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(15)ホルバインの『墓の中の死せるキリスト』に衝撃を受けるドストエフスキー~『白痴』にも大きな影響を与えた名画とは

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【スイス旅行記】(15)バーゼルでホルバインの『墓の中の死せるキリスト』に衝撃を受けるドストエフスキー~『白痴』にも大きな影響を与えた名画とは

バーデン・バーデンでの地獄の5週間を過ごしたドストエフスキー夫妻はスイスのジュネーブへ向けて旅立った。

そしてその途中、バーゼルという街で二人は1泊しある絵を観に行くことになる。

ではアンナ夫人の言葉を聞いていくことにしよう。

外国生活の嵐の時代はバーデン・バーデンで終りをつげた。例によって救い出してくれたのは、わたしたちの守護神『ロシア通報』の編集部だった。しかし金にこまって、それまでにうんと借金をこしらえ質にも入れていたので、受けとった金はほとんどみな吐き出さなければならなかった。なにより残念だったことは、結婚のときに夫がくれた大事なブローチと、ダイヤとルビーのついた耳飾りを請けだせなかったことで、永久に手にはもどらなかった。

はじめわたしたちはバーデンから、パリに行くかイタリアにはいるかしたいと思っていたが、余裕がなかったので、しばらくジュネーヴに落ちついて、事情がゆるせば南のほうに移ることにした。ジュネーヴへむかう途中、夫がだれかから聞いていた美術館の絵を見るためにバーゼルに一泊した。その絵はハンス・ホルバインの作で、非人間的な虐待を受けて十字架からおろされ、腐朽するにまかせられているイエス・キリストをえがいたものだった。ふくれあがったその顔は傷で血みどろになり、おそろしいようすをしていた。フョードル・ミハイロヴィチはその絵につよい感動を受けたらしく、打たれたようにその前に立ちつくしていた。けれども、わたしはそれを眺めていられなかった。その印象はあまりになまなましく、それに格別体の具合もよくなかったので、わたしはとなりの部屋に出て行った。それから十五分か二十分たってもどってみても、夫は釘づけになったように元の場所に立ちつくしていた。興奮したその顔には、何度もてんかんの発作の最初の瞬間に見た例のおどろいた表情が見られた。いまにも発作が起こるかと思いながら、そっと彼の手をとって別の部屋に連れ出し、べンチに掛けさせた。さいわいそれは起こらずにすんだ。彼は次第に落ちついたが、美術館を出るときに、もう一度その感動的な絵を見ようといってきかなかった。

みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P180-181

バーデン・バーデンからバーゼルへは高速鉄道でおよそ1時間半ほどで到着できる。私もドストエフスキー夫妻の跡をたどり、バーゼルへやって来た。

さすがスイスの都市。駅舎の段階で明らかに近代的で洗練された空気を感じる。

バーゼル中心部までやって来た。明らかにオシャレ。それもかっちりとしたオシャレ感。パリやドレスデンともまた違う。スイス的な固さというものを感じてしまい、気後れしてしまった。

さて、こちらがドストエフスキーが衝撃を受けたホルバイン作『墓の中の死せるキリスト』が展示されている美術館だ。(※ホルバインには同名の父がおり、彼と区別するためにホルバイン(子)と表記されることがある)

では、その衝撃的な絵を私たちも見ていくことにしよう。

バーゼル美術館はとても現代的な建物。入場してすぐ正面に階段があり、そこから各階ごとにジャンルが分けられている。私は『死せるキリスト』目指して一目散に進んでいった。さあ、あの絵はどこにあるのだろうか・・・

しばらく歩いていると入り口の隙間からさっと視界に入ってきた!これだ!この瞬間のぞわっとした寒気と鳥肌を私は今でもはっきりと覚えている。

これがホルバインの『死せるキリスト』か・・・!たしかにこれは・・・!

私はこの絵を見て完全に思考が停止してしまった。何か有無を言わせぬ迫力がこの絵にはある・・・ドストエフスキーが固まってしまったのもよくわかる。入り口で感じた鳥肌がまだ収まらない。この鳥肌の持続力に驚く。私はまだ驚き続けているということか。

そしてこの絵そのものにも驚いたのだがこの絵のちょうど向かい側の壁に展示されていた絵にも驚いてしまった。それがこちらである。

右は拡大した写真なのだが、なんとこの祭壇画(バーゼル美術館HPに詳細あり)も『死せるキリスト』とほぼ同時期にホルバインによって描かれたものなのである。このギャップに私は驚くしかなかった。本当に同じ人が描いたのかと。これらが1520年代に同じ人物によって描かれたとは信じられなかった。いやあ、すごい。完全に頭が混乱してしまっている。

