(3)唯物論者への反論が見事すぎるミリエル司教~ユゴーとドストエフスキーの違いについて

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(3)唯物論者への反論が見事すぎるミリエル司教~ユゴーとドストエフスキーの違いについて
第一部 ファンチーヌ 第一章 正しい人 ⑵
前回の記事でも少しお話ししましたが、ミリエル司教のことを良く思わない人々も町にいたのも事実です。
その中でも特に異彩を放っていたのが、ある上院議員でした。彼についてユゴーは次のように紹介しています。
上院議員は、利口な男で、良心とか、信仰とか、正義とか、義務とか名づけられている、途中の障害物を気にせずに、まっしぐらにわが道を進んできた。目的物に向かって真っ直ぐに進み、昇進と利益の道で、つまずいたことは一度もなかった。もと検事だったが、成功してから気が優しくなり、決して意地悪ではなく、息子や、婿や、親類や、友人たちにも、こまごまと世話をやいた。人生からいい面や、いいチャンスや、いい儲けものなどを、巧みにつかんできた。その他のことは馬鹿げているように思っていた。才気があり、かなり学問もあり、自分ではエピクロスの弟子だと思っていたが、おそらくピゴー・ルブランの小説中の人物ぐらいにすぎなかっただろう。無限で永遠なものや、「司教さんの無駄話」などは、平気で、笑殺していた。ときには、耳を傾けているミリエル氏の前でさえ、愛想はいいが威厳をくずさずに、そうしたことを笑ったりした。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P54-55
ものすごくざっくり言うならば、彼は己の力で成功を掴んだ(と思っている)人間になります。合理的に物事を考え、巧みに昇進と利益を勝ち取る。綺麗事は嫌いだ。何事もビジネスさということです。
これはもうほとんど我々現代人と変わらない感覚と言ってもよいかもしれません。
そんな上院議員がミリエル司教に向って自説を語るのですが、ぜひその言葉を聞いていくことにしましょう。
あなたとわたしだけの話ですが、ざっくばらんに言えば、そしてわたしの牧者であるあなたにふさわしい告白をすればですね、わたしにはちゃんとした良識がある。
何かについてあきらめと犠牲を説くあなたのイエスに、わたしは夢中になれない。けちん坊が乞食に忠告するようなものです。あきらめ!なぜです?犠牲!なんのために?狼が他の狼の幸福のために犠牲になるとは思われない。ですから、自然の中にとどまるとしよう。わたしたちは頂上にいる。だから高級な哲学を持ちましょう。他人の鼻の先より遠くを見ないとしたら、高いところにいたって何になります?愉快に生きましょう。この人生、それがすべてです。ほかに、高いところか、低いところか、どこかに、来世があるなんて、わたしは一言も信じませんよ。
やれやれ、わたしは犠牲やあきらめをすすめられ、自分のすることに注意を配り、善と悪、正と邪、合法と非合法とに頭を悩まさなくてはならない。なぜ?あとで行状を報告しなければならないから。いつ?死後に。結構な夢だ!わたしの死後に、この私がそうやすやすと捕まるものですか。亡霊の手に、灰をひとつかみ握らせるんですな。真実を語りましょう。われわれは秘義に通じ、イシスの女神の秘密をあばいたのですからね。善も悪もなく、成長があるばかりです。現実を求めましょう。あくまでも掘りつくすのだ。徹底するのだ、いいですか!真理をかぎつけ、地下を掘り、真理をつかむのだ。そのとき、真理が妙なる喜びを与えてくれる。そしてあなたは強くなる。笑うことができる。根はがっちりしていますよ、わたしは。
司教さん、人間の不死なんか、空手形ですよ。ああ、大した約束だ!あなたは信じたらいい。アダムの持っている結構な手形!人は霊魂だ、天使になるだろう、肩に青い翼が生えるだろう。ところで、あれはテルトリアヌスじゃなかったかな、幸福な人間は一つの星から他の星へ行くだろう、と言ったのは?
