プーシキン『石の客』あらすじと感想~プレイボーイの代名詞「ドン・ファン」をロシア流に翻案した名作悲劇

石の客 ロシアの偉大な作家プーシキン・ゴーゴリ

プーシキン『石の客』のあらす解説~プレイボーイの代名詞「ドン・ファン」をロシア流に翻案した名作悲劇

アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)Wikipediaより

『石の客』は1830年にプーシキンによって書かれた作品です。

私が読んだのは河出書房新社、北垣信行、栗原成郎訳『プーシキン全集3 民話詩・劇詩』所収の『石の客』です。

早速この作品についての巻末の解説を見ていきましょう。

 プーシキンは『石の客』の材を、古くから、広くヨーロッパに伝わるドン・フワン伝説に仰いでいる。伝説的なドン・フワン像は芸術家に絶えず新しい創作意欲を喚起させてきた。このドン・フワンの形象と「石の客」のテーマを最初に与えたのは、ティルソ・デ・モリーナなる筆名で知られる、スぺインの聖職者ガブリニル・テリェスで、その『セビーリャの色事師と石の客』(一六三〇)は、現在、世界に知られているドン・フワン像の原型とされている。

プーシキンはモリエールの『ドン・ジュアンー石像の宴―』(一六六五)も、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』(一七八七)」も、バイロンの『ドン・ジュアン』(一八一九-二四)も知っていたが、彼がこれらの先人たちから借りているのは作中人物の名前と「石像の客」というテーマだけで(題銘はモーツァルトのオペラの台本―ダ・ポンテ作―から引用されている)、彼のドン・フワンの人物像は世界文学における既成のドン・フワン像の類型ではなく、特異な形象となっている。そこにはドン・フワンの非神話化が行なわれている。ベリンスキイはそれを、「巨人的創造」と呼んだ。
※一部改行しました

河出書房新社、北垣信行、栗原成郎訳『プーシキン全集3 民話詩・劇詩』P619-620

「ドン・ファン」という言葉は私達もよく耳にしますよね。

モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』より、剣を携えたドン・ファン Wikipediaより

その「ドン・ファン」の起源はスペインで1630年に書かれた『セビーリャの色事師と石の客』という作品が始まりだそうです。

美男で好色で放蕩的人物として強烈な個性を放ったドン・ファンはその後の作家や芸術家に影響を与え続け、いつしか「ドン・ファン」はプレイボーイ、女たらしの代名詞となっていったようです。

ドン・ファンはスペイン語でDon Juanと綴ります。

面白いことにこれをイタリア語風に読むと「ドン・ジョヴァンニ」、フランス語風だと「ドン・ジュアン」という読み方に変わります。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』もここから来ていたのですね。

「ドン・ファン」も「ドン・ジョヴァンニ」も「ドン・ジュアン」もどれも聞いたことのある呼び名でしたが、まさか全部同じ人だというのは知りませんでした。

さて、そんな「ドン・ファン」ですがプーシキンは『セビーリャの色事師と石の客』からドン・ファンと石の客をモチーフに悲劇を作ろうとしました。

上の解説にありますように、プーシキンは既成のドン・ファン像をそのまま採用することはしませんでした。

彼の描くドン・ファンはたしかにプレイボーイではあるのですが、スペインやイタリア、フランスのように女をもてあそんでは捨てるというような軽薄な男ではありません。

『石の客』におけるドン・フワンはきわめて情熱的ではあるが、打算的なところがなく、誠実で、決断力のある、豪胆な人間として描かれている。それに、彼は詩人でもある(第二場において女優ラウラがうたう歌の作詩者はドン・フワンである)。

彼は情熱的な求愛者ではあるが、冷血な放蕩児、職業的な色事師ではない。彼には、女心をもてあそんで、逃亡するというモリエール的なドン・フワンの態度はない。

彼の三人の女性―イニェス、ラウラ、ドーニャ・アンナ―との関係をみると、まず、故人となった「かわいそうな」イニェスを回想する彼の感慨には美しい愛のノスタルジアがある(「あの女には/本当の美人の要素はわずかしかなかった。ただ目、/あの目だけは別だ。……彼女の亭主というのが、がさつな無頼の徒だった、/おれがそのことを知るのが遅すぎたのだ……かわいそうなイニェス!……」)。

