「なぜ僧侶の私がドストエフスキーや世界文学を?」記事一覧~親鸞とドストエフスキーの驚くべき共通点
なぜ浄土真宗の僧侶である私がドストエフスキーを学ぶのか―まとめ11記事
親鸞とドストエフスキー。
平安末期から鎌倉時代に生きた僧侶と、片や19世紀ロシアを代表する文豪。
全く関係のなさそうな2人ですが実は重大なつながりがあるとしたらいかがでしょうか。
私は浄土真宗の僧侶として親鸞聖人の教えをこれまで学んできました。
そして2019年の世界一周の旅を通して、改めて私は「宗教とは何か、仏教とは何か」という問いを考えさせられました。
そしてそんな時に出会ったのがドストエフスキーという作家だったのです。
彼の代表作『カラマーゾフの兄弟』が私の心を揺さぶりました。私はもう彼から逃れられません。ドストエフスキーと向き合い、自分の道である仏教とは何かということを問い直さなければならない。そう感じたのでありました。
このまとめ記事ではそうした私とドストエフスキーの出会いと、なぜ僧侶である私がドストエフスキーを学ばなければならないのかを紹介しています。
皆さんと親鸞、ドストエフスキーとの架け橋になれれば嬉しい限りでございます。では早速始めていきましょう。
回想の世界一周~宗教は人が作ったものなのか、それとも・・・
私の2019年の世界一周の旅のテーマは「宗教とは何か」というものでした。
そしてそれを解く鍵が人類の進化であり、それを感じるために私はタンザニアの地へと向かったのでありました。
宗教は人類の進化の過程で生まれたものであり、人類が自然界で生き残る上で非常に大きな役割を果たしました。
そしてその結果現在でも存在しているのがユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教であり、多神教の宗教なのであります。仏教ももちろんそのひとつです。
「宗教は人類が過酷な自然界で生き抜くために生まれ、それが変化していき現在の宗教の形がある」
私はこれを最も重要な仮説として、その後世界中の聖地を巡ることになったわけです。
しかし旅の途中、そして帰国してからも、どうしても解決できない問題がありました。
それは、
「宗教は本当に人間が作ったものなのか」
という問題でありました。
「人類の進化によって宗教が生まれた」というのはわかる。しかし、「それでは宗教は人間が作り出したものに過ぎないのか」という厳しい問題が存在感を増してきたのです。
つまり、あまりに科学的に、合理的に考えようとすると何もかも「~~は〇〇に過ぎない」ということになりかねない何かがあると感じるようになってきたのです。
たとえば、「宗教は人間が強い集団を作るために作り出したものに過ぎない。だから神は人間が作り出したものであり現実に存在するものではない」といったようにです。
この記事ではそんな私の疑問についての考えを述べています。
オウム真理教とお寺と私―ドストエフスキーとの出会い
ひとつ前の記事「回想の世界一周~宗教は人が作ったものなのか、それとも・・・」では「宗教は人間が作ったものではなく、人間の中から生まれてきたのではないか」ということをお話ししました。
「私にとって宗教とは何か」という問題について、改めてまとめてみた記事でありました。
そして、その記事をアップしてからある方から次のような質問を頂き、この記事が生まれました。
「宗教が人から生まれてきたのなら、新興宗教もそうなの?ならオウムのあの事件はどう考えたらいいの?」
そうなのです。これは非常に重要な問題です。
この問いを私に引きつけて言い換えてみると、
「私はオウムと何が違うのか」
という問いかけになります。
これこそ私が苦しみ続けた、いや今も苦しみ続けている問題なのです。
この記事ではそんな私がなぜドストエフスキーとつながっていったのかが書かれています。
僧侶の私がなぜドストエフスキーを学ぶのか―私とドストエフスキーの出会い⑴
高校生の時から宗教について悩みを抱えていた私。
そして大学生となった東京で私はドストエフスキーとの第一の出会いをはたすことになります。
この記事ではその時の顛末を紹介しています。
私とドストエフスキーの出会い⑴ 僧侶の私がなぜドストエフスキーを学ぶのか
『カラマーゾフの兄弟』大審問官の衝撃!宗教とは一体何なのか!私とドストエフスキーの出会い⑵
中野のバーで出会った大学の教授さんの導きで手に取った『カラマーゾフの兄弟』。
そしてその中の「大審問官の章」に私は痺れることになります。
「宗教とは何か」「オウムと私は何が違うのか」と悩んでいた私の上にドストエフスキーの稲妻が落ちたのです。
私は知ってしまいました。もう後戻りすることはできません。
私はこれからこの「大審問官の章」で語られた問題を無視して生きていくことは出来なくなってしまったのです。
これまで漠然と「宗教とは何か」「オウムと私は何が違うのか」と悩んでいた私に明確に道が作られた瞬間だったのです。
私はこの問題を乗り越えていけるのだろうか。
宗教は本当に大審問官が言うようなものなのだろうか。
これが私の宗教に対する学びの第二の原点となったのでした。