よろしい。人間は、星の蝗虫になる。それから、神さまを見るというわけ。馬鹿馬鹿しい、天国の話なんか、みんなでたらめですよ。神さまなんて、馬鹿げたつくりものですよ。(中略)
地上を天国の犠牲にするなんて、水鏡を見て獲物を落っことすようなものです。無限なものに欺かれる!こんな馬鹿げたことはない。わたしは虚無です。上院議員虚無伯爵氏という名です。生れる前に、存在していたか?否です。死んだあとで、存在するか?否です。わたしは何者か?有機体によって結合された少しばかりの粉末です。この地上で何をしなくてはならないか?わたしは選択する。苦しむか、楽しむか。苦しみはどこへわたしを連れて行くか?虚無へです。でも、わたしは苦しむだろう。喜びはどこへわたしを連れて行くか?虚無へです。でも、わたしは楽しむだろう。
わたしの選択は決った。食うか、食われるかだ。わたしは食う。草になるより、歯になりたい。それがわたしの知恵です。そのあとは、成り行きまかせ、墓掘り人夫が待っているというわけ。われわれのような人間は、パンテオンに祀られるが、みんな大きな穴に落ちるだけ。それでおしまい、一巻の終りです。全部清算される。そこが消滅の場所です。死が死んだわけ。そこに誰かがいて、わたしに何か言うことがあるなんて、考えただけでも滑稽だ。
乳母のつくり話だ。子供にはお化け、大人にはエホバ。違いますよ、われわれの明日は、夜です。墓のうしろは、一様に虚無です。あなたがサルダナパロスであろうと、聖ヴァンサン・ド・ポールであろうと、同じ虚無となる。これが真実です。だから、何よりもまず、生きることですな。自我を持っている間は、それを使うことですな。
全くの話、いいですか、司教さん、わたしにはわたしなりの哲学がある。くだらない話にだまされはしない。そうしたわけで、下層の連中、乞食や研ぎ屋やみじめな連中には、何かが必要だ。彼らには、伝説や幻想や霊魂や不死や天国や星などを食わしてやる。奴らはそれをかみしめている。乾パンの上に塗りつける。何も持たない者には、神さまがある。それだけぐらいのもの。わたしはそれに文句をつけないが、自分のためにネージョン氏をとっておきますよ。神さまは民衆向きなんだ」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P56-59
※スマホ等でも読みやすいように一部改行しました
いかがでしょうか。もはや私から何も言う必要もないくらい明確な無神論、唯物論ですよね。
死んだら無だ。だから何をしてもよい。善も悪もない。ただ強いものが勝つだけだ。生きている限り、貪り続けるのだと。
そして弱いものには神をあてがっておけばよいのだというのはまさに有名な「宗教はアヘンである」という言葉を連想しますよね。この言葉自体は1844年にマルクスによって発表された『ヘーゲル法哲学批判序説』に出てくるものなのですが、このレミゼが執筆された1860年初頭においてはマルクスはまだそれほど有名な存在ではありません。『資本論』が完成するのも1867年のことです。ということでユゴーはマルクスの言葉は読んでいなかったものと思われます。
ですが、当時の無神論的な空気や唯物論者の勢いというのはマルクスの専売特許でなく時代の産物でもありました。詳しくはここではお話ししませんが「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」の連載記事でお話ししていますので興味のある方はこちらを参照頂ければと思います。

いずれにせよ、ユゴーはこうした時代風潮を的確に掴んでいます。
そしてこの厳しい批判に対してミリエル司教はどう答えたのでしょう。これは僧侶である私にとっても非常に興味深いものでありました。
司教は手をたたいた。
「ごもっとも!」と司教は叫んだ。「立派です、お見事です、あなたの唯物論は!誰にでも持てるというものではない。ほんとに、それが持てたら、もうだまされることはありますまい。カトーのようにおめおめ追放されることもなく、聖ステファノのように石で打たれることも、ジャンヌ・ダルクのように生きながら焼かれることもありますまい。
そういう見事な唯物論を身につけることができた人は、自分にはなんの責任もないと感じ、なんでも平気でむさぼれると思って、嬉しがるのです。地位も、閑職も、位階も、正当な権力も、不当な権力も、利欲のための変節も、有利な裏切りも、器用に良心を曲げるのも、なんでもござれです。そしてこれらを消化してしまえば、お墓に入るというわけ。これは実に楽しい!
