(1)主人公が全然登場してこない小説。それが『レ・ミゼラブル』である。

(1)主人公が全然登場してこない小説。それが『レ・ミゼラブル』である。
第一部 ファンチーヌ (1)
さあ早速ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読んでいくことにしましょう。
私もこうして『レ・ミゼラブル』を読むのは3年ぶりになります。
歴史に名を残す名作というのは読む度にその味わいが変わっていくものです。『カラマーゾフの兄弟』の時もそうでしたが、こうして改めて読み返すと新たな発見があるものです。今回はどんな発見があるのか、今から期待している自分がいます。
さて、ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』のオープニングと言えば、何と言っても「主人公がなかなか登場しない」、これに尽きます。
初めて原作を読んだ方はまずこれに驚かれると思います。ミュージカルではオープニングからすぐにジャン・バルジャンが登場しますが、原作は全く違います。なんと、彼が登場するのは112ページになってからなのです!
では、それまで一体何が語られているのか、それが後にジャン・バルジャンを救うことになるミリエル司教についてなのですが、それにしても110ページ超も司教について語られるというのは尋常ではありません。。タイパタイパと言われ、ショート動画全盛の昨今では考えられないことですよね。
いかに出だしの数分で視聴者や読者を惹きつけるか、そんな世知辛い現代とは真逆の手法でユゴーはこの小説を始めています。
そしてなぜユゴーがこんなにもページ数をかけて司教の人柄を描写したかと言いますと、これを言わんがためであると私は考えます。
正しい人は、こんなふうに暮らしていた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P103
この言葉を具体化するためにユゴーは100頁もの分量を割いてミリエル司教の正しさ、善良さを書き連ねたのではないでしょうか。
主人公のジャン・バルジャンの心は19年の監獄生活で荒み切っていました。そして釈放後も人々からひどい目に遭わされ、人間への信頼を完全に失ってしまいます。そんな絶望に沈む男を救うのがこのミリエル司教です。
ミュージカルを見た方にはその救済はおなじみのシーンではありますが、よくよく考えるとこれはかなりリスクのあるシーンでもあります。特に小説の場合、それは顕著です。
どういうことかと言いますと、私達はミュージカルでは特に疑問もなく司教の慈悲によってジャン・バルジャンが回心することを理解できますが、もしそれを小説で読むとしたらどうでしょう。司教が善い人なのは私達も理解できますが、心が荒み切った人間をあそこまで生まれ変わらすとなると少し飛躍を感じてしまいます。
しかもレミゼが発売された1862年のフランスではすでにキリスト教に対する批判も強くなっていました。マルクスの『資本論』が発表されるのはこの5年後のことですが、当時のヨーロッパでは唯物論や無神論が盛んに議論され、キリスト教に対する見方が変わっていた時代でもあります。そんな折に善良な司教が罪人を回心させたといっても、なかなか説得力がないのです。
だからこそユゴーは100ページ以上もかけて司教を描き、この人こそ本当の慈悲の人だと読者に印象付ける必要があったのではないでしょうか。
「正しい人は、こんなふうに暮らしていた。」
さらっと書かれたこの言葉ですが、この一文の重みは果てしのないものがあります。ミリエル司教の偉大さを伝えるにはそれだけのページ数を割く必要性がどうしてもあったのです。
そしてこれは逆に言えば、ジャン・バルジャンの回心というのはそれほど大変なことだったということです。普通の人間では到底成し得ないことが起こったということなのです。
正直、この第一章は物語の筋から言えばなくても成立はします。物語の冒頭からジャン・バルジャンが登場してひどい目に遭い、それをミリエル司教が救う。たしかにストーリーとしては問題ないでしょう。現に、ミュージカルではそうなっています。
ですが、ユゴーの原作はそうではないのです。ここに長編小説ならではの魅力があります。ユゴーは物語の背景をこれでもかと描いていきます。そしてミリエル司教のこの100ページ分の生き様があるからこそ、ジャン・バルジャンとの出会いがよりドラマチックになるのです。
また、こうした書き方ができるのもユゴーが行った前代未聞の出版方法にもその理由があります。
当時の長編小説というのはどこかの雑誌や新聞に連載され、それが単行本になるというのが一般的でした。バルザックもまさにそうでしたし、ロシアにおけるドストエフスキーやトルストイもそうです。
ですが、ユゴーはこの『レ・ミゼラブル』を一切連載せず、いきなり完成品を世界同時発売をするという世界文学史上初めての試みを行ったのです。
デイヴィッド・ベロスの名著『世紀の小説『レ・ミゼラブル』の誕生』によれば、1862年4月4日、パリ、ブリュッセル、ライプツィヒ、ロンドン、サンクトペテルブルク、その他ヨーロッパの主要都市で『レ・ミゼラブル』の第一部が同時発売されたそうです。そして同年5月15日には第二部と第三部が、続く6月30日には第四部、第五部が発売され、これでレミゼは一気に全編が刊行されることとなりました。
これの何が重要かと言いますと、もし通常の連載小説であれば、冒頭の100ページがつまらなければ読者に酷評されかねないということです。まして連載ですから、1回の連載で100ページも掲載されるかもわからず、さらに分割されていたかもしれません。
それに対し単行本であれば一気にその先まで物語を読んでもらうことが可能です。なのでユゴーは気兼ねなく思う存分ミリエル司教の物語を書き込んだのではないでしょうか。
それに何より、ユゴーには自信がありました。彼は確信していたのです。「自分の小説を全世界が待ち望んでおり、たった100ページで読むのをやめるなんてありえない。絶対に読者はすべて読むことになるだろう」と。
私はこの冒頭のミリエル司教の物語に、そうしたユゴーの絶大なる自信も見てしまいます。やはりユゴーは桁外れのカリスマです。ユゴーの伝記を読んだ時もそう思いましたが、本当に常軌を逸しているのです、この方は・・・。何をするにも桁外れのスケール。現代であるならば大炎上確実のとんでもない人生を歩んだカリスマです。我々凡人の価値基準では測り切れない人間であるのは間違いありません。
「われこそはユゴーなり」
これはアンドレ・モロワの『ヴィクトール・ユゴー《詩と愛と革命》』という伝記で彼を表す言葉として何度も出てきていたのですがまさにその通り。このレミゼにおいても私はそれを感じずにはいれませんでした。
続く
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