レミゼの主人公ジャン・ヴァルジャンの意義~神々やキリストを象徴する世界文学史上に輝く英雄像
レミゼの主人公ジャン・ヴァルジャンの意義~世界文学史上に輝く英雄像
前回の記事ではレミゼのおすすめの参考書、ディヴィッド・ベロス著『世紀の小説 『レ・ミゼラブル』の誕生』をご紹介しました。
この本ではレミゼがどのようにして生まれ、どのように広がっていったのか、そしてミュージカルとのつながりや物語に込められた意味など、たくさんのことを知ることができます。
レミゼがいかに前代未聞な作品であったかに驚かされました。当時の出版業界や文学界の様子も知れてとても興味深い1冊でした。
さて、今回の記事ではこの本の中でレミゼの主人公であるジャン・ヴァルジャンについて書かれた箇所を紹介していきます。ジャン・ヴァルジャンは世界文学史上、圧倒的な位置を占める英雄です。彼の存在は一体何を意味するのか、読者に何を伝えんがために存在するのか。そのことを今回の記事では考えていきたいと思います。
『レ・ミゼラブル』の構成~他の文学作品との比較
ジャン・ヴァルジャンのことに入る前に、まず『レ・ミゼラブル』の特徴を他の文学作品と比較した箇所を読んでいきます。ここを読むことでレミゼがどのような意図を持って書かれた作品なのかがざっくりとわかります。
『レ・ミゼラブル』全体の構成は、あらゆる時代の小説、とりわけ当時の小説におなじみの形式に従っている。たとえば、『ボヴァリー夫人』(一八五七年)もやはり、主人公の人生のほぼ始まりから終わりまでが語られる。『大いなる遺産』(一八六一年)は、ピップが成長してからより、幼少期に多くの時間が割かれているものの、大まかには、主人公を中心とした年代記として構成されている。
逆に『罪と罰』(一八六六年)は、ラスコーリニコフの子ども時代と生い立ちについては多くを語らないが、彼の犯罪からシベリアでの魂の救済までを追っている。〝一代記〟として見た場合、『レ・ミゼラブル』は、当時の典型的な文学作品なのである。
同時代のほかの小説―『戦争と平和』は一八六三年から一八六八年にかけて、『白鯨』は一八五一年に出版された―との共通点は、本筋だけならはるかに短い本ですむという事実だ。とはいえ、これらの傑作はいずれも物語を語ることだけがねらいではない。
ユゴーは、小説という形式で可能なことを、ほぼひとつ残らずなし遂げようとした。トルストイのように、歴史上の出来事の意義に関する考察をいくつも盛りこみ(そのいずれも、『戦争と平和』の最終章ほど読者を失望させるものではないが)、ドストエフスキーと同様、魂の葛藤を読者と分かち合い、ディケンズのように、貧乏とはどういうものかを読者に示そうとした。『レ・ミゼラブル』のあらすじは、森を通り抜ける小道のようなもので―小道に劣らず、森そのものが小説の主題なのである。
白水社、ディヴィッド・ベロス、立石光子訳『世紀の小説 『レ・ミゼラブル』の誕生』P22-23
※一部改行しました
『レ・ミゼラブル』は同時代のおなじみの「一代記」という形式をとっています。そしてそれだけではなく、引用の後半にありますように「トルストイのように、歴史上の出来事の意義に関する考察をいくつも盛りこみ(中略)、ドストエフスキーと同様、魂の葛藤を読者と分かち合い、ディケンズのように、貧乏とはどういうものかを読者に示そうとした。」というのが重要な点です。
ユゴーはレミゼを通して彼の思いを世界中の読者に語りかけようとしています。
ディケンズの『大いなる遺産』やドストエフスキーの『罪と罰』は以前当ブログでも紹介しました。
上の引用箇所ではディケンズの『大いなる遺産』が「一代記」の代表として述べられていますが、ディケンズの真骨頂は社会の貧困の悲惨を描きだしたところにあります。その代表が『オリヴァー・ツイスト』という作品です。
世の中には「悪人がいるのではなく、悪人を生み出す社会がある」。
ディケンズは世の中の悪を、個人の悪の問題であると同時に、社会の仕組みが生み出す悪としても考えます。
貧富の差が「虐げられた人」を生み出し、そこから抜け出したくてもどうしようもなくなった人が生きるために罪を犯す。
