通路はもう人でいっぱいでどこにも逃げ場はない。

おとなしくぼくは周りに倣って反転することにした。

こうなるとぼくは割と前方側に位置することになる。背中からの圧を感じる。

反転すると同時にさらに祈りの歌は勢いを増していく。

最高潮に達したのではないかというくらい声も大きくなり、リズムを刻んでいる。

この場で感じた一体感はものすごいものであった。

これを毎週ここで繰り返し行っているのかと思うと、ぼくにはもう何がなんだかわからない気持ちになってくる。

でもひとつ、今日分かったことがある。

ここでは、宗教が生きている。

明らかにここは特別な場所であり、神聖な場所なのであろうと。

この数日前、ぼくは旧市街と新市街の街並みを見て、エルサレムは観光地としての側面が強いのではないかと考えざるをえなくなっていた。

でも、この経験を通じて、ここは宗教が生きている地であることを痛切に知ることになった。

観光地としての側面もたしかにエルサレムの一面かもしれない。

けれども、こうして誠実に宗教と向き合う人がこんなにいるのだ。

聖墳墓教会もたしかに観光客でいっぱいだったかもしれない。

でも、真剣な気持ちで祈りを捧げている人は数知れないほどいるにちがいないのだ。

ぼくは観光客の一部を見て、それを全体だと思い込んでしまっていたのだ。

そのことに気づかされたシャバットの夜だった。

ぼくは嘆きの壁を後にし、ホテルへの道を歩いて行った。

暗い迷路のような道。

エルサレムに対するぼくの思いを表すかのような道だった。

ぼくはまだこの街のことを全然知らない。

エルサレムはぼくの思っていたよりも、はるかにはるかに奥深くて得体の知れない街だった。

続く

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