ダンテ『神曲 煉獄篇』あらすじと感想~煉獄はいつから説かれるようになったのか。中世ヨーロッパの死生観とは
ダンテ『神曲 煉獄篇』あらすじと感想~煉獄はいつから説かれるようになったのか。中世ヨーロッパの死生観とは
今回ご紹介するのは14世紀初頭にダンテ・アリギエーリによって書かれた『神曲 地獄篇』です。私が読んだのは2009年に河出書房新社より発行された平川祐弘訳の『神曲 地獄篇』です。
早速この本について見ていきましょう。
二人の詩人、ダンテとウェルギリウスは二十四時間の地獄めぐりを経て、大海の島に出た。そこにそびえる煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。二人は山頂の地上楽園を目指し登って行く。永遠の女性ベアトリーチェがダンテを待つ。清新な名訳で贈る『神曲』第二部煉獄篇。
Amazon商品紹介ページより
『神曲 煉獄篇』は前回の記事で紹介した『神曲 地獄篇』の続きになります。
前作『地獄篇』で案内人ウェルギリウスと共に地獄を巡ったダンテは、今作で煉獄という場所を巡ることになります。
煉獄は上の本紹介にもありますように、天国でも地獄でもなく、いわばその中間にある場所です。天国へ入る前に身を清めるための場として煉獄はあったのでした。
前回の記事でもお話ししましたが、私が『神曲』を初めて読んだのは10年以上も前です。その時はキリスト教の知識もほとんどなかったため煉獄についても特に疑問を持つことなく読み進めていった記憶があります。
ですがここ数年ドストエフスキーをきっかけにキリスト教の歴史ともより関わることになりました。そして改めて聖書やその教義などと照らし合わせて考えるとみると、「煉獄」という概念はローマカトリック特有のものであることや、煉獄の教義はそもそも聖書に書かれていたものではないということを知りました。
そういう前提を知った上で『煉獄篇』を久々に読んでみたのですが、私の中でふとある疑問が浮かんできました。
「そもそも煉獄っていつから説かれるようになったのだろう」と。
煉獄が聖書に書かれていないとしたらその後で誰かがそれを生み出したということになります。ではそれはいつ頃だったのだろうか、なぜ煉獄が生み出されたのだろうか、そういうことが気になってきたのです。
というわけで手にしたのが松田隆美著『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』という本でした。
この本では煉獄がどのようにして生れてきたのか、中世の人々はどのような死生観を持っていたのかということがかなり詳しく説かれています。
この本の中で語られていたのは中世ヨーロッパにおいて、死の前に聖職者による「秘跡」という罪の赦しが行われれば死後の天国行きは間違いないという考え方があったそうです。ですが単に罪を赦されただけでは不十分で、しっかりと罪を贖わなければならないという条件があります。赦されはしても罪の償いはしっかりしなければならない。では罪を贖う前に死んでしまったらどうするのか。そういう問題が生まれてきたそうです。そこで死後にも罪を贖う必要があるという考え方が生まれてきたようです。
この前提の下、著者は煉獄の発生について次のように述べています。
罪が償いに先んじて赦されることで、償いをいつまでに終えるべきかについても柔軟な姿勢が認められるようになり、その変化は死後の償罪の有効性に対してより強固な基盤を与えることとなった。
そして、死後に償いをするためだけに準備された場所として、天国とも地獄とも異なる場所、すなわち煉獄が死後世界の地図に登場してきた。煉獄の存在が公に認可されたのは一二七四年の第二リヨン公会議だが、ジャック・ル・ゴフは、具体的な場を表す固有名詞としての「煉獄」が文献に登場する時期を根拠として、それよりも一世紀は早く一一七〇ー八〇年頃に煉獄は死後世界の地理に誕生していたと結論づけている。
煉獄の成立時期については諸説あり、実際、煉獄が天国や地獄といかなる位置関係にあり、そこでの償罪の苦しみがいかなるものかについては、後述するように中世人の想像はなかなか定まらなかったが、一二世紀頃から煉獄は死後の償罪の場として確立し、一般信徒にも喧伝されるようになったことは間違いないだろう。
煉獄の誕生は告解の秘跡の変化と並んで、中世後期の死生観に大きな影響を与えた。罪の赦しが償いの完遂に先んじて与えられるようになったことで、信徒がひとまずは罪は赦されたという安堵と神への信頼をもって償いの遂行へと向かうことを可能とし、さらに、煉獄の成立により、もし償いをやり終えずに死を迎えたとしても、それを死後に完遂できると保証されたことになる。
さらに、小罪については(何を小罪と見なすかはともかくとして)、万一それを覚えておらず、したがってその罪を告白することなく死んでも、煉獄での償罪によって完全に償うことが可能と見なされた。つまり、極端な話、自分が犯した個々の罪をすべて思い出せなくとも、罪を告白して赦されて死ぬことができれば、煉獄で罪を浄めた後に天国に迎えられることが約束されるのである。
ぷねうま舎、松田隆美『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』P70-71
※一部改行しました
これを読んで私は思わず「ほぉー!」と唸ってしまいました。なるほど、そういうことだったのですね。
煉獄は12世紀頃に生まれたと。となればダンテの『煉獄篇』は割と新しい思想である煉獄を描いていたということになります。
そして上の解説の最後で、
「つまり、極端な話、自分が犯した個々の罪をすべて思い出せなくとも、罪を告白して赦されて死ぬことができれば、煉獄で罪を浄めた後に天国に迎えられることが約束されるのである。」
と述べられていたことも重要です。
ヨーロッパの文学を読んでいると、登場人物が亡くなりそうな時に神父さんがやってきて最後の秘跡を与えるという場面に出くわすと思います。その意味はこういう所にあったのですね。
私は正直、「それまで散々悪いことをしてきた人が死ぬ直前に懺悔して秘跡を受ければそれで救われる」というのはなかなかに虫がいい話だなということを意地悪ながら思ったことがあります。
ですが彼らは死後煉獄で罪を償っていたのです。そしてその罪をしっかり償えば天国に間違いなく入れるという安心感を持っていたのです。
西洋文学では19世紀の小説でもこうした臨終の秘跡が出てきます。いかにこうした死生観が西洋人の心に根深くあったかということを考えさせられます。
さらに言えば、ある意味この臨終の秘跡を受けるかどうかでその人のキリスト教観というものも見えてくるということも言えるかもしれません。興味深いことに『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ヴァルジャンはこの臨終の秘跡を断っています。ではその意味するところはどこにあるのか。ユゴーは何を言いたかったのか。こうしたことを考えながら読むのも面白いですよね。ミリエル司教に救われたジャン・ヴァルジャン。彼はキリスト教を信じていなかったのか。これはぜひじっくりとレミゼを味わって頂ければなと思います。
初めて読んだ時は『神曲 煉獄篇』についてあまり深くは考えてはいませんでしたが、ダンテが生きた時代背景とものすごく密接に絡み合って生まれたのがこの作品だったということを改めて知ることになりました。より詳しくは今回ご紹介した参考書『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』をぜひ読んで頂けたらなと思います。
以上、「ダンテ『神曲 煉獄篇』あらすじと感想~煉獄はいつから説かれるようになったのか。中世ヨーロッパの死生観とは」でした。
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