(9)ドストエフスキー夫妻最初の滞在地ベルリンへ~初々しい2人のけんかと仲直りのエピソード
【ドイツ旅行記】(9)ドストエフスキー夫妻最初の滞在地ベルリンへ~初々しい2人のけんかと仲直り
ドストエフスキー夫妻は4月14日、ペテルブルクを出発しヨーロッパへと向かった。
そのルートはベルリン、ドレスデン、バーデン・バーデン、バーゼル、ジュネーブ、ミラノ、フィレンツェ、ボローニャ、ベネツィア、プラハ、ドレスデンというものだ(※経由地は除いた)。
出発当初は3カ月ほどの予定だった彼らの旅はなんと4年にも及んだ。彼らは帰ろうにも帰れなくなってしまい、ヨーロッパを放浪せねばならなくなったのである。その顛末はこれからじっくりと見ていくことにして、まずは最初の滞在地ベルリンに到着したアンナ夫人の言葉を聞いていこう。
ちなみに、ここからアンナ夫人はドストエフスキーのことをフェージャと呼ぶようになっている。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーが彼の正式な名だ。その愛称としてフェージャと彼女は呼んでいる。ちなみにアンナ夫人のことをドストエフスキーはよくアーニャと読んでいる。この旅が始まるにあたり2人の関係性がぐっと親密になったことがうかがえるのではないだろうか。
今日(四月十八日)は小雨、だが一日中やみそうにない。べルリンの人たちは窓をあけはなっている。わたしたちの部屋の窓の下にも菩提樹の花がまっさかりだ。
雨はあいかわらず降っているが、わたしたちは市内見物に出かけることにした。
ウンター・デン・リンデンに出て、宮殿、建築アカデミー、兵器博物館、オペラハウス、大学、ルートヴィヒ教会を見物した。
みちみち、フェージャは、わたしが冬のかっこう(白い毛の帽子)で、みっともない手袋をしていると言った。わたしはひどい侮辱を感じて、みっともないかっこうをしていると思うのなら、いっしょに歩かなければいいわ、と言うなり、すたすたと引っかえしてきた。フェージャはニ、三度呼びとめ、追ってこようとしたが、思いなおしたように元来た道を行ってしまった。彼の言い方がひどく失礼なような気がして、わたしはすっかり腹を立ててしまった。
いくつもの通りを駆けださんばかりに過ぎて、気がつくとブランデンブルク門のそばまで来ていた。まだ小止みなく降っていた。若い女が傘もささず濡れるにまかせて歩いているので、ドイツ人たちはびっくりして見ていた。だが少しずつ落ちついてくるにつれて、フェージャは侮辱するつもりなどちっともなかったのに、自分が勝手に腹を立てたのだと気がついた。喧嘩したことがひどく不安になってきて、どうしていいかわからなくなった。
フェージャはもうホテルにもどっているかもしれない、仲なおりしよう、そう考えてできるだけ早く帰ることにした。だがホテルに帰ってみて、フェージャは一度もどってきたが、しばらく部屋にいて、すぐまた出ていったらしいのがわかったときには、どんなに悲しく思ったことだろう。
ああ、わたしはさまざまに想像して悩むだけだった。愛想をつかされてしまったのだ、わたしがこんなにおろかで、わがままなのを見て、夫は自分があわれになり、きっとシュプレー川に身を投げたにちがいないなどと思った。そしてまた、わたしと離婚し、別の旅券を出してもらってロシアへ送りかえすつもりで大使館に行ったのだろうなどとも考えた。
フェージャがトランクをあけた(前とちがったところにあったし、ベルトもはずれていたから)のに気づいた時、いっそう確かだと思えてきた。フェージャは大使館に行くために書類を取り出したのにちがいない。こんなふうにさまざまに悪いほうに思いをめぐらしはじめるとたまらなくなって声をあげて泣き出したが、わたしは自分のわがままとおろかさが悔まれてならなかった。フョードル・ミハイロヴィチに捨てられたとしても、自分は決してロシアには帰るまい、永久に自分の痛手を嘆きながら暮らすために、どこか外国の片田舎に身をかくそうと心に誓った。
こんなぐあいにして二時間がすぎた。そしてひっきりなしに立ちあがっては、フェージャが見えないかと窓べに寄って外を見た。とうとう絶望の極に達したときに、窓の外にフェージャの姿を見つけた。彼は両手をオーバーのポケットにつっこんでまるで何ごともなかったかのように通りを歩いていた。部屋にはいってきたとき、どれほどうれしかったことだろう。声をあげて泣きながら、わたしはその頸にすがりついた。涙にぬれたわたしの顔を見て彼はひどくおどろいて、どうしたのかとたずねた。心配したことを話すと、彼は笑いだして、「シュプレー川のようなちっぽけな見ばえのしない川に身を投げて死ぬなんて、すこしでも自尊心があればできはしないよ」と言った。
一度帰ってきてトランクをあけたのは、わたしのオーバーを注文しようとして金を取り出すためだった。こうして何もかもわかって仲なおりしたので、わたしはこの上なく幸せだった。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P159-160
私はここを読んで正直安心した。アンナ夫人の子供っぽい一面がこの初々しいけんかのシーンで垣間見える。前回の記事で紹介したアンナ夫人はあまりにもしっかりしすぎていたが、やはり彼女もまだ20歳。こういう一面もあるのである。
だが、アンナ夫人の心配も全く根拠のないものではなかった。実はまだこの頃、ドストエフスキーはこの25歳も年下の若い娘との結婚生活がはたして本当に上手くいくのだろうかという不安を抱えていたのである。まあ、不安を抱えない方が不思議だと言われればそれまでなのだが、この後あんなに深く結びついた2人も最初から何もかもうまくいっていたわけではないのである。
こちらがベルリンの大通りウンター・デン・リンデンから見たブランデンブルク門。アンナ夫人は雨に濡れながらこの辺りまで歩いてきたのだろうか。
ブランデンブルク門を背にウンター・デン・リンデンを歩く。見ての通り中央に公園のような遊歩道がありその両側には車道が走っている。
こちらはツルゲーネフやマルクス、キルケゴール、バクーニンら錚々たる人物が通ったベルリン・フンボルト大学だ。
しかも恐ろしいことに彼らは皆ほとんど同じタイミングでこの大学にいたのである。ちなみにマルクスとツルゲーネフは同い年。キルケゴールとバクーニンは同じ教室で学んでいて、そこにエンゲルスももぐりで参加していた。歴史に名を残す巨大な人物を一挙に輩出したこの大学には驚くしかない。
興味のある方はぜひ以下の記事「(9)エンゲルス、兵役志願を利用しベルリン大学へ~ヘーゲル研究とバクーニン、キルケゴールとの出会い」をご参照頂きたい。この大学の凄まじさを感じて頂けると思う。
さて、ドストエフスキー夫妻はベルリンに2日ほど滞在し、ほどなく次の街へ出発した。彼らが目指したのはこの街の南に位置する古都ドレスデンだった。そこは古くからヨーロッパ中の旅行者が集う保養地として有名で、ロシア人も多くここに来ていたのである。
4年間の海外放浪中で最も長い時間を過ごしたのもこのドレスデンだ。
次の記事ではそんなドレスデンにおけるドストエフスキー夫妻の様子を見ていくことにしよう。
続く
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