(8)繊細な心理バトルがさりげなく仕込まれている『カラマーゾフ』

「カラマーゾフを読む」(8)繊細な心理バトルがさりげなく仕込まれている『カラマーゾフ』
第二編 場違いな会合 一 修道院に到着
さて、いよいよ第二編に突入ということで、ここから物語がようやく動き出します。
と言っても、狭い部屋の中での会話劇といった雰囲気ですのでトルストイ的な巨大な世界を感じさせるようなものではありません。
しかし、さすがはドストエフスキー。まさにシェイクスピア的とも言えるような会話劇をここから展開していきます。私としてもこの第二編というのは『カラマーゾフ』の見事さを体感できるお気に入りの章でもあります。
ただ、そうは言っても初めて読む方にはなかなか展開の動かないこの章はやはり厳しいかもしれません。
ですがあまり難しく考えすぎず読んでいきましょう。先に言っておきますが、『カラマーゾフ』が一気に面白くなってくるのはこの先の第五編からです。ここまでいけばどんな読者もどっぷりハマること間違いなしです。なのでそこまではわからなくともとにかく耐えて進みましょう。
繰り返しになりますが、何度も再読してハマっている人間からすると第一編からすでに楽しさ満載なのですが、初読者にはやはり厳しい部分でありますのでまずは頑張っていきましょう。
さて、この第二編第一章でまず気になるのがあの西欧かぶれの自由主義者ミウーソフです。皆さんも覚えておいででしょうか。「(4)息子の存在を忘れる父親がいるだろうか、いや、いるのである。なぜなら、それがフョードルだから。」の記事でお話ししたあのミウーソフです。この第二編ではミウーソフとフョードルの大立ち回りを目撃することになります。
まず、修道院に到着したミウーソフはこんな感想を漏らします。
ミウーソフは教会のまわりにある墓石をぼんやり眺め、こういう《神聖な》場所に葬る権利代だけでも、これらの墓石は遺族にとって高くついたにちがいない、と言いかけたが、黙りとおした。単純な自由主義的な皮肉が、心の内でほとんど憤りに変りかけていたからだ。
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P80
ミウーソフは多額の資産を持ち、河の漁業権で教会と係争中でした。そしてミウーソフ自身が認めていたように、漁業権をめぐる自分の寛大さ如何で教会から敬意を示してもらって当然だとも考えていました。しかし、その当然敬意を払われるべき人間に対し何の出迎えもなかった、そのことに腹を立てていたのです。これはその腹立ちから出た皮肉なのでした。宗教嫌いの方がよくお話しになる皮肉ですね。ドストエフスキーはしっかりそれを押さえています。宗教嫌いの人物をまさにその人のごとく巧みに描写しています。
このように、ドストエフスキーのすごさはそれぞれの人になりきって小説を書ける点にあります。まさに憑依そのもの。作家という職業は多かれ少なかれその登場人物になりきることが求められるものですが、ドストエフスキーのそれは常軌を逸しています。作品に登場する人間があまりにリアルで生き生きとしているのです。これを言い換えるなら、作者の作為が見えないほど自然だということです。
さて、話は少し反れてしまいましたがこのように「私は出迎えてもらって当然の人間なのだ」という思い上がりがミウーソフにはあるのですが、それを見抜いていたであろうフョードルは横で愚弄したくてたまらない心境であったことでしょう。しかしすぐには茶々を入れず、この箇所では影の薄いままです。きっとその愚弄が最大限の効果を発揮する地点まで手ぐすね引いて待っていたのかもしれません。
そして第一のチャンスがやってきました。修道院長との食事を伝えに来た修道僧に早速フョードルが絡んだのです。そしてそのまき餌にまんまと引っかかるミウーソフ。そしてこう言うのです。
あなたが道化を演じはじめたりしたら、わたしはあなたと同一視されるつもりはありませんからね・・・
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P84
しかもわざわざ修道士に向けて「この人と一緒にされちゃ困る」と言わんばかりのセリフまで述べます。
この箇所は何となく読み進めてしまえばあまり取っ掛かりのないやりとりかもしれませんが、ミウーソフがフョードルと同一視されることをかなり嫌がっていることがうかがえます。「それが何なのだ」と思われるかもしれませんが、ここにドストエフスキーの西欧かぶれへの隠れた意趣返しがあるのではないかと私は思うのです。
つまり、フョードルの愚かさも、ミウーソフの西欧かぶれも大差ないのだということをドストエフスキーは言いたかったのではないでしょうか。このやりとり自体はさらっと流れていきますが、ドストエフスキーのミウーソフを見る目にはそうしたものがあるのではないかと私は思うのです。
そしてすでにして修道僧からフョードルと同じように見られ始めていることを感じたミウーソフは心の中でこう吐き捨てます。
えい、くたばりやがれ、こんなやつら。何世紀もかかってやっと作り上げたような顔をしてやがるけど、実際は偽善とでたらめじゃないか!
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P84
口には出しませんでしたが、ミウーソフはすでに心が乱されています。彼はすでにフョードルの術中にはまりつつあるのです。さすが怪物フョードル。何も言わずともその存在だけでミウーソフの教養ある精神を乱しているのです。こうした微妙な心の動きを描くドストエフスキー。さすがです。私がこの第二編を好きなのも、こうした繊細な心理バトルがさりげなく仕込まれている点にもあります。
そしていよいよフョードルの本領発揮です。
一所に歩く案内役の修道僧に対していきなりぶちかまします。
ここの草庵じゃ全部で二十五人もの聖人が行を積んでらして、互いににらめっこをしては、キャベツばかり食べてるんだそうだ。しかも、女性は一人もこの門をくぐれないというんだから、これが特に立派な点さね。
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P84-85
初めて『カラマーゾフ』を読んだ20歳の時は、こんなフョードルの皮肉に対して「とんでもないことを言うものだ」とムッとしたくらいでしたが、今となってはどうでしょう。もはやくすっと笑ってすらいます。「互いに
にらめっこしては、キャベツばかり食べてるんだそうだ」は傑作です。これに笑えるようになったということは、私が年をとったということでしょうか。世の中のいろんなことを知ったからでしょうか。自分でもよくわかりませんが、15年経った今はこうしたフョードルのおちょくりに笑ってしまう自分がいるのはたしかです。
そして先のおちょくりに続いて、ギリシャの聖地アトスでは女性だけでなく、どんな生き物でもメスは入っていけないというのだからこれは大変だと軽口を叩きます。
さすがフョードル。肉欲の化身とも言える男です。しっかり食べ物と女性の話題をぶち込んできます。聖なる修道院であまりに俗的な冒瀆をかますフョードル。ここに「『カラマーゾフの兄弟』はなぜこんなに面白いのか!そのすごさはどこにある?」の記事でお話しした振り子の原理が顔を出しています。これはドストエフスキーが意図的に仕込んだ仕掛けです。
フョードルとミウーソフはまさに俗なる領域をいかんなく発揮しています。そしてこれが後に現れる聖なる領域への原動力になるのです。そしてまた同じように聖なる領域から俗なる領域へと振り子のように振れていきます。この絶妙な揺らぎが、私が思う『カラマーゾフ』の魅力のひとつなのです。この芸当はなかなかできるものではありません。ドストエフスキーが世界最高の小説家と称賛される所以のひとつがここにあると私は思うのです。
続く
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