つぎに、若い女優ラウラは才能のある、快活な、奔放な女性で、ドン・フワンの女性版とも言えるが、彼女にとってドン・フワンは「わたしの誠実なお友だちで、風のように気まぐれな恋人」である。彼女にたいするドン・フワンの愛は明るく、のびやかで、友情味にあふれている。

第三の女性、ドーニャ・アンナは繊細な、陰影に富む形象で、敬虔さと嬌態、慎ましさと熱情、素朴さと冷笑とが不可思議に結びついた神秘な存在である。

ドン・フワンはドーニャ・アンナにたいして、最後の、真実の愛を感じる。老練な誘惑者も彼女のまえではうぶな少年同然で、本来の手練手管を発揮する余裕もなく、「恋の歌を作る即興詩人の要領でやる」ほかはなかった。

そして最後に、ドーニャ・アンナのまえで自分の正体を告げ、過去の罪を悔い、同時に愛を告白するドン・フワンの言葉には、不誠実さは感じられない(わたしのうみ疲れた良心は、あるいは、多くの悪の重みに/耐えかねているかも知れません。たしかにわたしは/長いあいだ放蕩の従順な徒弟でした。/しかし、はじめてあなたのお姿を見たその日から、/すっかり生まれ変わったような気がします。/あなたを愛するようになってから、わたしは美徳を愛するようになりました。/そしてはじめて謙虚な思いで、美徳の前に/震える膝を折るようになったのです」)。ドン・フワンのドーニャ・アンナへの愛においては、エロティシズムの影はうすい。

河出書房新社、北垣信行、栗原成郎訳『プーシキン全集3 民話詩・劇詩』P620

プーシキンのドン・ファンは従来のドン・ファン像とは違うようです。

私は専門家ではありませんので何とも言えませんが、おそらくプーシキンはロシア的なドン・ファン像を描こうとしたのではないだろうかと作品を読んでいて感じました。

上の解説でも「『石の客』におけるドン・フワンはきわめて情熱的ではあるが、打算的なところがなく、誠実で、決断力のある、豪胆な人間として描かれている。それに、彼は詩人でもある」と言われている辺りもどこかロシア的な雰囲気を感じさせます。

 しかしながら、ドン・フワンとドーニャ・アンナとは結ばれない運命にある。ドン・フワンの剣に斃れた騎士団長の石像が招かれた客として現われて、ドン・フワンは死ぬのである。

 石の客は嫉妬ぶかい運命の代理人である。プーシキンにおける石の客は、他の石の客に見られるような、宗教性はなく、背徳、淫蕩を罰するための怒れる天の使者ではない。それは、ドン・フワンが真の愛に目ざめ、幸福に近づこうとする矢先に、突然の終局をもたらす苛酷な運命の象徴である。

河出書房新社、北垣信行、栗原成郎訳『プーシキン全集3 民話詩・劇詩』P621

この作品のタイトル『石の客』の伏線がいよいよここで回収されます。

ドン・ファンとドーニャが結ばれようというまさにその時、幸福に突然の終局をもたらす過酷な運命の象徴として石の客がドン・ファンの前に現れるのです。

このシーンのぞっとするほどの迫力はぜひ読んで下さいとしか伝えようがありません。

情熱家のドン・ファンが改心し、今初めて真実の愛に目覚めようとした矢先に訪れる破局。

そんな悲劇をプーシキンは『石の客』で描いたのでありました。

先ほども述べましたがドン・ファンはスペインの『セビーリャの色事師と石の客』が起源で、その後世界中の芸術家にインスピレーションを与え続けてきました。

しかしその筋書きとしては解説にありますように、その多くが宗教、つまりキリスト教的な影響が強い作品となっていました。

そのため背徳、淫蕩にふける者を懲らしめる天の使者として石の客が現れ、ドン・ファンを懲らしめるという筋書きが多かったのです。

しかしプーシキンはそれを換骨奪胎し、幸福な未来を妬む運命の代理人による破局というストーリーに書き変えたのです。ここにプーシキンの独自性があります。

こうしてヨーロッパとは違う世界の見方をプーシキンはロシア人の前に開いたのです。

ドストエフスキーがプーシキンをこうして高く評価するのも、こうした彼の独特な世界の見方とそれをロシア人の心に響くものにまで磨き上げた点にあるのでした。

プーシキンは読めば読むほどその革新性や後代に与えた影響力の大きさを感じさせられます。

この作品もとても面白い作品でした。非常におすすめです。

以上、「プーシキン『石の客』あらすじ解説―プレイボーイの代名詞「ドン・ファン」を題材」でした。

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