あなたに向って言っているわけではありませんよ、議員さん。しかしあなたに祝意を表さないではいられません。あなたがたのようなお歴々は、おっしゃるとおり、あなたがたなりの哲学をお持ちです。上品で、洗練され、金持だけが手に入れることができ、人生の快楽にうまく味つけをし、どんなソースにも合う哲学です。そういう哲学は、特別の探求者によって、深いころから取出され、掘り出されたものです。しかし、あなたがたは気さくで、おおらかです。神さまの信仰が、民衆の信仰であっても悪いとは思われない。栗の入った鵞鳥の料理は,貧しい者にとっては、松露の入った七面鳥の料理みたいなものだ、といったわけですよ。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P59-60
いや~実に痛快!あまりに見事な返答です。
まず、上院議員の批判に対し怒りもせず、むしろ手を叩いて「ごもっとも!」と言ってのけるその余裕ですね。
そして「立派です、お見事です、あなたの唯物論は!誰にでも持てるというものではない。」と一見誉めているようにも聞こえる言葉ですが、「唯物論」という言葉を出すことで、「ああ、あなたも流行りの思想に乗っかっているのですね」と実はたしなめているのです。つまり、「あなたはすごい」と言っておきながら、「あなたはありふれた人間だ」と言っているのです。これは高度なぶぶ漬けですよね。
そしてそこからの言葉も強烈です。
「そういう見事な唯物論を身につけることができた人は、自分にはなんの責任もないと感じ、なんでも平気でむさぼれると思って、嬉しがるのです。地位も、閑職も、位階も、正当な権力も、不当な権力も、利欲のための変節も、有利な裏切りも、器用に良心を曲げるのも、なんでもござれです。そしてこれらを消化してしまえば、お墓に入るというわけ。これは実に楽しい!」
「あなたがたのようなお歴々は、おっしゃるとおり、あなたがたなりの哲学をお持ちです。上品で、洗練され、金持だけが手に入れることができ、人生の快楽にうまく味つけをし、どんなソースにも合う哲学です。」
これもミリエル司教は優しい口調で言ってはいますが、実に鋭い指摘です。
上院議員はキリスト教をくだらないものとレッテルを張り、そんなものは必要ないとこき下ろしましたが、それと同じ手法を用いてミリエル司教は反撃したのです。つまり、上院議員と同じように、「あなたの唯物論も大したものですね」と皮肉たっぷりに言ってのけたわけです。
さすがはユゴー。言葉の達人です。上院議員の見解は一見盤石なように見えますが、ミリエルの指摘によればこれが「持てる者の自己正当化」でしかないことが暴露されてしまうのです。
う~む、さすがです。持論を語らずして司教はこの論難を突破したのでありました。
私はこのやりとりを見てドストエフスキーを連想せずにはいれませんでした。ドストエフスキーも『カラマーゾフ』でこうした無神論的な批判を登場人物に語らせていますが、ドストエフスキーはユゴーと違ってロシア正教の救いとは何かという方向性でこの論難を超えようとしていきます。
ドストエフスキーはロシア正教を信仰していて、その中でも修道僧の存在に強く心惹かれていた作家でありました。こうしたロシア正教の救いとは何かを前提に書かれたのが『カラマーゾフ』です。
それに対しユゴーは特段キリスト教のために何かを書くという意図はありません。むしろ、キリスト教の神という特定の信仰ではなく、もっと人類愛的、普遍的、理想主義的なものを志向しています。その違いもこの場面で感じてしまいました。同じ論題でもアプローチが違うユゴーとドストエフスキー。これは私にとっても実に興味深いものがありました。
続く
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