ツルゲーネフ『ムムー』あらすじ解説―農奴と子犬の切ない物語
『犬物語』所収、ツルゲーネフ『ムムー』あらすじ解説
ツルゲーネフ(1818-1883)Wikipediaより
『ムムー』は1852年にツルゲーネフによって書かれた短編小説です。
私が読んだのは白水社、藤川芳郎編『犬物語』所収のツルゲーネフ、矢沢栄一訳『ムムー』です。『犬物語』は世界各国の犬の物語を集めた短編集で、その中のひとつにこのツルゲーネフの『ムムー』が収められています。タイトルの『ムムー』は犬の名前からきています。
では早速あらすじを見ていきましょう。
大男で四人分の仕事のできる怪力の持主であるゲラーシムは、大地に育った樹のように、村一番の正直者で働き手として評判になっていた。
彼は唖で聾であったが、モスクワ郊外の屋敷に住む未亡人の女地主に拾われて、屋敷番として働くようになる。慣れない仕事であったが、忠実な働き手であったので夫人の受けもよい方であった。
同じ屋敷で働く洗濯女タチヤーナは純情なゲラーシムの心をとらえ、嫁に欲しいと思うようになった。ところが、タチヤーナは奥様のはからいで飲んだくれの靴工カピトンのところへやられてしまった。カピトンの身持をよくしてやろうとの奥様の考えからであった。彼女は悪意からではなかったが、農奴の運命を勝手に軽率にもてあそび、タチヤーナも、ゲラーシムをも不幸にしてしまった。一年たっても、カピトンの身持は一向によくならず、ついには夫婦は遠い田舎へ追放されてしまう。
ゲラーツムは川に流されていた一匹の雌の小犬を拾い、自分の部屋で大切に育てる。七、八ヶ月もたつと立派なスぺイン種の犬に成長した。彼はどんな母親も及ばないほど優しいいたわりの心で育てあげたのである。
「ムムー」という唖のゲラーシムの呼び声がその名前となって、ムムーは皆から可愛がられた。しかし、度重なる夫人の我儘と誤解のため、さらに卑劣な小心な執事ガヴリーラの追従的態度のため、ムムーはゲラーシムの手で溺死させられるはめになる。
ゲラーシムがムムーに向けた愛情は、この上なく素朴で純粋であり、この清らかな愛情は女地主の残忍で偏見にみちた我儘に対置して描かれている。ゲラーシムは屋敷からぬけ出して、生れ故郷へ帰っていくが、作者は彼の不幸な都会での生活を温い筆で描いている。
タチヤーナへの恋の描写は幾分ユーモラスに描かれているが、それはまた唖であるゲラーシムの純情さを一層浮き立たせるものである。この純な恋心やムムーに対する愛情が、無残にも踏みにじられてしまうことは、ゲラーシムに対する憐憫と共に、女地主の階級への抗議さえも呼び起すのである。
法政大学出版局 小椋公人 『ツルゲーネフ―生涯と作品』P44-45
『犬物語』に収録されるだけあって子犬のムムーの可愛さ、そして別れの悲しさは言葉では言い表せないほどです。『犬物語』自体は14本の短編で構成されていますが『ムムー』はそのトップバッターとして収録されています。
この作品が世界的にも有名で人気のあることがうかがえます。
さて、この作品ですがツルゲーネフの『猟人日記』と同じく、彼の幼少期の体験が色濃く反映されています。彼の幼少期は幸福なものではありませんでした。
彼の母は暴君のように振舞う地主で、農奴たちをいつも恐怖に陥れていました。
その様子をツルゲーネフの出自と合わせて紹介します。
イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ Ивaн Сергеевич Тургенев(1818-83)は、ヨーロッパ・ロシヤの中央部にあるオリョール市に生れた。
軍職にあった父が二年後に退職すると、一家はオリョール県下の母の領地に移り住んだ。
母は権勢欲の強い、わがままで、ヒステリックな婦人で、農奴にたいする仕打ちは苛酷であった。元来、彼女は孤児としてみじめな青春をすごしたのであったが、すでに老嬢となってから、はからずも莫大な資産の相続人となったのである。
そこへ、古い家柄の出ではあるが、零落した士族であるツルゲーネフの父があらわれて、二人は結婚をした。夫から見て、いわば金が目当てであるこの結婚は、妻にとって幸福であり得なかった。
二人の間にはとかく風波が絶えず、その家庭生活がどんなに味気ないものであったかは、ツルゲーネフの自伝的短篇小説『初恋』(一八六〇)に描かれているところである。
父は早死をするが、やもめになった母はますます頑固に、矯激になっていき、晩年は短篇『ムムー』(一八五四)の女地主さながらの横暴な生活を送るようになった。(たとえば、お辞儀のしかたが悪いというだけの理由で、二人の農奴をシベリヤ送りにしたことさえあった。)
