ロシアの国民詩人プーシキンとは?代表作や生涯、特徴をざっくり解説!
はじめに
ロシアの国民詩人プーシキンはドストエフスキーが最も愛し、最も尊敬した文学者です。
ドストエフスキーは幼い頃から彼の詩にのめり込み、最晩年までずっと彼の作品と共にありました。
そんなプーシキンですが日本では名前は知られてはいるものの、どのような人物であるのか、どんな作品を世に残したのかとなるとあまり知られていません。
ロシアでは国民詩人と呼ばれるほど人々に愛され、今でもロシア人は皆彼の詩を暗唱できるそうです。実際に私のロシア語の先生はすらすら暗唱していました。「プーシキンはロシア人の心です。彼は私たちの心をすべて言い表しました」と先生はその後お話ししてくれました。やはりそれほどまでに愛されている詩人なのですね。
日本で言えば「祇園精舎の鐘の声…」で有名な『平家物語』だったり、「もののあはれ」の感覚を私たちが暗唱し、「あぁ、なるほどなぁ…」と心に染み入る感じに近いのでしょうか。
とにかく、ロシア人にとってプーシキンというのはそれほどロシア人の心にとって大きな影響を与えた存在だったようです。
今回の記事ではそんなプーシキンについてざっくりとお話ししていきます。
プーシキンの代表作
プーシキン(1799-1837)は国民詩人と呼ばれた偉大な詩人です。
彼の代表作は
1820『ルスラーンとリュドミーラ』
1822『コーカサスの虜』
1824『バフチサライの泉』
1825『ボリス・ゴドゥノフ』(※刊行は1830年)
1827『ジプシー』
1830『吝嗇の騎士』、『モーツァルトとサリエーリ』、『石の客』、『ペスト流行時の酒もり』
1831『ベールキン物語』
1825-1832『エヴゲーニイ・オネーギン』
1833『青銅の騎士』
1833『スペードの女王』
1836『大尉の娘』
などが挙げられます。
プーシキンは1837年貴族たちの陰謀によって決闘に誘い込まれ命を落としています。
もしその決闘がなければ当時38歳だったプーシキンはもっとたくさんの名作を生み出していたことでしょう。この決闘については後でまたお話しします。
プーシキンとは
プーシキンは作家としてどのような存在なのか。このことを知るのにうってつけの解説がありましたので引用します。
ロシヤの国民詩人としてのプーシキンの名を知らぬ人は、もはやわが国にも誰一人あるまいと思われる。イギリスのシェイクスピア、ドイツのゲーテ、あるいはイタリヤのダンテなど、もしそれらに匹敵する名をロシヤに求めるとすれば、われわれはプーシキンの名を指すほかに考えようはないのである。ゴーゴリ、ドストイェーフスキイ、トルストイなどは、いずれもプーシキンを母胎とせずには生まれ得なかった人々だったと、われわれは安んじて言いきることができる。
ゴーゴリは言う。―「プーシキンという名をきくと、ただちに思い浮かぶのはロシヤの国民詩人という考えだ。まったく我が国の詩人のなかで、彼ほどに国民的という呼名がしっくりする人はない。それこそ、まさしく彼に打ってつけの名なのである。彼のなかには、ちょうど字引のように、わが国語の豊かさや力強さや自在さが宿っている。彼は誰にもまして、それ(国語)の境界をおしひろげ、その領域を残りくまなく示した。プーシキンは異常な現われであり、おそらくはまた、ロシヤ精神の唯一無二の現われであろう。彼こそはロシヤ人が、その発達の窮極において、つまり二百歳の後において、あるべき姿を示すものなのだ。彼のなかには、ロシヤの自然も、ロシヤの心髄も、ロシヤの言葉も、ロシヤの気質も、ことごとくが映しだされて、さながら光学レンズの凸面に映る風景のように清らかで見事である。……」
プーシキン『スペードの女王・ベールキン物語』神西清訳 岩波文庫P261
