(62)三島由紀夫の自決現場、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現防衛省)市ヶ谷記念館を訪ねて

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【インド・スリランカ仏跡紀行】(62)
三島由紀夫の自決現場、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現防衛省)市ヶ谷記念館を訪ねて

前回の記事「(61)三島由紀夫の壮絶な最期!あの日自決現場で何が起きていたのか」では三島由紀夫の自決についてお話しした。

保阪正康著『三島由紀夫と楯の会事件』より引用した三島自決の経緯に皆さんも驚かれたのでないだろうか。

そして今回の記事ではいよいよ私がその自決現場を訪れた時の体験をお話しする。

まさに下の映像に出てくるバルコニーや総監室を私は見学したのである。

防衛省・自衛隊:市ヶ谷地区見学ツアーへ

防衛省HPより

防衛省では平日の午前午後の2回、「市ヶ谷地区見学(市ヶ谷台ツアー)」を催行している。

その概要をHPから引用する。

市ヶ谷地区内に所在する庁舎や、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷となった大講堂などを移設・復元した市ヶ谷記念館を御案内しています。午後のコースについては、大本営地下壕跡(有料:700円)もご案内します。
事前予約により、月曜日から金曜日まで(祝日及び年末年始休暇間を除く)の午前・午後各1回の定時見学となり、案内は省側が行います。防衛省HPより

 受付時間見学時間見学コース定員
午前09:10~09:2009:30~11:30(2時間)正門 → 市ヶ谷記念館 → 厚生棟 → 正門40名
午後13:10~13:2013:30~15:50(2時間20分)正門 → 大本営地下壕跡 → 市ヶ谷記念館 → 厚生棟 → 正門20名

私は時間の都合上、午前のコースで参加した。大本営地下壕跡は見れないが、私の目的地は何と言っても市ヶ谷記念館である。これが見れるならば全く問題ない。

こちらが現防衛省正門だ。

写真左側の大きな棟の立つ場所がかつて三島が演説をしたあの建物があった場所なのである。現在その建物は上の敷地図のように市ヶ谷記念館として別の場所に移設されている。

写真左側の赤いロングコートを着た女性がこのツアーの案内人。ここで私も受付を済ませツアー開始を待った。

いよいよ敷地内へとやって来た。ここは正門から入ってすぐの場所なのだが、遠くから自衛隊員らしき掛け声が聞こえてきた。

ここからツアーが開始され、私達は案内の下まずは庁舎A棟とその正面の儀仗広場へと向かったのである。

こちらがA棟と儀仗広場だ。自衛隊市ヶ谷駐屯地時代はここに1号館が立っていて、三島が演説したあの有名なバルコニーもここにあった。その1号館の一部が市ヶ谷記念館としてこの向こう側に移設されたのである。

防衛省敷地内をこうして歩いていると、出勤時間ということでスーツや仕事着で出勤している多くの職員とすれ違った。都心の官庁ということで皆が皆自衛隊員という雰囲気ではないのにまずは素朴に驚いた。

そしてやはり目を引いたのが自衛隊隊員のトレーニング風景だった。自衛隊の制服を着た屈強な男達が号令に従って掛け声を発する姿はやはり凛々しく力強い。ピンと張りつめた緊張感も感じる。あぁ、三島はこういうことに憧れたのだな・・・

私もそんな三島の気持ちがわかる気がする。実は私は三島とほぼ同じ身長なのだ。しかも身体が弱いのも同じである。私も強さに憧れ続けてきた。だから三島が必死に「強さ」を求めるのも共感してしまうものがあるのだ。

三島由紀夫の自決現場、市ヶ谷記念館

いよいよ市ヶ谷記念館までやって来た。私はここに来たかったのである。ここで三島は演説し、自決したのだ。

だが、皆さんもこの写真を見て少し疑問に思われたかもしれない。「ん?少し小さくないか?」と。

そうなのだ。実はここへの移設に際しては1号館全てを残したわけではないのである。現在残されているのは建物の正面部分と大講堂だけなのだ。

こちらが旧一号館の全体模型。かつてはこれだけ大きな建物であったが移設に際してこれだけ小さくなったのである。

斜めのアングルからも。

三島が演説したバルコニーの真下に来てみた。こうして実際に目にしてみると、その近さがよくわかる。この距離ならば目と目を合わせてしっかり顔が見れるほどの距離感である。こんなに近い場所で三島は自衛隊に向かって語っていたのだ。

三島の演説は自衛隊隊員の野次やヘリコプターの音などでほとんど聞こえなかったという説も多いが、『五衰の人 三島由紀夫私記』を執筆した徳岡孝夫氏によれば、演説はたしかに聞こえたという。私も徳岡氏の証言はもっともだと思った。三島が肉声で語りかけることにこだわり拡声器を使用しなかったとはいえ、この距離なら全く聞こえないということはないのではないかと思ってしまうほどの近さだったのである。

三島がこの上に立つ姿を想像してしまう。触れるのではないかと思うほどそれはリアルに感じられた。

市ヶ谷記念館内部の大講堂

記念館の玄関で土足からスリッパへ履き替えいざ館内へ。玄関から正面へ進んでいくとすぐに大講堂だ。

ここは第二次世界大戦終結後の極東国際軍事裁判が行われた場所として知られている。

公判中の法廷内 Wikipediaより

東条英機などがA級戦犯として糾弾され死刑判決が下されたこの極東国際軍事裁判。そうした戦勝国側からの一方的な判決に対してパール判事が反対したことでもこの裁判は有名だ。

こうした歴史的舞台としてこの大講堂は大切に保存されている。

現在は展示室として使われていて、この裁判や戦争に関わる資料が展示されている。私達見学者はここで市ヶ谷記念館の歴史を紹介した映像を観た後、各自この資料を見て回るのである。

