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ツルゲーネフ『処女地』あらすじと感想~ロシアの70年代ナロードニキ青年達を描いた大作

処女地
目次

ツルゲーネフ『処女地』あらすじ解説―ドストエフスキーの『悪霊』と比較に最適!

ツルゲーネフ(1818-1883)Wikipediaより

『処女地』は1877年にツルゲーネフによって発表された長編小説です。

私が読んだのは岩波書店、湯浅芳子訳の『処女地』です。

早速表紙のあらすじを見ていきましょう。

「ルーヂン」で1840年代人を,「父と子」で50年代のニヒリストを描いた作者は,この作品で70年代のナロードニキ青年をとりあげる。ハムレット型のネジダーノフ,理想への固い信念を失わないマリアンナ,地味だが着実なリアリストのソローミンを中心に,かれらの「ヴ・ナロード」の運動と恋が,流麗な筆致で描かれる。

岩波書店、湯浅芳子訳『処女地』

この小説はツルゲーネフの晩年に書かれた最後の大作で、あらすじにあるように70年代の青年たちをテーマに小説を書き上げました。

巻末により詳しい解説がありましたのでそちらも引用します。この作品が世に出るまでのツルゲーネフの歩みがわかりやすく述べられています。

イワン・セルゲーエヴィッチ・ツルゲーネフ(一八一八-一八八三)は、一八五六年に最初の長篇(正確に言えば中篇)『ルーヂン』を発表して以後、

  『貴族の巣』(一八五九年)
  『その前夜』(一八六〇年)
  『父と子』(一八六二年)
  『煙』(一八六七年)
  『処女地』(一八七七年)

という順序で、有名な六つの長篇を発表していった。

これらの長篇はいずれも、農奴解放(一八六一年)の前後四十年、十九世紀の四十年代から七十年代にわたるロシア社会の現実を描こうとしたもので、それぞれの年代におけるロシア社会の社会的・歴史的な特徴をとらえ、それをテーマとしている。

すなわち『ルーヂン』において四十年代人を、『父と子』において六十年代人を描いたツルゲーネフは、『処女地』においては七十年代の人民派ナロードニキ青年を描いているのである。

岩波書店、湯浅芳子訳『処女地』P475

ツルゲーネフが今回の作品で描こうとした人民派ナロードニキ青年とはどんな人たちなのかというと、次のように解説されています。

六、七十年代の革命家、すわなち人民派は、主として都会育ちのラズノチーニェツ・インテリゲンチャであった関係から農村の事情にうとく、ロシアの農村における土地共有体、いわゆる”オプシチーナ”や”ミール”を過大評価し、それをもって”社会主義的精神にみちた人民労働の幸福なる組織”だとなし、そこにヨーロッパとは経済的土地的条件を異にするロシアの特殊性を認め、そうしたロシアを資本主義の発達と労働者のプロレタリア化とを経験するヨーロッパに対置させ、「ヨーロッパの不幸、出口なき状態はわれらの教訓である」と言い、土地共有体ミールや農民の”村団”や職人の”職業アルテリ”を、資本主義とプロレタリア化からロシアを救う社会生活の特異の基本であるとし、自分たちの革命主義の頼むべき支柱を農民階級に求め、全希望をそれに繋いだのだった。

そして一八七四年春、直接人民に働きかけるために、人民派の青年たちは偽のパスポートを持ち変装して農村に入りこみ、非合法パンフレットを頒布して農民たちを暴動に喚起しようとしたが、現実にあたって彼らは苦しいドラマを経験しなければならなかった。

つまり現実の農民は、けっして彼らが描いていたようなものではなかったのである。

岩波書店、湯浅芳子訳『処女地』P478-479

ナロードニキ青年とは何かということについては、上の解説のように少しややこしいですが、逆にこういうややこしい理論が讃美される風潮があったというのはなんとなく伝わるのではないかと思います。

そしてそんな社会主義的理論をもとに身分を偽って農村に潜入し、暴動を扇動して社会体制を転覆させようとする青年たちが、ツルゲーネフが描こうとした70年代のナロードニキ青年だったのです。

しかしこの解説の最後に述べられるように、結局彼らは農村の実態を知らず、ただ理論に準じて社会を崩壊させようとする暴徒にすぎないという結末を迎えます。

そして興味深いことにドストエフスキーの『悪霊』でも同じテーマが描かれています。

『悪霊』のあらすじも見ていきましょう。


1861年の農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。――聖書に、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いた歴史的大長編である。