私とドストエフスキーの出会い⑵ 『カラマーゾフの兄弟』と大審問官
世界一周の旅とドン・キホーテの理想、そしてドストエフスキーへ―私とドストエフスキーの出会い⑶
大学生の時に衝撃を受けた『カラマーゾフの兄弟』。私の中で強烈なインパクトを残したものの、その後は日々の忙しさに飲み込まれ、なかなか他のドストエフスキー作品には手が伸びずじまいになってしまい、ドストエフスキーと疎遠になってしまいました。
そんな私に転機が訪れたのは世界一周の旅を終えたある夏の夜。
お寺の子ども会でのある出来事がきっかけでした。
この記事では私とドストエフスキーの第二の出会いについて紹介しています。
私とドストエフスキーの出会い⑶ 世界一周の旅とドン・キホーテの理想、そしてドストエフスキーへ
小林秀雄の読書論に痺れる!こうして私はドストエフスキーを読み始めた―私とドストエフスキーの出会い⑷
7月末の子供会での出来事を経て、私は世界一周記の記事を書きながら同時進行で『カラマーゾフの兄弟』を読み始めました。
そしてちょうどその頃、私は『カラマーゾフの兄弟』を読みながら小林秀雄の『読書について』という本も読んでいました。
小林秀雄は昭和に活躍した、「批評の神様」と呼ばれる文学者です。
この『読書について』という本は小林秀雄が読書について書いたエッセイが集められています。
小林秀雄のこの本によって私がドストエフスキーと本気で向き合うことになろうとは、この時は想像もしていなかったのでありました。
私とドストエフスキーの出会い⑷ こうして私は腹を決めた~小林秀雄とドストエフスキー
ドストエフスキーはどんな人?~ドストエフスキー全集を読んで
「ドストエフスキー全集を読む。」
そう決めた私でしたが、実はこの時私はドストエフスキー全集がどれだけの分量なのかを全く考えていませんでした。
早速私の住む函館市の図書館の文学全集コーナーの書架に行ってみると、思わず「おぉ・・・」と呻いてしまいました。
ドストエフスキー全集(新潮社版)は27巻と別巻1冊の全28冊。
『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』、『悪霊』など有名な作品の他にもドストエフスキーはものすごい数の作品を残しているということを目で見て実感しました。
この記事では、全集を読んでいった時の感想やその後の気づきについてお話ししています。
親鸞とドストエフスキーの驚くべき共通点ー越後流罪とシベリア流刑
親鸞とドストエフスキー。
平安末期から鎌倉時代に生きた僧侶と、片や19世紀ロシアを代表する文豪。
この全く共通点のなさそうな2人が実はものすごく似ているとしたら、皆さんはどう思われるでしょうか。
この記事では以下の親鸞とドストエフスキーの3つの共通点についてお話ししています。
共通点① 若かりし頃に政治犯として流罪判決を受ける
共通点② 流罪生活での民衆との出会い
共通点③ 徹底した自己内省。思想の鬼。
親鸞とドストエフスキーの驚くべき共通点ー越後流罪とシベリア流刑
ドストエフスキー資料の何を読むべき?―ドストエフスキーは結局何者なのか
さて、ドストエフスキー全集を去年の8月から読み始めた私でしたが、いざドストエフスキーのことを知ろうとするにあたってまず私が困ったのが「何から読み始めればいいのかがわからない」ということでした。
ドストエフスキーはあまりに有名で、あまりに巨大な作家です。
そのためドストエフスキー関連の書籍も膨大なものとなり、どこから手を付けていいのか非常に悩むことになりました。
手元にある伝記だけでも10冊近く。
しかもさらに厄介なことに、本によって描かれているドストエフスキー像が違います。
本によってはもはや別人のように感じられるようなこともあります。
これは伝記作家の物語の書き方、そして著者の立場の違いが大きく影響しているものと思われます。
この記事では、そうした著者によって見え方が異なるドストエフスキーという奇妙な人物について考えていきます。
ドストエフスキー資料の何を読むべき?―ドストエフスキーは結局何者なのか
今後のブログ更新について―なぜ今ドストエフスキーを学ぶのか。私は何をしたいのか。
私は2020年の4月頃よりドストエフスキーについての記事を更新し続けています。
ドストエフスキーに興味のない方にとっては「???」以外の何物でもないでしょうし、興味のある方にとってもなぜ僧侶であり専門家でもない私がここまでドストエフスキーについて記事を書き続けなければならないのかと不思議に思われるかもしれません。
この記事では改めてなぜ私がドストエフスキーを学ぶのか、そしてなぜユゴーやゾラなどドストエフスキー以外の作家の作品も学ぶのかについてお話ししています。
今後のブログ更新について―なぜ今ドストエフスキーを学ぶのか。私は何をしたいのか。
最近のブログについて一言~なぜ戦争や弾圧、虐殺を学ぶのかー源信の『往生要集』と現代の地獄巡り『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』を読む⑺