ドレスデン絵画館もそうだったがドストエフスキーが好んだ絵のある部屋は人気ひとけがない。ここも見ての通りガラガラだ。私はこのソファに座ってじっとこの絵を見ていたのだが、その時には私ひとりぼっちだった。じっくり観れてありがたいと言えばありがたいのだがちょっぴり寂しい気分でもある。

それにしても頭が動かない。何も浮かんでこない。これはもうだめだ。また明日来よう。

という訳で翌朝私はまたこの絵の前にやって来た。二度目の対面にも関わらず寒気と鳥肌が発生した。やはり恐るべき絵だ。

正直、昨日より頭が動かない。いや、見れば見るほど言語を絶していることがはっきりしてくる。何と言えばいいのかわからない。そして、この絵から目が離せない。完全に凍り付いてしまう。

だがこの絵を見ていてふと思った。「キリストの腐敗」がテーマのこの絵、ここから『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の遺体の腐敗へと繋がっていったのではないかと。直接的にそうでなくてもこの絵を見た時の衝撃はドストエフスキーの中にずっとあったのではないか。この絵が『白痴』の中で大きな意味を持って描かれているのは有名だが、実際にここに来てみて『カラマーゾフの兄弟』を連想してしまったのは自分でも興味深かった。

二度目の対面とあってようやく冷静さを少し取り戻し始めた。この絵は『死せるキリスト』の右側の壁に展示されていたものだ。こちらもホルバインの手によるものだ。前日に見て驚いた祭壇画と違いかなり写実的。特に服と手は本物と見まがうほどだ。こう見ると、ホルバインは描こうと思えばいくらでも写実的に描く力があったということになる。1520年代といえばとっくにミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍していた時代だ。死体を観察してスケッチするという習慣も始まっている。だからホルバインがとにかくリアルにキリストを描いたのも不思議ではない。

・・・だがそれでも何とも言えない何かがあるのは確かだ。

『死せるキリスト』は不死や神について深く考えたり悩んでりしていない人にとっては単なるグロテスクな絵で終わってしまうかもしれない。しかし真剣に不死や奇跡、神について考えたことがあるならばこの絵は恐ろしい印象を与える。だからドストエフスキーはあれほどのショックを受け、凍り付いてしまったのだ。私も離れがたかった。ドストエフスキーの気持ちがなんとなくわかった気がする。言葉にはできないが何か強烈にこちらを惹きつけてやまない何かがある絵だった。この絵についてドストエフスキーが何を思ったかに興味のある方はぜひ『白痴』を読んでみてほしい。

アンナ夫人の『回想』では出てこないが『日記』では短い滞在ながらも二人がバーゼル見物をしていたことが書かれている。

私もせっかくなのでこの街を少しだけ歩いてみることにした。

こちらはバーゼルの象徴バスラー・ミュンスター(バーゼル大聖堂)。赤い色が目を引く。丸みがないのも気になった。バーゼルに入って街歩きをしている最中もこの街の固い雰囲気を感じたのだが、この教会にもそれを感じる。これがスイス的ということなのだろうか。

この教会はプロテスタントの教会だ。思えば、私はこれまで世界各地の教会を訪れたがプロテスタントの大聖堂にはほとんど入ったことがなかった。右の写真を見てわかるように、カトリックや正教のような中央祭壇がない。「聖書のみ」という教義がこういうところに反映されているのだろう。教会内部の違いを感じながら拝観できるのは非常に興味深かった。

ただ、『日記』によればドストエフスキーはこの教会にはさほど関心を持たなかったようで、「この寺院は面白くない、おまえもミラノ大寺院をみなければ」とアンナ夫人をからかったそうだ。ドストフスキーの好みを知る上でもこうした比較材料があるのは非常にありがたいことである。

バーゼルの街はこじんまりしていて基本的には歩きで移動できる。ただ、坂も多いので長いこと歩くと若干の疲労感も否めない。トラムが網の目のように走っているのでそれを利用するのも手だろう。

若きニーチェが教授として勤務していたバーゼル大学の前も通った。ドストエフスキーとニーチェというテーマで学んできた私にとって、ぐっとくる瞬間だった。ゆかりの地巡りはやはり楽しい。(ドストエフスキーとニーチェについては「ニーチェとドストエフスキーの比較~それぞれの思想の特徴とはー今後のニーチェ記事について一言」の記事参照)

それにしてもバーゼルの街のかっちりしたオシャレ感に息が詰まりそうだ。

たしかに綺麗で洗練されている。だが何か敷居が高い感じがする。バーデン・バーデンのリラックス感に慣れてしまったからだろうか、そのギャップに戸惑っているのかもしれない。

スイスとドイツではまた全然雰囲気が違うということを実感したバーゼル滞在だった。

続く

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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