Amazon商品紹介ページより

『悪霊』が書かれたのはまさに1870年頃のことです。

これはツルゲーネフが描こうとした70年代の青年とぴったり重なります。

ツルゲーネフは社会主義思想を信ずる過激派が農村に潜入し暴動を起こす流れを描写しました。

それに対しドストエフスキーはある街を舞台に、社会主義革命家が起こす大混乱と陰惨な事件を描きました。

舞台は違えど2人の問題意識は共通するものがあります。

物語の深刻さ、どす黒さという点では『悪霊』のほうが圧倒的に際立っていますが、『処女地』の視点も非常に興味深いものがあります。

ドストエフスキーは人間性のどす黒さを前面に押し出しますが、ツルゲーネフは社会情勢を分析して鮮明に描きだすのがその本領です。

文学スタイルの違う2人の作品を見ることでより深くこの時代の人間精神を学ぶことができるような気がします。

『悪霊』を読む上でも非常に有益な作品であるように思いました。

感想

ドストエフスキーの『悪霊』とのつながりからも見てきた『処女地』ですが、この作品もやはりツルゲーネフの芸術的センスが遺憾なく発揮されています。

前作の『煙』のラストシーンでもその芸術溢れる描写に驚かされましたが、この作品でも思わず唸ってしまうような素晴らしい描写がありました。

ぜひその場面をここに紹介したいと思います。

場面は5月半ば、ロシアの初夏に主人公ネジダーノフが森へ散歩へ行くシーンです。

五月ももう半ばすぎて、はじめて夏らしい暑い日々がつづいた。―歴史の授業をおえて庭に出たネジダーノフは、庭から更に、それに一端を接した白樺の森へと歩いて行った。―この森の一部は十五年ばかり前、商人たちに持って行かれたのであるか、伐採されたところはどこも一面に白樺の若木が生えていた。

密生した樹の幹は柔らかい光沢つや消しの銀の柱のように、灰色がかった横輪をいくつもはめて立っていた。こまかい葉は鮮やかに親しげに、青々として、まるでだれかにすっかり洗われ、その上から漆でも塗られたようであった。濃い麦藁色の去年の落葉が平らな層をつくっている中から、春の若葉が尖がった舌のように芽を出していた。

狭い小径こみちが森じゅうを貫ぬき、嘴の黄いろい黒いつぐみがびっくりしたようなけたたましい叫びをたてながら、この小径を横ぎって、低く、地面とすれすれのところをあちこち飛びまわっていたが、やがて、まっしぐらに茂みの中へ飛びこんだ。

半時間ばかり散歩したのち、ネジダーノフはとうとう、木の切株に腰をおろした。まわりには灰いろの古い木っぱがいっぱい、いつか斧で伐りとられて落ちたまま、やまになっていた。

冬の雪が幾度もそれを蔽い、春になると溶けていった―だれもそれにさわる者はなかった。ネジダーノフは、壁のように一面に生えた若い白樺に背中を向けて、くっきりと濃い、しかし短い影のなかに坐っていた。彼はなんにも考えずに、春の感覚にすっかり身を委せていた。

それは、若い心にも老いた心にも常に憂愁のまじる―若い心には波だちさわぐ期待の憂愁がまじり、老いた心にはじっと動かぬ悔恨の憂愁がまじる―特別な春の感覚である……
※小説を改行するのは心苦しいですが、一部改行しました

岩波書店、湯浅芳子訳『処女地』P89

私はこの中の「濃い麦藁色の去年の落葉が平らな層をつくっている中から、春の若葉が尖がった舌のように芽を出していた。」という表現にやられてしまいました。

北海道に住む私にはこの表現が特にぐっとくるものがあります。

去年の落ち葉が雪解けから顔を出し、そこから春の到来を告げる若葉が芽生えてくるあの暖かな春。春の陽気や新緑の芽生えは寒い冬をじっと耐えてきた北国の人間にとって毎年感動する瞬間です。

そして何より、「春の若葉が尖がった舌のように芽を出していた」というのがいいですね。この表現で若葉がまさに萌え出でているような動きが見えてきます。春の温かい生命力が感じられるかのような表現です。これは本当に痺れました!

ツルゲーネフの美しい自然描写は圧倒的です。まさに目の前にそんな情景が浮かぶようです。

しかもただ目の前に情景を浮かべさせるのではなく、その最も美しい瞬間をツルゲーネフは完璧に捉えるのです。これには脱帽です。

ここまで長々とツルゲーネフ作品を読んできましたが私の中で最も心に残ったのがこの1節です。それほどこの描写は私にとって衝撃でした。文学における芸術とは何かと聞かれたら、これから先きっと私はこの一節を思い浮かべることでしょう。

前作の『煙』のラストシーンも素晴らしかったですがこちらはそのさらに上を行く美しさでした。

私にとって『処女地』と『煙』のこの2つのシーンはツルゲーネフ芸術のツートップと言っても過言ではありません。

文学の専門家からするときっと異論はたくさんあるのでしょうが、芸術という意味で個人的に最もインパクトがあったのはこの2作品だったかなと思います。

『猟人日記』『アーシャ』『貴族の巣』などの作品も高い芸術性が評価された作品ですが、私個人としては円熟したツルゲーネフの筆が光る『煙』と『処女地』もおすすめしたいなと思います。

以上、「ツルゲーネフ『処女地』あらすじと感想~ロシアの70年代ナロードニキ青年達を描いた大作」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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