ナポレオンのモスクワ遠征と冬将軍、栄光からの転落~ドストエフスキー『罪と罰』とナポレオンの関係を考察
ナポレオンってどんな人?⑶モスクワ遠征と栄光からの転落 ドストエフスキー『罪と罰』とナポレオンの関係を考察
さて、本日もナポレオンの歴史について引き続きお話ししていきます。今日はいよいよ大詰めです。いよいよナポレオンとドストエフスキーの祖国ロシアとの対決です。
繰り返しになりますが、大事ですので『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフのナポレオンに対する言葉を見ていきましょう。
ああいう人間はできがちがうんだ。いっさいを許される支配者というやつは、ツーロンを焼きはらったり、パリで大虐殺をしたり、エジプトに大軍を置き忘れたり、モスクワ遠征で五十万の人々を浪費したり、ヴィルナ(訳注現在リトアニア共和国の首都)でしゃれをとばしてごまかしたり、やることがちがうんだ。それで、死ねば、銅像をたてられる、―つまり、すべてが許されているのだ。いやいや、ああいう人間の身体は、きっと、肉じゃなくて、ブロンズでできているのだ!
『罪と罰』上巻P480 新潮文庫、工藤精一郎訳、平成20年第57刷
本日はラスコーリニコフの言う「モスクワ遠征で50万の人々を浪費」、「 ヴィルナ(訳注現在リトアニア共和国の首都)でしゃれをとばしてごまかしたり 」に当たる部分のお話です。ナポレオンのクライマックスですね。
では、早速始めていきましょう。
前回まででナポレオンはイギリスの海上貿易を潰すために、ヨーロッパ中の国々にイギリスとの貿易を禁じる勅令を出しました。
しかしポルトガル、スペインと続々と密貿易を始める国が出始め、貿易封鎖の効果は上がりません。
そしてついにナポレオンの堪忍袋の緒が切れる出来事が発覚します。
大国ロシアまでもがイギリスと密貿易を始めたのです。
これはポルトガル、スペインの密貿易とはわけが違います。少しだけ歴史を遡ってみましょう。
ナポレオンは大国ロシアとはこれまで何度も戦いをしてきましたが、彼はいつも勝ちを収めていました。
そうしたナポレオン優勢の中ではありましたが、彼は1807年、ロシアに対しティルジット条約というロシアに対してかなり有利な和平条約を提案します。
イギリスを潰すためにはロシアを味方につけた方が得策だとナポレオンは考えたのです。
これには大国ロシアも大喜び。あっさりとこれまでの反ナポレオンの態度を翻します。
ナポレオンはこうしてロシアと「協力してイギリスと戦いましょう」という約束を取り付けたのでありました。
しかし前回にも少し述べましたように、貿易封鎖はイギリスよりも他の国の方がダメージが大きくなってしまいました。
そして長いことナポレオンとの約束のために我慢してきたロシアでしたがついに音を上げ、イギリスとの密貿易に手を出してしまったのです。
これはもはや同盟の裏切りです。大国ロシアの裏切りはポルトガルやスペインなどのナポレオン支配下にある国々のルール違反とは桁違いのダメージです。
だからこそナポレオンは大激怒したのです。
こうした経緯を経てナポレオンはついにロシア遠征を決意します。
このロシア潰しに対する彼の意気込みは並々ならぬものがありました。
それは招集した兵力を見れば一目瞭然です。
なんと彼は、ただちに30万ものフランス兵を動員。
これだけでも尋常ではない兵力ですが、そこからさらに同盟国にも召集をかけ、その総数68万という、前代未聞の大軍を組織します。
(※この大軍の総数については資料によっては40万から80万までばらつきがあります。ここでは『世界史劇場』を参考にしました。)
1812年、大軍はロシアへ向けて出発します。
そして国境を越えた兵の総数は45万。
あれ?68万もいたのになんで減っちゃったの?とお思いになられた方もおられるかもしれません。
そうです。もうすでにかなりの数の兵が脱落し始めていたのです。
「ロシア遠征」と言葉で言うのは簡単ですが、フランスからロシアまでの距離はとんでもないものがあります。地図で見てみましょう。
クリップの場所は当時のロシアとの国境付近の町、ヴィルナです。現在はリトアニアという国の領土です。
グーグルマップでパリからの徒歩ルートを検索すると、なんと、387時間かかります!距離にして1894km!
