(6)ミリエル司教の灯した蝋燭の火にこれほどの意味があったと誰が想像できようか

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(6)ミリエル司教の灯した蝋燭の火にこれほどの意味があったと誰が想像できようか
第一部 ファンチーヌ 第二章 転落 ⑶
元徒刑囚であるジャン・ヴァルジャンを心温かく迎えたミリエル司教。
そして司教は彼に夕食を振舞うのですが、ここである重要なやりとりがなされます。せっかくですのでそのシーンを見ていくことにしましょう。
彼が話している間、司教は、大きくあいたままになっているドアをしめに行った。
マグロワール夫人が戻ってきた。一人前の食器を持ってきて、食卓に並べた。
「マグロワールさん」と司教が言った。「その食器をできるだけ火の近くにおいてください」それから客の方を向いて「アルプス地方では、夜風はきびしいです。寒いでしょう、あなたは?」
司教が「あなた」という言葉を、重々しい声で優しく、しかも愛想よく言うと、男の顔は明るく輝いた。徒刑囚に「あなた」と言うのは、メデューズ号の遭難者に与える一杯の水に相当する。辱められた者は、尊敬にかつえているのだ。
「このランプは」と司教が言った。「明るくないね」
マグロワール夫人にはわかった。そして閣下の寝室の暖炉の上にある二つの銀の燭台を取ってきて、それに灯りをつけて食卓においた。
「司祭さん」と男は言った。「あんたは親切な方だ。わたしを軽蔑しない。わたしを迎えてくださる。わたしのために、蝋燭に灯りをつけてくださる。わたしがどこから来たかも、哀れな人間であることも、隠さなかったのに」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P145
いかがでしょうか。
きっと皆さん、このシーンの何がそんなに重大なのかさっぱりわからなかったと思います。かく言う私も初めて読んだ時はこの箇所をさらっと流してしまっていました。
ですが、この何気ないやり取りにこそミリエル司教の慈しみとジャン・ヴァルジャンの驚きが凝縮されていたのです。
このことについてフランス文学者鹿島茂先生は次のような興味深い指摘をしています。少し長くなりますがぜひ一緒に読んでいきましょう。
現在、食卓の上の明かりを見ても、そこに竈の火を連想する人はほとんどいない。しかし、人類はどうやらこうした照明の起源に対する無意識的な記憶をもっているらしく、たとえば、停電になって、蝋燭の炎のもとで食事をしなければならないような事態になると、なぜか、我々は、不便さを嘆くと同時に、ゆらめく炎をじっと見つめながら妙に懐かしいほのぼのとした感情を覚えるものである。
そして、そのときには、明かりを求める虫のようにその蝋燭のあるところに集まってきた家族の者は、肩を寄せ合って食事を取りながら、いままで感じたことのないような不思議な一体感を感じるのである。
ところが、パッと電気がついたとたん、そのノスタルジックな感覚は突然あとかたもなく消えうせ、食事をすませた家族が自分の部屋に引き上げたあとには、吹き消された蝋の匂いだけが残ることになる。
しかしながら、炎に対してノスタルジックな愛着を感じるということにかけては、われわれ日本人よりもヨーロッパの人々のほうが、はるかに敏感な感性をもっている。それはおそらく、日本人が、電灯が灯る以前の時代でも、行灯や提灯といった、紙で炎を覆い隠した照明器具を用いていたのに対し、ヨーロッパでは、基本的に蝋燭の炎を裸火で使っていたという事実からきているのだろう。
ヨーロッパの昔の照明器具は、燭台やシャンデリアなどを見てもわかるように、蝋燭を立てる部分や炎を反射させる部分には華麗な装飾がほどこされているが、蝋燭と炎自体はむきだしである。これは、ヨーロッパの人々が、炎に、光の源という以上の積極的な意味を認めていたことの証明であるといってよい。つまり、炎はあたりを照らすという機能のほかに、人の心をなごませ、食卓にあつまってきた家族のきずなを強めるという働きがあると考えられていたのである。
中央公論新社、鹿島茂『パリ時間旅行』P160-161
※スマホ等でも読みやすいように一部改行しました