ちょうど去年の今頃から私はドストエフスキーの記事をこのブログで書き始めました。なぜ僧侶の私がドストエフスキーについてブログを書いているのかと不思議に思われた方も多かったかもしれません。
ですが長いこと続けていると、きっと多くの方もそれに慣れてきたのではないでしょうか(笑)
しかし、ドストエフスキーや世界文学について書いていくならまだしも、ソ連史や独ソ戦について書いている最近のブログはどういうことなのでしょうか。
実は最近、「戦争のこととか大量殺人ばかりで読むのもつらくなってきました。なぜそこまでやらなきゃいけないのですか」という言葉を頂くことが何度もありました。
たしかに、ここしばらくソ連の歴史や独ソ戦、ホロコーストについて更新を続けています。
この記事ではなぜ私がそれらのことを学び、ブログで更新しているかをお話ししていきます。
戦争や弾圧、虐殺を取り上げるのか。源信の『往生要集』と現代の地獄巡り『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』を読む⑺
上田隆弘『ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行』~文豪の運命を変えた妻との一世一代の旅の軌跡を辿る旅
2022年11月初旬から12月末にかけて、私は再びヨーロッパを旅しました。
ドイツ、スイス、イタリア、チェコ。
これらの国を私は巡ったわけですが、私がこれらの国を訪れたのはロシアの文豪ドストエフスキーゆかりの地であるからです。ドストエフスキーは妻アンナ夫人と共にこれらの国を4年かけて巡っています。そして私もその旅路を辿ろうというのがこの旅の大きな目的です。
私は2019年夏からの3年半、「親鸞とドストエフスキー」をテーマに学び続けてきました。そしてその集大成として私はこの旅を計画したのでありました。
そしてこの旅行記は単なる旅行記ではありません。この旅行記はドストエフスキーの伝記とのハイブリッドになっています。つまり、これを読めばドストエフスキーの人となりやその波乱万丈の生涯を知ることができます。
ドストエフスキーといえば『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などの重厚な長編小説で有名です。「難しくて陰鬱で重たい小説家」、きっとそんなイメージが皆さんにもあるのではないでしょうか。ですがこの旅行記ではそんなドストエフスキーとは全く異なる姿を皆さんにご紹介していきます。
ギャンブル中毒で妻を泣かせ続けたダメ人間ドストエフスキー。
愛妻家ドストエフスキー。
子煩悩ドストエフスキー。
最高のパートナーを得てギャンブル中毒を克服したドストエフスキー。
コーヒーを得意になって碾くドストエフスキー。
様々なドストエフスキーをこの旅行記では紹介していきます。
私はドストエフスキーとアンナ夫人のドラマチックな旅が好きで好きでたまりません。
実はこの旅行記のメインはドストエフスキーよりもその妻アンナ夫人にあります。上の記事でそのことについてもお話ししていますのでまずは上の第一回目の記事をご参照頂けたらと思います。
この旅行記はドストエフスキーのことを全く知らない方でも楽しめるように書くことを心掛けました。「有名なドストエフスキーってこんな人だったんだ!」と驚いてもらえる旅行記となっています。
「ドストエフスキーの旅」を終えた私の思いと今後のブログ更新について~当ブログを訪れた皆さんへのメッセージにかえて
私はドストエフスキーが好きです。ですが、何よりも「アンナ夫人といるドストエフスキー」が好きです。 そんな二人の旅路が少しでも多くの人の目に触れるきっかけとなったらこんなに嬉しいことはありません。
この後、当ブログではローマについての記事を更新していきますが、私個人としてはこれから仏教の研究に突入していきます。いよいよ私は本丸に帰ってきました。インド、アジア、中国、日本とこれから仏教が伝えられてきたルートに沿ってその歴史と思想、文化を学んでいきます。そしてその最終目的は親鸞聖人の伝記小説を書くことにあります。私の研究もいよいよ新たな局面を迎えます。4年近くにわたった「親鸞とドストエフスキー」の研究に一片の悔いもありません。
おわりに
以上、13記事を紹介させて頂きました。
僧侶である私がドストエフスキーをはじめ海外の文豪たちの作品ばかりブログに取り上げるのを不思議に思われる方も多いかもしれませんが、これらの記事を読んで頂ければその理由もわかって頂けるのではないかと思っております。
私にとってドストエフスキーと向き合うということは、浄土真宗の開祖である親鸞聖人を学ぶ上でなくてはならない過程なのです。
このブログが皆さんの、親鸞聖人やドストエフスキー、海外の文豪たちとの出会いの場になってくれたなら嬉しく思います。
以上、「なぜ僧侶の私がドストエフスキーや世界文学を?親鸞とドストエフスキーの驚くべき共通点」でした。
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