このような環境の中でツルゲーネフは幼時から、農奴制度というものを深く憎むようになった。そしてその反面、ロシヤの自然を愛し、民衆に同情する気持をはぐくまれたのである。
岩波書店 佐々木彰訳『猟人日記 下』P299
この解説にありますように、『ムムー』の女地主は彼の母をモデルにしているのです。
主人公はあくまでゲラーシムとムムーではありますが、やはり横暴な女地主の存在感が強い作品となっています。
『ムムー』執筆の背景
そしてこの作品が書かれた背景というのもまた興味深いものがあります。
この作品が書かれた1852年というのはロシア文学界のスター、ゴーゴリが亡くなった年でした。
ツルゲーネフは彼のことを深く尊敬していたので、追悼記事を発表します。しかしそれが政府に目をつけられ、逮捕される原因となってしまうのです。
ゴーゴリ自身は意図していませんでしたが、その作品が反体制であると政府からにらまれていました。そのためゴーゴリを賛美するものは反体制者であるとされ、秘密警察に目をつけられるという時代だったのです。
ここからアンリトロワイヤの『トゥルゲーネフ伝』を参考にしていきます。
記事は決して体制に矢を向けるものではなかったが、ニコライ一世配下の警察は、一作家をめぐる騒擾には、何であれ嫌疑をかけた。
サンクト=ぺテルブルクの検閲官は、この賛辞の文章の公表を禁じた。そこでトゥルゲーネフは、自分の原稿をモスクワに送った。そこでは、よりおだやかな検閲官が出版許可を与えた。
この追悼文は一八五二年三月十三日、『モスクワ通報』に、「T…v.」の署名で掲載された。ほどなくトゥルゲーネフは「検閲規則不服従及び違反」のかどで逮捕され、大提督府の監獄に収容されることになった。
彼はごくまずまずの待遇を受けながら、そこでひと月過ごした。一人きりになれる独房、いい食事にシャンパン、書物と面会者とが許されていた。
気晴らしに彼はポーランド語を学び、また『ムムー』という小説を書いた。この作品は、ヴァルヴァーラ・ぺトローヴナのすさまじい統治のもと、スパスコェで起こった実際の事件に取材している。
ペンを手に、彼は墓の彼方にいる、権力をふるって自分の青春時代の自由を奪った女性に、今一度復讐の手を加えたのである。その死後までも、彼は反抗する弱者の笞を心の内でふるうことをやめなかったのである。
水声社 アンリ・トロワイヤ 市川裕見子訳『トゥルゲーネフ伝』P70-71
私も初めてこれを読んだときは驚きました。
ドストエフスキーが社会主義思想グループにいたことで逮捕されシベリア流刑になったことは有名ですが、まさかツルゲーネフも逮捕されて監獄に入れられていたとは思いませんでした。
ですが罪の軽さもあるかもしれませんが、そこは大貴族の御曹司。
「彼はごくまずまずの待遇を受けながら、そこでひと月過ごした。一人きりになれる独房、いい食事にシャンパン、書物と面会者とが許されていた。」
という状況だったようで、生きるか死ぬかのぎりぎりのところにいたドストエフスキーとはまるで違った監獄生活だったようです。
そうした中でこの『ムムー』は書かれていたというのは私としてはとても興味深いお話でした。
感想
『ムムー』は日本ではあまり知られていない作品かもしれませんが、この作品はツルゲーネフ作品の中でもトップクラスにドラマチックな作品なように私は感じます。
ゲラーシムの素朴な善良さ、そしてそれに対置される女地主や執事。
そして何よりムムーとの心温まる日々。
犬を飼っている私には特にその辺りが感情移入してしまうポイントです。
ですが、そんな幸せな日々が女地主の横暴で不意に終わりを迎えます。
犬を殺せと命じられたゲラーシム。彼は一体どうするのか、街から一人離れて川に船を浮かべた彼はどうなってしまうのか、ムムーはどうなってしまうのか。
読んでいるこっちは恐ろしくて心臓がばくばくしてしまいました。
あらすじや解説を事前に知っていてもこうなってしまうツルゲーネフの筆の力です。
もしあらすじを知らずに読んだらかなりショックを受けることになると思います。少なくとも私はあらすじを読んでもショックでした。
この作品はそれだけインパクトのある作品でした。
ツルゲーネフ作品の中でも分量も少なめで、とても読みやすい作品ですので興味のある方はぜひ手に取ってみてください。
以上、「『犬物語』所収、ツルゲーネフ『ムムー』あらすじ解説―農奴と子犬の切ない物語」でした。
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