ちなみに、この写真の上正面に光が差し込んでいる部屋の入り口が見えると思う。実は、ここが三島由紀夫が自決した総監室なのだ。

では、これよりその総監室へと向かうことにしよう。

三島由紀夫が自決した総監室

ここが三島と楯の会隊員が立てこもった総監室である。

こちらは部屋の入り口から正面外に向かっての写真。先ほど大講堂から見た視線の先はこのような部屋になっていたのである。

現在は旧1号館の模型が置かれていて、その先にバルコニーへと通ずる窓がある。三島はここから外に出て演説を行ったのだ。

窓の近くまで行ってみた。三島はどんな思いでここから外に向かっていったのだろう。

そしてこの部屋には事件当時の乱闘の痕跡もそのまま残されている。三島の刃による傷跡が扉に残っているのだ。

丁寧に付箋で目印を付けられているので私達にもわかりやすい。この扉には何か所もこうした刀傷が残されているのである。

それにしてもこの部屋の中で日本刀で武装した男達が5人、総監を人質にとって立てこもっていたのである。これはかなりの圧迫感だったことだろう。

そして三島はこの写真の手前辺りで割腹し、自決したという。胴体と首が切断された三島の遺体がここに横たわっていたのだ。

三島由紀夫と親しかった佐々淳行氏は事件直後この現場に急行し、その惨状を次のように述べている。

あの凄惨な現場となった市ヶ谷東部方面総監室に足をふみ入れ、三沢由之牛込警察署長の説明を受けながら三島、森田両名の遺体に近づいたとき、足元の絨毯が、

 ジュクッ

と音を立てた。驚いて足元を見る。

東部方面総監室の床一ぱいに敷きつめられた絨毯の色は真紅。

そのため二人の遺体から流れ出たおびただしい量の血液が赤い絨毯にドップリ浸み込んでジュクジュクになっていたのを、真紅の絨毯と流血との見分けがつかずに血溜りに足を踏み入れてしまっていたのであった。

あの靴裏の不気味な感触は、四半世紀経った今でも忘れられない。

文藝春秋、佐々淳行、『連合赤軍「あさま山荘」事件』Kindle版位置No906

「ジュクッ」としたその足裏の感覚・・・

想像するだけでも恐ろしい。

三島は小腸が飛び出るほど深く短刀を突き刺し腹部を割いていたという。そして最後の介錯で首と胴体は切断された・・・。その出血はおびただしいものがあったことだろう・・・。佐々淳行氏はその靴裏の不気味な感触で三島の壮絶な死を実感したのではなかろうか。

私はしばらくこの部屋でじっと三島達に思いを馳せた。彼らは何を見ていたのだろうか。彼らはどんな思いだったのだろうか。事件から20年後に生まれた私にはその時代の空気さえも知ることは叶わない。しかし、それでも私は知りたいのだ。何があなたをそこまで駆り立てたのか。なぜあなたはそこまで行動することができたのだろうかと。

ふと我に返るといつの間にかこの部屋で参加者は私ひとりになってしまっていた。そして担当のスタッフから、「あの・・・すみません、そろそろ・・・」と声を掛けられ恐縮しながらこの部屋を去った。

私はこの部屋で過ごした時間を忘れることはないだろう。あの真っ赤な絨毯と柔らかな足元の感触、そして部屋から見たバルコニー・・・。三島はここで死んだのだ。この場所が残されていることに心から感謝したい。

おわりに~青年隊員の爽やかさに三島の憧れを見る

こうして私は市ヶ谷記念館での見学を終えた。ここから私達は敷地内を移動し、職員の福利施設でもある厚生棟を見学してツアー終了である。

そしてその最後の移動中、私はある印象的な場面に出くわすことになった。

ちょうどA棟の玄関の前を通ったとき、ヤクルトおばさん的な人がいたのである。ここで「ヤクルトおばさん的」と私が言うのは本当にヤクルトなのかどうか確認できなかったからだ。まあ、それはよい。とにかく、飲み物などを売るおばさんがいたのである。

そしてそこに棟内からちょうど自衛隊の制服を着た長身の男性が出てきて、その通り掛けに「おはよう!元気?」とおばさんに声を掛けたのである。この青年隊員は20代後半から30代前半だろうか、それにしてもこの爽やかさには私も一瞬で引き込まれた。その声の聞こえる方に注意を向けずにはいられなかった。

「あれ、どうしたの。欲しいの?」

「いや、あいさつしたかっただけ!どうもね!またね!」

そうしてその青年は去っていった。

私はこのやりとりにハッとした。

三島が若くて行動力ある青年たちに惹かれた理由がわかったような気がしたのである。

三島はインテリぞろいの文壇にうんざりしていたのではないか。自分をこき下ろそうとする青白いインテリ達に対し三島がどう思っていたかは想像に余りある。まさに、言葉、言葉、言葉だ。三島が日本の文壇にいかに絶望していたかはドナルド・キーン氏への書簡でも明らかである。

三島の文壇での孤独を癒したのはこうしたさっぱりしたやりとりだったのかもしれない。

「おはよう!元気?」「いや、あいさつしたかっただけ!どうもね!またね!」

たったこれだけの言葉に、私もすっかり参ってしまったのである。あの爽やかさは只事ではない。

三島が自衛隊に憧れたのはこうした若さと爽やかさと強い肉体があったからなのかもしれない。三島に対してはすでに膨大な議論がなされているので、私がとやかく言うべきものではないが、私もシンプルにこの青年隊員に心打たれたのである。

この市ヶ谷記念館での見学は三島の「力」への憧れや最後の瞬間を感じられた素晴らしい体験となった。三島由紀夫に興味のある方にはぜひおすすめしたいツアーである。

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