「悪いことをしたいから」という理由で犯罪に手を染める人間などほとんどいない。悪人を悪人だからと切り捨てるのは問題の解決にならないとディケンズは考えるのです。
ユゴーもこうした視点を強く持っています。それはレミゼを観たり読んだりした方にはきっとイメージできるかと思います。
ユゴーが書こうとした『レ・ミゼラブル』は当時の文学の王道中の王道でした。そしてその中でも最高のものたらんと書かれたものだったのです。
英雄ジャン・ヴァルジャンの意義
とはいえ、その小道は小説の道しるべである。(ちっぽけな)犯罪と(不当に重い)刑罰から始まり、改心、そして正しい行ないをどこまでも己に課してゆく主人公の姿が描かれる。ジャン・ヴァルジャンは、ラスコーリニコフやイワン・カラマーゾフとちがって、複雑で、あいまいで、自己批判的な、あるいは悲劇的な主人公ではない―ある意味、ちっとも小説の登場人物らしくない。さらに聖人とも異なり、いわば、新しい人間のモデルなのである。
白水社、ディヴィッド・ベロス、立石光子訳『世紀の小説 『レ・ミゼラブル』の誕生』P23
ドストエフスキーの代表作『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフと『カラマーゾフの兄弟』の主要人物イワン・カラマーゾフの2人は苦悩する知識人の典型です。ジャン・ヴァルジャンは彼らのような「複雑で、あいまいで、自己批判的な、あるいは悲劇的な主人公」ではありません。
著者曰く、ジャン・ヴァルジャンは当時の典型的な主人公たちとは違った「新しい人間のモデル」なのでした。
ジャン・ヴァルジャンは政治であれ宗教であれ、特定の党派も宗旨も代弁していない。彼が身をもって示しているのは、もっとも貧しく、もっともみじめな者でも尊敬に値する市民になってしかるべきという可能性である。肉体的、道徳的、感情的な障害をくり返し乗り越えていく姿が、彼を英雄にしているのはもちろんだが、同時に当時主流を占めていた考え方に反して、道徳的な進歩はだれにでも、社会のどの階層にいる人間にでも可能だと主張している。
ジャン・ヴァルジャンは回心したあと、寛容で慈悲深い人間になり、怒り、恨み、嫉妬、そして復讐にそそのかされても、他人を思いやるという使命をなし遂げるために、壮大な戦いをくり広げる。ジャン・ヴァルジャンという登場人物を通して、『レ・ミゼラブル』は、世間知らずだと切り捨てられがちな理想に、圧倒的な現実味を与えている。
だからこそ、ユゴーの小説は今日でも、百五十年前に出版されたときと変わらぬ意義がある。『レ・ミゼラブル』は和解の文学で、異なる社会階層の融和のみならず、わたしたち自身の人生を騒乱に変えてしまうような矛盾や対立まで解きほぐしてくれる。勧善懲悪を説くおなじみの物語ではなく、善人になるのがどれほど難しいかを鮮烈に示している小説なのである。
白水社、ディヴィッド・ベロス、立石光子訳『世紀の小説 『レ・ミゼラブル』の誕生』P23-24
一番最後の「勧善懲悪を説くおなじみの物語ではなく、善人になるのがどれほど難しいかを鮮烈に示している小説なのである。」というのが特に印象的です。ユゴーはレミゼを通して「善く生きる」とは何かを追求していたのでした。
ジャン・ヴァルジャンの苦悩と復活
複雑な筋、おびただしい数の登場人物、取りあげられている話題の多様さにもかかわらず、『レ・ミゼラブル』の中心となるメッセージを伝えているのは、ひとえに主人公ジャン・ヴァルジャンの行動である。
ジャン・ヴァルジャンは一生のあいだに、数多くの物理的な障害を乗り越え、三度にわたって深刻な心理的葛藤に見舞われる。(中略)
ジャン・ヴァルジャンは、徒刑囚時代に身につけた腕力と軽業師のような身軽さ、それに我慢強さのおかげで、フォーシュルヴァンを荷馬車の下から救い出し、修道院の壁をよじのぼり、犯罪者一味の魔の手から逃れ、マリエスを背負って下水道を通り抜けることができた。
白水社、ディヴィッド・ベロス、立石光子訳『世紀の小説 『レ・ミゼラブル』の誕生』P307