青森から博多ですらおよそ1550kmです。
しかも当時のロシアへの道は悪路で有名でぬかるみだらけで馬車などの輸送もままならないほどです。
そんな道を1900km近く、しかも68万人もの大軍で移動するというのは正気の沙汰ではありません。
私の住む函館市の2020年現在の人口でおよそ25万人です。函館市の2倍以上の人間が青森から博多まで徒歩で重い荷物を輸送しながら歩いて行くようなものです。もはや想像すらできません。
というわけでロシア国境に入った時点でかなりの兵が脱落してしまったのです。
さらにナポレオン軍の災難はこれでもかと続きます。
ヴィルノへと侵攻したのが6月24日。季節は間もなく夏。
初夏とはいえ、早くも灼熱地獄がナポレオン軍を襲います。
モスクワへと向かうナポレオン軍は国境のヴィルナからまだ130キロほどしか進んでいないヴィテブスクという街に苦しみながらもかろうじて到着しました。
しかしすでにこの時残された兵力は17万5千。
国境に入ってからここまででなんと、三分の二の兵士がまだ一戦も戦わずにして失われてしまったのです。
よくナポレオンのロシア遠征は極寒の冬将軍にやられたと言われますが、実は炎天下という夏将軍によってすでに壊滅的な状態に追い込まれていたのです。
ロシアに入ってすぐに30万の兵士が消えてしまった惨状に、さすがの側近たちもナポレオンに撤退を進言します。
しかしナポレオンは聞く耳を持ちません。
これまでの栄光が彼を他人の忠告を聞かない傲慢な人間へと変えてしまったのでしょうか。彼はそのまま進軍することを決定します。
さて、対するロシア軍ですがこちらも迷走が続いていました。
実はナポレオン軍とはここまでも何度となく遭遇はしていたのです。
しかし、ナポレオン軍の大軍に気圧され、戦わずして本陣モスクワ方向へと撤退を繰り返していたのです。もちろん、ただでは帰りません。行く先々で村々を焼き、ナポレオン軍が食料などを補給できないようにして逃げ帰っていくのでありました。
ですが、この行き当たりばったりの撤退が結果的にロシアの勝利を呼び込むことになるのです。
さて、ナポレオン軍は死に体のままなんとかモスクワへと進軍していきます。
モスクワまであと120km。そこで第一の決戦ボロディーノの戦いが開戦します。
疲労困憊のナポレオン軍は苦戦するかと思いきや、激戦の末あっさりとロシア軍を破ってしまいます。
ロシア軍は撤退、ナポレオンはいよいよロシアの首都モスクワへと向かいます。
そして1週間かけて9月14日にモスクワに到着したナポレオンは眼の前の光景に呆然とします。
モスクワはすでに無人の街になっていたのです。
彼らはなんと、聖なる都、ロシアの首都たるモスクワを捨てて逃げ出したのです。
ナポレオンからすればあまりに拍子抜けの事態です。
なぜなら、首都を取るということは敵の本丸を取るということです。つまりその国を制圧したということです。
ですが、もぬけの殻の首都を制圧したところでその国を制圧したとは言えません。
まさか首都を捨てて全員で逃げ出すとはさすがのナポレオンも予想していなかったのでありました。
そしてモスクワに入城した夜、さらなる災難に見舞われます。
街の至る所から火の手が上がったのです。慌てて消火しようとしても、消火設備がすでに何者かによって破壊されていました。
そうです。これは何者かによる意図的な放火だったのです。
では、誰が犯人か。
そう、誰を隠そう、ロシアによるものだったのです。
なんと、ロシア軍は自分たちの首都を捨てて焼き払ってでもナポレオンを倒そうとしてきたのです。
これにはさすがのナポレオンも狼狽します。
結局首都モスクワの80%が焼けてしまい、これから来るであろう冬将軍に備えるための防寒具や食料の類も皆、街と共に焼け落ちてしまいました。
これがナポレオンが冬将軍に屈する最大の原因となってしまったのです。
そしてこれからどうすべきか迷い、もたもたしている内にひと月が経ち、10月13日、ついにこの日が来てしまいます。
初雪です。
いよいよロシアの厳しい冬が始まってしまったのです。
10月13日を境に一気に気温が低下。ロシアの冬を甘く見ていたナポレオンもさすがに限界であることを悟ります。
そして10月19日、ついにロシアからの撤退を決断します。
モスクワからまずはスモレンスクへの撤退を始めたナポレオン軍ですが、防寒装備も何もないままにマイナス20度にもなる極寒と猛吹雪に襲われ、おまけに撤退する彼らをこれ幸いとこれまで逃げ腰だったロシア軍が攻撃を加えてきます。