さらに、ある意味から言うとプーシキンの最もすぐれた後継者の一人であったドストイェーフスキイは、その偉大な師匠について何と言うか。そのプーシキン論(米川正夫氏訳『作家の日記』河出書房版)から、次のような引用をこころみよう。―「私は断乎として言うが、プーシキンのような世界的共鳴の才能をもった詩人は、またと他になかった。しかもこの際、問題は単なる共鳴ということばかりでなく、その驚嘆すべき深さと、他国民の精神に己れの精神を同化させる力に存するのだ。その同化は殆ど完全無欠であるが故に奇蹟的であり、世界じゅうの如何なる詩人にも、かような現象はくり返されなかったほどである。これは全くプーシキンにのみ見られることであって、この意味において、くり返して言うが、彼は前代未聞の現象であり、我々に言わせれば予言的なものである。……」
すなわちプーシキンは、ドストイェーフスキイによれば既に国民詩人の域をこえて、世界の魂に共鳴し共感する世界詩人なのである。
プーシキン『スペードの女王・ベールキン物語』神西清訳 岩波文庫P263-4
この2つの引用にありますようにプーシキンがいかにロシア人の心をとらえ、そして後の世代にも大きな影響を与えているかわかります。
ロシア文学研究者の川端香男里氏も次のように述べています。
ロシア文学史においては、伝統的にロシア文学の父プーシキンとか国民詩人プーシキンというよび方が行われてきた。前者の「父」はロドナチャーリニク(創始者)の訳語である。(中略)プーシキンにおいてもっと大事なことは、彼が単に近代ロシア文学の創始者であっただけではなく、ロシア文語の創始者でもあったということである。
国民詩人という表現は、最も国民的な詩人、つまり、その国の特色をよく表している最もすぐれた詩人であるということである。ギリシアのホメーロス、ローマのウェルギリウス、イタリアのダンテ、イギリスのシェイクスピア、ドイツのゲーテなどという一覧表の中にロシアのプーシキンが位置することになるだろう。
川端香男里『ロシア その民族と心』P155-156
プーシキン以前はロシア語で書かれた美しい文学というものは存在しませんでした。ロシアの知識人階級は皆フランス語で日常会話や手紙をしたためていましたし、ロシア語で美しい文学を作ろうなどとは誰も考えてもいなかったのです。
そういう時代の中でロシア人の魂であるロシア語を見直し、それまで芸術と見なされていなかったロシア語を完璧に芸術の域にまで昇華させて詩の形にしたのがプーシキンだったのです。
ロシア人の心を見事に描きだし、さらにはそれまで劣った言語であったロシア語を芸術の域にまで高めたところにプーシキンの偉大さがあったのです。
ですので、プーシキンの詩は翻訳されてしまうとその輝きが失われてしまうと言われています。もちろん、その筋書きや言葉の流れは翻訳者も苦労の末ぎりぎりのところで訳して下さっています。
しかしロシア人が聞くロシア語のプーシキンの作品と、翻訳したものを聞く外国人ではその受け取った時の感覚がまるで違うそうです。
やはりその国その国の母国語というのは大きな意味を持ちますね。
プーシキンはロシア人にとっての国民文学を創造したということで国民詩人と呼ばれるようになったのです。
プーシキンの生涯と死
プーシキンは1799年、旧い家柄の貴族の父の下、モスクワで生まれました。
1811年、プーシキン12歳の頃、新設された学習院に入学し、15歳の頃には彼の詩『わが友なる詩人に』が「ヨーロッパ通報」誌に掲載されるなど、すでにその天才ぶりが現れ始めます。
そして18歳で学校を卒業すると、外務庁に勤務し、社交と詩作に没頭し始めます。
しかしその詩が反体制と映ってしまい、南ロシアに追放されてしまいます。
ここからプーシキンは不遇と放浪の時代が続くことになりますが、この時代に書かれたいくつもの作品、特に『エウゲーニイ・オネーギン』の一部の出版により、名声が高まります。
