目次
スターリンと16世紀の専制君主イワン雷帝のつながり~流血の上に成立する社会システムとは スターリン伝を読む⑷
ヨシフ・スターリン(1878-1953)Wikipediaより
引き続きサイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』の中から印象に残った箇所を紹介していきます。
1937年の大粛清のはじまり
容疑者個人の名前を特定することさえせず、数千人単位の数字を割り当てて逮捕処刑せよという命令が下されるようになった。一九三七年七月二日、政治局は各地の書記局に「最も敵対的な反ソ分子」の逮捕と銃殺を指令した。現地で判決を下すのは三名の判事で構成されるトロイカ法廷だった。三名とは地元の党書記、検事、NKVD責任者を意味していた。
命令の目的は、すべての敵と社会主義的再教育が不可能な者たちを「最終的に一掃すること」、それによって階級の壁を取り払い、人民の天国を実現することにあった。
最終解決としての殺戮に意味を見出すためには、ボリシェビズムが掲げる理想への信頼が不可欠だったが、それはある階級の組織的壊滅を善として信ずる宗教に等しかった。だからこそ、五カ年計画が工業生産を割り当てたのと同じ手法で、人数を割り当てて殺戮するやり方が当然のように採用されたのである。細かいことはどうでもよかった。(中略)
銃殺すべき割り当て数は全部で七万二九五〇名、逮捕すべき割り当て数は二五万九四五〇名だったが、見落としによって割り当てのなかった地方もあった。逆に、各地方は割り当て人数を超過完遂することもできた。逮捕者については、その家族も強制収容所送りとなるはずだった。政治局は翌日この命令を承認した。
この「挽肉システム」は、すぐに最大出力で稼動し始めた。魔女狩りは絶頂期に達し、各地方の実力者たちの嫉妬と野望に後押しされて、システムに投入される犠牲者の数は増える一方だった。
すでに割り当て数を達成してしまった地方は追加の割り当てを要請した。そこで、政治局は八月二十五日から十二月十五日までの間に、新たに二万二五〇〇名の銃殺を了承し、その後さらに四万八〇〇〇名の割り当てを追加した。
この意味で、ユダヤ人とジプシーに目標を限定して組織的な殺戮を行なったヒトラーの犯罪とスターリンの大テロルとは大きく異なっている。
ソ連では、時として無原則的に殺戮が行なわれた。たとえば、長く忘れられていた昔の言葉を思い出したために、反対派とつき合った過去が明るみに出たために、他人の仕事や妻や住宅への妬みのために、個人的な復讐心のために、あるいはまったくの偶然のために、家族全員が殺害され、迫害されたのである。理由は何でもよかった。
「不十分であるより、行き過ぎの方がましだ」とエジョフは部下に演説した。当初の割り当て数は時とともに膨張し、逮捕者は七六万七三九七人、処刑された者は三八万六七九八人に達した。
※一部改行しました
白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、染谷徹訳『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち〈上〉』P410-411
1937年の大粛清はこれまでの粛清よりもさらに進んでいました。
なんと殺害と逮捕の割り当て数を先に決定し、その数をノルマとして強制したのです。
そしてこれはある意味地方の官僚の忠誠心を試す試金石ともなっていました。
スターリンの意図に沿うことを示すため、地方官僚は進んでノルマを達成しようとしました。だからこそ、ノルマよりももっと多くの人を処刑しようと躍起になったのです。人間の命が単なる数字の問題に置き換えられた究極の例となってしまったのです。
流血の上に成立する社会システム
確かに首謀者はスターリンだった。しかし、スターリンは決して単独犯ではなかった。
大テロルの責任を一人の人間に負わせる見方は、正確でないばかりか、有益でもない。なぜなら、組織的な殺害は一九一七年にレーニンが政権を奪取した直後から始まっており、スターリンの死後も終らなかったからである。
この「流血の上に成立する社会システム」においては、明日の幸福のために今日の殺人が正当化された。大テロルを単にスターリンの怪物性の結果として片づけることはできない。
だが、一方、敵意と復讐心に満ちたスターリン独特の強烈な性格がテロルに形式を与え、テロルを拡大し、加速したことも間違いない。