そしてここからいよいよ『レ・ミゼラブル』の話へと繋がっていきます。
ところで、食卓に置かれた蝋燭の炎のこうした心理的な作用ということで思い出すのは、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の有名なエピソードである。
すなわち、徒刑場を出獄したジャン・ヴァルジャンは、元徒刑囚であるがゆえに宿屋で宿泊を断られ、最後に扉をたたいたミリエル司教の家でようやく暖かいもてなしをうけるが、このエピソードで重要なことは、ミリエル司教が銀の食器と銀の燭台を出してジャン・ヴァルジャンを歓迎したという要素もさることながら、ともされた蝋燭が、一般の獣脂の蝋燭(シャンデル)ではなく、高級な蜜蝋の蝋燭(ブジ)だったという点である。
ジャン・ヴァルジャンが入ってくるまで、ミリエル司教は鯨油ランプで食事をしていたが、妹に「このランプは明るくないね」と言い、銀の燭台と蜜蝋の蝋燭をもってこさせる。するとジャン・ヴァルジャンは感動してこう言う。
あんたは親切な方だ。わたしを軽蔑しない。わたしを迎えてくださる。わたしのために、蜜蝋の蝋燭に灯りをつけてくださる。わたしがどこから来たかも、惨めな人間であることも隠さなかったのに (佐藤朔訳 新潮社)
つまり、ジャン・ヴァルジャンは食事を供されたことよりも、蜜蝋の蝋燭を食卓にともして歓待してもらったことに感激しているのである。おそらく、ジャン・ヴァルジャンが蜜蝋の蝋燭の明るい炎の中に認めたものは、ミリエル司教の心の暖かさであり、人間同士を結び付ける兄弟愛であったのだろう。物語の最後に至り、ジャン・ヴァルジャンは、死の床で、ミリエル司教にもらった銀の燭台にともる蜜蝋の蝋燭の炎を見つめながら息を引き取るが、そのとき彼の瞳の中に輝いていた未知の光とは、まさにミリエル司教の説く愛だったにちがいない。
このほかにも、十九世紀のフランスの小説では、心から客をもてなそうとするときには、食卓にこの蜜蝋の蝋燭を置くという話がよく使われている。たとえば、バルザックの『幻滅』では、貧しい哲学詩人のダニエル・ダルテスが主人公のリュシアンを自室に招くとき、蜜蝋の蝋燭をともして歓待する。
ようするに、こうした十九世紀のフランスの小説にあらわれる蜜蝋の蝋燭のエピソードは、食卓に置かれた食事自体はいかに貧しくとも、そこに蜜蝋の蝋燭の明るい炎がともっていれば、会食者の心は満たされるという事実を示し、ヨーロッパの食卓において照明の果していた役割の重要性をあらためて我々におしえてくれるのである。
中央公論新社、鹿島茂『パリ時間旅行』P161ー164
※一部改行しました
いかがでしょうか。私はこの解説を読んで鳥肌が立ちました。食事中何気なく描かれていた銀の燭台と蝋燭の意味・・・そしてジャン・ヴァルジャンがなぜ最後までこの燭台を大切にしていたのか、それが一気に解き明かされたのでした。
事実、ジャン・ヴァルジャンはこの燭台を前にして次のように述べています。
「ねえ、司祭さん」と男は叫んだ。「ここに入ったとき、とても腹がへっていました。だが、あんたがたいへん親切なので、今ではそれがわからなくなりました。もう済んでしまった」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P146
この言葉からも、ジャン・ヴァルジャンが夕食そのものより銀の燭台で蝋燭を灯してくれたことに感動したことがうかがえます。
ただ、一点気になるのは、私が読んだ佐藤朔訳の『レ・ミゼラブル』ではただ単に「蝋燭」とだけ書かれていて、蜜蝋ではなかったという点です。おそらく鹿島先生はユゴーの原文を読まれた上での解説を上の述べているのではないかと思われます。
いずれにせよ、ジャン・ヴァルジャンが銀の燭台を生涯大切にしていたのはこの瞬間があったからこそなのです。
気付けなければ絶対気付くことができない些細なお話かもしれませんが、こうしたひとつひとつの仕掛けを知るとより深く作品を味わうことができますよね。レミゼの奥深さをまさに体感したエピソードでありました。
続く
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