そして1826年にモスクワに帰還。皇帝や貴族たちに監視されつつも社交界に復帰し詩作を続けます。その後も様々な出来事があるのですが大きな転機になったのが1830年のナターリヤ・ゴンチャローワとの結婚でした。
彼女は非常に美しい女性でした。
幸せな結婚生活が待っているかと思いきや、彼女が原因となって彼の生涯は破滅へと向かって行くのです。
1834年、彼の妻ナターリヤはその美しさのゆえに宮中に紹介されることになりました。そして彼女は引っ張りだこになり、何か催しがある度に出席せねばならず、嫉妬と羨望、誘惑の危うい境遇に身を置くことになったのです。
以下、プーシキン『スペードの女王・ベールキン物語』の解説より引用します。
こうした生活が、詩人から思索と述作の時をうばうとともに、その家庭の平和をもむしばんで行ったことは当然である。のみならずそれは、多大の出費をさえ伴って、ただでさえ濫費癖のあった詩人の財政状態を、すっかり破綻させてしまった。ついに彼は皇帝に請願して、国庫から三万ルーブルの貸附金を仰ぐという始末になった。そうした弱味につけこんで、廷臣たちや文学上の論敵たちが詩人の身のまわりに仕掛ける陥穽は、いよいよ悪どくもなれば露骨にもなった。詩人はひたすらに自由をねがい、脱出の時を夢にえがいた。が、もはや一切は手おくれだった。今や詩人は、完全に宮廷の囚人だったのである。
そして間もなく、最後の破局がおとずれた。一八三六年の秋、詩人はダンテスという若い近衛士官に、決闘を申し込まねばならぬ羽目に追いこまれた。ダンテスというのは、もともとフランスの亡命貴族で、その頃はロシヤ駐在オランダ公使の養子になって、美貌と才智とをもって社交界の人気をあつめていた男である。かねてから詩人の妻ナターリヤに言い寄っていたが、ナターリヤの方でも或る程度その好意にこたえていた形跡があるとも言われ、この二人の関係は久しく社交界の噂のまとだったのである。それがついに、詩人の名誉を甚だしく傷つける怪文書となって現われるに及んで、プーシキンはついにダンテスに決闘状を送ったのであった。
この決闘沙汰は、狼狽したオランダ公使の苦肉の策や、皇帝自身の介入までがあって、はかばかしく進行しなかった。そのあいだに、ダンテスの懸想の相手は実はナターリヤの妹であったことを証明するため、この妹とダンテスの結婚式が挙げられるという念入りな一幕さえ演じられた。しかもダンテスは、そんなことで行いを改めるような人物でなかった。(中略)
決闘は翌一八三七年の一月二十七日(ロシヤ暦)の夕方、ぺテルブルグの郊外でおこなわれた。ダンテスの一発で、詩人は腹部に致命傷を負い雪の中に倒れながら、しかも闘志を失わず、相手に一弾をむくいたが、これはかすり傷を与えたにすぎなかった。詩人は一昼夜半ののち絶命した。そして憲兵の厳戒のもとに、葬儀は人目をしのんで執行された。
プーシキン『スペードの女王・ベールキン物語』神西清訳 岩波文庫P281-283
プーシキンの生涯と死についてはアンリ・トロワイヤの『プーシキン伝』にその顛末が詳しく描かれています。
写真のように770ページを超える超大ボリュームでプーシキンの人生が描かれています。プーシキンの生涯をもっと知りたい方はこちらがおすすめです。
おわりに
この記事ではロシアの国民詩人プーシキンとはいかなる人物かということをざっくりお話ししてきました。
次の記事ではそのプーシキンとドストエフスキーの関係をお話しし、その後からは実際に彼の作品を読んでいきたいと思います。
彼の作品を通して、彼がどのような作風を持ち、何が偉大で何がロシア文学に影響を与えていったのかを具体的に見ていきたいと思います。
以上、「ロシアの国民詩人プーシキンとは?代表作や生涯、特徴をざっくり解説!」でした。
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