「最上の喜びは」とスターリンはカーメネフに語ったことがある。「敵に狙いをつけ、すべてを準備したうえで、完全に復讐を果たし、そして眠りに就くことだ」。
スターリンがいなければ、大テロルは起こらなかっただろう。しかし、また大テロルは、すでに流刑と戦争の時代から妬みと嫉みの坩堝だった閉鎖的なセクト、ボリシェビキ村の近親憎悪が生み出した結末でもあった。
※一部改行しました
白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、染谷徹訳『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち〈上〉』P413
スターリンのテロルは彼独自のものではなく、レーニン時代から続くソビエトの政治システムそのものだったのです。そのことを忘れスターリン個人に全ての責任を負わせることは歴史認識を大きく損なうことになってしまうと著者は述べます。
大物政治家たちの腐敗
大物政治家たちの腐敗は周知の事実だった。ヤゴダは公金を使って宮殿暮らしをし、ダイアモンドを取引していたという噂だった。ヤキールは大地主よろしく別荘を他人に貸して金儲けをしていた。
将軍の妻たち、たとえばオリガ・ブジョンナヤやガリーナ・エゴロワ(ナージャの最後のパーティーの席でスターリンとふざけ合った女性)は、各国大使館や「サロン」に出入りし、「流行の服を身にまとい、きらびやかな招待客に交ざって、ロシア貴族の晩餐会もかくやと思わせる華やかな暮らしをしていた」。
「商店には品物が何もないのに、物価が二倍に跳ね上がるのはなぜなの?」と、マリア・スワニゼは日記に記している。五カ年計画を達成して褒章メダルをもらう人がいるというのに、どこに行っても、綿も麻も羊毛もない。進んでいるのは個人のダーチャ建設だけ……豪華な住宅や別邸に膨大な資金が使われている」
殺人を命令し、実行した数十万人の党員には重大な責任があった。スターリンと重臣たちは見境のない殺人ゲームに熱狂し、ほとんど殺人を楽しんでいた。
しかも、命令された人数を超過して、命令以上に多数の人間を殺すのが当たり前となっていた。しかし、この犯罪で裁かれた者は皆無だった。
※一部改行しました
白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、染谷徹訳『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち〈上〉』P414
これが平等をうたった社会主義ソヴィエトの現実でした。
ただ、これはスターリン時代から始まったわけではありません。すでにレーニン時代からこうした腐敗は始まっていたのでした。
スターリンとイワン雷帝
スターリンは側近たちに向かって、すべての敵を「始末する」という目標を驚くほどあけすけに語った。ヴォロシーロフの住居で催されたメーデーのパーティーでも腹心たちに率直に計画を語っていたことは、ブジョンヌイの回想にあるとおりである。
スターリンはいつも自分の大テロルをイワン雷帝の大貴族殺害に喩えていた。「十年後、二十年後にあの屑どものことを覚えている者がいるだろうか?いやしないだろう。イワン雷帝が始末した大貴族の名前を覚えている者が今日いるだろうか?いやしない。……人々が知っているのは、イワン雷帝がすべての敵を排除したということだ。結局、排除された者は当然の報いを受けたのだ」
白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、染谷徹訳『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち〈上〉』P414-415
スターリンは自らを16世紀のロシア皇帝イワン雷帝になぞらえていました。
イワン雷帝はロシアの歴史を知る上で非常に重要な人物です。
彼については以前当ブログでもご紹介しました。
圧倒的カリスマ、そして暴君だったイワン雷帝。彼も恐怖政治を敷き、数え切れないほどの人間を虐殺し拷問にかけました。
しかしその圧倒的な力によってロシア王朝を強大な国家にしたのも事実。こうした歴史をスターリンも意識していたのでしょう。
スターリンとイワン雷帝の比較は非常に興味深い問題です。
続く
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