モスクワ出発当時に10万人いた兵士は、スモレンスク到着時には3万にまで減っていました。
しかも救いの街であると考えていたスモレンスクもすでに略奪し尽くされていて死の街の状態のまま捨て置かれていました。これでは何の休息も補充も出来ません。
ならばさらに西のミンスクまで撤退するしかあるまい!ベレジナ川を渡ればもう安心だとさらにナポレオン軍は撤退します。
ベレジナ川付近で付近の敗残兵とも合流し兵力は5万に回復。
しかしこのベレジナ川でもロシア軍との悲惨な戦いがあり、この川を渡り切りロシア国境付近まで逃げ延びることができたのはわずか1万ほどの兵士のみ。
戦いに生き延びても今度はマイナス38度という極限の寒さでどんどん命が失われていったのです。
ロシア遠征はナポレオンの完全なる敗北でした。
これがラスコーリニコフの言う「モスクワ遠征で50万の人々を浪費」 という出来事です。
ラスコーリニコフが浪費と言ってしまうのもなんとなくわかる気もします。灼熱地獄と極寒、大軍の超遠距離移動という無茶な行軍による飢えや病気によって、兵士たちはほぼ戦うことなく死んでいきました。
50万人以上の人間がそうして死んでいったというのは尋常ではありません。想像を絶するスケールです。
そしてモスクワ遠征の最後、極寒の中なんとか逃げ延びてきたナポレオンでありましたが、国境付近の町ヴィルナの手前80kmのスモルゴノイという地で彼はまたしても驚くべき行動を取ることになります。
ナポレオンの壊滅的な敗戦の知らせはまだ本国フランスへは届いていませんでした。
ですが苦戦の情報はかなり前からヨーロッパ中に広まっており、またしてもナポレオン不在のパリは混乱に陥っていました。そしてクーデタの危険を知らされるとナポレオンはすぐさまパリへと帰還しようとします。
そうです、エジプトの時と同じように、またしても側近のみを連れての単独逃走です。
次の記事で紹介するコレンクール著『ナポレオン ロシア大遠征潰走の記』によると、ナポレオンは「たしかにロシアで負けはしたが大したことはない、まだまだ立て直せる」とフランス本国にごまかしの伝令を伝えようとしていた旨が述べられていました。
おそらく、この辺りのナポレオンの単独逃走と敗戦のごまかしをラスコーリニコフは 「ヴィルナ(訳注現在リトアニア共和国の首都)でしゃれをとばしてごまかしたり 」と述べたのではないかと思われます。
エジプトに引き続きロシア遠征でも兵士を置き去りに一人逃走するナポレオン。
それでもなお彼は圧倒的な人気を誇るから不思議なのです。
「それで、死ねば、銅像をたてられる、―つまり、すべてが許されているのだ。いやいや、ああいう人間の身体は、きっと、肉じゃなくて、ブロンズでできているのだ! 」とラスコーリニコフが言いたくなるのももっともだなと思ってしまいました。
まとめ
ロシア遠征の敗北後、ナポレオンはこれまでの勢いを失っていきます。
ここではその顛末はお話しできませんが、ナポレオンの権力が完全に消滅するのは1815年になります。
1804年の皇帝ナポレオンの誕生から11年。
この期間を共和国第一帝政、あるいはナポレオン帝政時代と呼びます。
1789年のフランス革命からナポレオン帝政という動乱の時代はこうして幕を閉じるのでありました・・・
と言いたいところですがフランスの動乱はまだまだ続きます。
それはこれからの記事でもまとめていきたいと思っています。
さて、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフとナポレオンの関係をテーマに、ここまで長々とナポレオンの歴史をたどってきました。
改めてラスコーリニコフの言葉を読んでみると、ナポレオンの激動の流れを絶妙に言い表しているなと感心してしまいます。
より思想的な意味でのドストエフスキーとナポレオンの関係はここではあまりお話し出来ませんでしたが、フランス革命とそれに続くナポレオンの流れを知ることでよりドストエフスキーの言わんとしていることが見えて来るのではないか、その思いでここまでまとめてみました。
思いの他長くなってしまい自分でも驚いていますが、皆さんも最後までお付き合い頂きありがとうございました。
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