(14)レーニンの文学観~ドストエフスキー、トルストイらをどう見たか
レーニンの文学観、芸術観を考える上で彼が保守的な考えを持っていたというのは意外な気がしました。革命家=既存の秩序の破壊というイメージが私にはありました。ロシアのニヒリストは特にそのような傾向があります。ツルゲーネフの『父と子』に出てくるバザーロフというニヒリスト青年はその典型です。
しかしレーニンはそうではなく、保守的な文化観の持ち主だったのです。
この記事ではそんなレーニンの文学観、芸術観を見ていきます。
レーニンの文学観、芸術観を考える上で彼が保守的な考えを持っていたというのは意外な気がしました。革命家=既存の秩序の破壊というイメージが私にはありました。ロシアのニヒリストは特にそのような傾向があります。ツルゲーネフの『父と子』に出てくるバザーロフというニヒリスト青年はその典型です。
しかしレーニンはそうではなく、保守的な文化観の持ち主だったのです。
この記事ではそんなレーニンの文学観、芸術観を見ていきます。
今回の箇所は「レーニンに学ぶ」において非常に重要なことを見ていくことになります。
「マルクス主義はソ連の崩壊で間違いが証明された」という言い方がされることがあります。そして同時に「ソ連の社会主義は真のマルクス主義とは違うのだから今なおマルクスは間違っていない」という反論もなされます。
たしかにロシア革命後に権力を握ったボリシェヴィキは腐敗しました。しかしこれは「マルクス主義は必然的にそうなる」とか、逆に「真のマルクス主義ならそうはならないはずだ」という議論とは少し違う次元の話なのではないかと私は疑問に思ってしまいました。
これは主義とかシステムの問題ではなく、「人間そのものにおける問題」なのではないかと私は思ったのでありました。
1918年3月、第一次世界大戦は今なお続き、ドイツ軍は首都サンクトペテルブルク(ペトログラード)に迫っていました。
そこでレーニンは首都をモスクワへ移転することに決定します。
また、第一次世界大戦と革命によって農村は荒廃し、輸送システムも崩壊したためロシアの食糧事情はすでに危険な状態でした。そしてそこに凶作が重なりさらなる危機が迫っていました。 政権を握ったレーニンは早くも重大な局面に立たされます。
そこでレーニンが取ったのは強制的な食糧徴発という方法だったのです。
この記事ではそんな窮地のレーニンが取った政策をお話ししていきます。
今回の箇所ではレーニンの革命観が端的に示されます。
被搾取者である我々はブルジョアジーに対して何をしても許される。
「なぜなら、われわれは世界で初めて、だれかを隷属化ないし抑圧するためではなく、万人を軛
から解放するために剣を取るからである……。血?血を流そうではないか、もしそれのみが海賊的旧世界の灰・白・黒の旗を深紅に変えることができるなら。」
そう言ったレーニンでしたが、彼が権力を握ったことで結局党幹部は腐敗し、平等を謳いながら餓死者が多数出るほど人々は飢え、格差と抑圧が強まったのも事実でした。そしてスターリン時代には抑圧のシステムがさらに強化されることになります。
この記事ではレーニンが権力を奪取していく過程をお話ししていきます。
クーデターによって成立したボリシェヴィキ政権が長く生き残ることを当時の誰も想像していなかったというのは、どこかナチスのヒトラー政権の成立を思わせます。
ドイツ国民もまさかヒトラーがあそこまでの権力を持つことになろうとは想像していなかったとされています。
「まさかこうなるとは」というのが歴史の怖い所です。そしてこれは形を変えて繰り返される危険性があります。私たちも他人事ではありません。
なんと、レーニンの政治活動の背後にはドイツ政府の秘密資金があったのでした。しかもその金額が桁外れです。そうした資金があったからこそロシアでのメディア掌握が可能になったのでした。
そもそもロシア二月革命勃発時、スイスに亡命中だったレーニンを封印列車でロシアに送り届けたのもドイツです。
ドイツは戦争からの撤退を主張していたレーニンをロシアに送ることで、ロシア政府が対独戦争から手を引くことを狙っていたのでした。
ですのでドイツは帰国後もレーニンを秘密裏に支援していたのです。
レーニンが権力を掌握できたのもドイツの戦略があったからこそというのは私にとっても驚きでした。
今回の記事で読んでいく箇所は私にとってもかなりの驚きでした。
こうまで堂々と強盗をしそれを資金源にする集団が政治集団として表舞台にいるという事実。
そしてこの時から影のギャングスターとして暗躍していた後のソ連の独裁者スターリンの存在。
資本家は労働者から収奪していたのだから、我々から収奪されるのは当然だという理屈をレーニンは主張します。まさに「目的は手段を正当化する」というレーニンの思想が表れています。
この記事で説かれる箇所はこの本の中でもトップクラスに重大な指摘です。「宗教とは何か」という問題においてこれはかなり突っ込んだ内容です。もちろん、ここで述べられること=宗教と絶対的に言い切れるわけではありませんが、宗教が広まっていく過程をピンポイントで指摘しているようにも思えます。
これは僧侶である私にとっても無視できない問題です。レーニンの生んだ共産主義ソ連は宗教がベースになっている可能性がある。宗教をどう定義するかによっても異なってきますがこれはこの後も考えていかなければならない大きなテーマであると思います。
レーニンは海外旅行から帰国後の1895年12月、革命活動の容疑で逮捕されます。これが彼にとっての初めての逮捕となりました。
ですが想像以上に監獄は緩かったようです。むしろ快適とさえ言えたかもしれません。レーニンはこの監獄期間を利用したくさんの本を読み、政治的著作の執筆まで行っています。
差し入れも自由で、監視をかいくぐっての秘密のメッセージ交換までしていました。
これでは革命家を捕まえて監獄に入れた方が政府にとっては都合が悪いのではないかと思ってしまうほどです。
ドストエフスキーが逮捕された1849年の時とはまるで違う状況です。その頃の留置はかなり過酷で発狂する者や命を落とす者もいたというのですからその違いは歴然であるかと思われます。
レーニンは議論において異様な強さを見せました。その秘訣となったのが彼の毒舌や暴言でした。
権力を掌握するためには圧倒的に敵をやっつけなければならない。筋道通った理屈で話すことも彼にはできましたが、何より効果的だったのは毒舌と暴言で相手をたじたじにしてしまうことでした。
この記事ではそんなレーニンの圧倒的な弁舌についてお話ししていきます。