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ツルゲーネフとドストエフスキー『悪霊』の関係~因縁はまだまだ続く・・・
ツルゲーネフ(1818-1883)Wikipediaより
1845年から始まった2人の因縁は宿命的なものとなりました。このブログではその最初の出会いと、1867年ドイツでの大喧嘩をご紹介しましたが、今回はそれに続くドストエフスキーの『悪霊』とツルゲーネフについてのエピソードをご紹介します。
これまで紹介した2つの出来事と直結するお話しですので以下の記事を読んで頂けますとよりわかりやすくなりますのでぜひご覧ください。
さて、1867年の大喧嘩によって二人の仲は決定的にこじれてしまいました。
そしてドストエフスキーはその後執筆した『悪霊』という長編小説の中でツルゲーネフを風刺した人物を描くことになります。
以下、そのエピソードを佐藤清郎の『ツルゲーネフの生涯』を参考に見ていきます。
この引用はドイツでの喧嘩の直後の場面から始まります。
もともとよかったとは言えない二人の仲は、これでぷっつり切れてしまった。七〇年代後半まで交際は絶える。
一八七〇年から七二年まで書きついだ『悪霊』の中で、ドストエフスキーはカルマジーノフの名でツルゲーネフを揶揄し、嘲笑した。テロ革命家に憎悪を抱いて『悪霊』を書いた作家にしてみれば、そういう連中に同情を抱いているかに見える『処女地』の作家を許すことはできなかったのだ。
カルマジーノフのことを、「もちろん、あのひとは文豪気取りです。高慢ちきな人です」と言い、「貴顕におもね、自尊心が強い」くせに、「革命的な青年たちに対しては病的なほどおびえ」、「彼らに卑屈にもおべっかを使っている」鼻持ちならぬ老大家として描き出している。
年来、積りにつもった不満をぶちまけた感があった。『まぼろし』『もうたくさん!』『トロップマンの処刑』に表われた無力なペシミズムや、人の傷みに思いやりの足りぬ傍観者的な非情さを、ドストエフスキーは罵倒してやりたかったのである。
つまり、ツルゲーネフ的な、大仰な、「貴族ぶった道化式の抱擁ぶり」や、「無神論者であるという虚栄心を持っている点」や、「もしロシヤが大地の中に落ち込んでも、人類にはなんの損害も動揺もない」(一八六七年八月二十八日、ア・エム・マーイコフ宛)と思い込んでいるらしいのが気に入らなかったのである。
筑摩書房 佐藤清郎『ツルゲーネフの生涯』P236
ドストエフスキーは自身の作品『悪霊』でツルゲーネフを風刺したカルマジーノフという人物を描き、こっぴどくやっつけることになりました。
ドストエフスキーがツルゲーネフの言動をいかに根に持っているかが感じられます。これまでの恨みやツルゲーネフの思想が彼には我慢ならなかったのだろうと思われます。
ドストエフスキーの『悪霊』はドストエフスキー作品の中でも非常に人気の高い作品でロシアだけでなく世界中で読まれている作品です。
その中でこのように風刺されるというのはツルゲーネフにとってもかなりの痛手となったと思われます。
ドストエフスキー側の本ではこのエピソードはここで終わるのですが、『ツルゲーネフの生涯』ではこの後非常に興味深いことが書かれていました。ぜひとも皆さんにご紹介したい一節です。
こんなことがあったあとでも、ツルゲーネフはフランスの文学者デュランに、ロシヤ作家を研究するならドストエフスキーを研究したらいいと勧め、絶交の相手に紹介状をさえ書いている。
「私は、われわれの間に起ったトラブルのために個人的関係は途絶えているにもかかわらず、この手紙を書く決心をしました。ああいうトラブルも、あなたの第一級の才能について、正当にもわが文壇においてあなたが占めておられる高い地位についての私の意見に、何らの影響を持ちえないことをどうぞお疑いくださいますな。」
私はこういう態度の中にツルゲーネフの本質があるように思う。どのような出来事も彼の本質の善意を歪めることはできないのだ。
もちろん、一個の文学者として、批判すべき点ははっきりと批判している。
たとえば、ドストエフスキーの作品世界は「一種独特の苦悩の病的な弁解」であり、彼の才能は「逆の万人の真理」を説く「残酷な才能」で、「悪名高いマルキ・ド・サド」に類する現象だ、と言い、『罪と罰』を「長くつづくコレラの苦痛」だとさえ言っている。
筑摩書房 佐藤清郎『ツルゲーネフの生涯』P236
これを読んで私はつくづく思うことがあります。
「ツルゲーネフは芸術家なのだ」と。
ツルゲーネフの伝記や解説で必ず言及されるのがツルゲーネフの芸術への愛です。
彼は思想家として作品を書いたのではありません。あくまで芸術家として、時代の観察者として社会を見つめ、作品を描いたのです。
彼は個人的な関係を超えて芸術を愛します。
ドストエフスキーとは仲違いしてしまいましたが、彼の作品についてはその価値を十分に評価しているのです。そして公正にもフランスの作家に彼を紹介するということまでしているのです。これは芸術を愛するが故に行われた尊敬すべき行動だと私は思います。
もちろん、芸術家ツルゲーネフはその分鋭い批評もします。『罪と罰』はたしかに思想的には恐るべき迫力を持った作品ではありますが、美しい自然や情景描写を描く芸術家ツルゲーネフからすると、「そんなものは芸術とは言えぬ!」という思いが出ても仕方がないかもしれません。
芸術作品としての文学と思想作品としての文学は何が違うのか。
これは改めてじっくり考えなくてはならない難しい問題ではあるのですが、ツルゲーネフやトルストイの作品というのは世界的にも芸術作品の傑作として評価されています。
ですので彼らの作品を読むことで芸術としての文学とは一体何なのかということが自ずから見えてくるのではないかと考えています。特に、ドストエフスキーと比較しながら読めばその違いはより明らかになるのではないでしょうか。
以上、「ドストエフスキー『悪霊』とツルゲーネフの関係―芸術家ツルゲーネフの粋な行動」でした。
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