ジャン・ヴァルジャンはミリエル司教と出会ったことでこれまでの人生を悔い、回心しました。そしてその直後、ミュージカルでは出てきませんがプチ・ジェルヴェ事件によって真なる苦悩、葛藤にもだえます。
しかしそこからジャン・ヴァルジャンは立ち上がり、後に善良なる市長となって日々を過ごすのでした。
そこからも私たちが知っているように様々な困難や苦悩にまた直面し、それでもジャン・ヴァルジャンは戦い続けるのです。
その最たるものが「怪獣のはらわた」と表現されるパリの下水道でマリユスを背負って逃げ延びるシーンです。
この本ではそのシーンについて次のように述べられています。
怪獣のはらわたからの脱出シーンは、映画化を想定して書かれたかのようである。暗闇の恐怖、迷子になる恐怖、溺れる恐怖、閉じこめられる恐怖―こうした処々の、〝悪夢のスイッチ〟が、役者一名とあまり費用のかからないセットで撮影できる。ジャン・ヴァルジャンが道中のさまざまな障害を乗り越えていく過程を見せるのはさほど難しくはないし、道徳的な勝利も目に見える形をとる。背中にかついだ、ぐったりしているがまだ息がある青年は、ジャン・ヴァルジャンがその死を願ってもおかしくない相手である。もし助かれば、これまで愛情と配慮を一心に注いできた対象、彼の生きる理由そのものを奪われてしまうからだ。
重い荷を担いで、悪臭を放つ、ほとんど目の高さまでくる汚水のなかを進みつづけるジャン・ヴァルジャンは、へラクレスやテセウスから、十字架を背負ったキリストのような存在と姿を変える。下水道からの脱出は『レ・ミゼラブル』を、十九世紀の小説という枠には収まらない壮大なスケールに昇華させた。ひとつの伝説がつくられ、登場人物は神話の人物に変わったのである。
白水社、ディヴィッド・ベロス、立石光子訳『世紀の小説 『レ・ミゼラブル』の誕生』P164ー165
※一部改行しました
ここにありますようにジャン・ヴァルジャンは神話の神々やキリストになぞらえて創造された人物でもあったのです。
別の箇所ではこうも書かれています。
この桁外れの偉業は、ジャン・ヴァルジャンを神話や伝説の人物に近づけている。下水道からの脱山は、へラクレスの十二の功業のひとつのようだし、テセウスの冥界への旅を彷彿とさせる。しかし、これはゴルゴタの丘でもある。というのは、受難の主人公がどんな十字架にも劣らぬ重い荷を背負っているからだ。暗闇と瘴気のなかで何時間も苦闘した末に、ジャン・ヴァルジャンは光の射す出口にたどり着くが、門には牙をむいた番人が待ちかまえていた。地獄の出口の門番はテナルディエだった。海に沈めても何度でも浮かび上がってくる釣りの浮きさながら、テナルディエの驚異的なしぶとさに匹敵するのは、窮地から何度もよみがえるジャン・ヴァルジャンぐらいのものである。
白水社、ディヴィッド・ベロス、立石光子訳『世紀の小説 『レ・ミゼラブル』の誕生』P163
重荷を背負って苦難の道を行く。
それはキリストがたどったゴルゴダの道でもありました。
レミゼは本当に奥が深いです。何気なく語られるシーンにもこうしたユゴーの意図がふんだんに散りばめられています。知れば知るほどレミゼは面白い。そのすごさを感じさせられます。
数多の困難や葛藤に苦しめられるも、その度に力強く立ち上がり復活していくジャン・ヴァルジャン。
その力強い英雄像は後の文学界にも非常に大きな影響を与えました。
実はドストエフスキーの『白痴』という作品もこのジャン・ヴァルジャンから大きな影響を受けています。
ドストエフスキーも『レ・ミゼラブル』を愛していました。ドストエフスキーにとってもジャン・ヴァルジャンという英雄像は非常に大きな存在として映っていたのでした。
今回の記事ではジャン・ヴァルジャンの意義について考えてきました。本当はもっと詳しく書いていきたいのですがものすごく長くなってしまいますのでこの辺で終了したいと思います。もっと知りたい方はぜひ『世紀の小説 『レ・ミゼラブル』の誕生』を読んで頂けたらなと思います。
以上、「ジャン・ヴァルジャンの意義~神々やキリストを象徴する世界文学史上に輝く英雄像」でした。
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