(6)ドストエフスキーが生涯苦しんだ持病てんかんの発作を目の当たりにするアンナ夫人
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(6)ドストエフスキーが生涯苦しんだ持病てんかんの発作を目の当たりにするアンナ夫人
前回の記事「(5)結婚初期のドストエフスキーの危機的な経済状況~なぜ彼はいつまでも貧乏なままだったのか」ではドストエフスキーの経済状況についてお話ししたが、ドストエフスキーの抱えていた問題は借金だけではなかった。
彼はてんかんを患っており、月に何度も大きな発作に襲われることもあった。
結婚式を終えたドストエフスキー夫妻は親類やドストエフスキーの知人たちへの挨拶回りで忙しい日々を過ごしていた。そしてこの時に飲んだアルコールの影響でそれは誘発されることになった。では、アンナ夫人の言葉を見ていこう。
大斎までは、なんとなく楽しい混乱のうちにあけくれた。わたしの親戚や夫の知人への「挨拶まわり」がつづいたから。親類の人たちは、食事や夜のつどいに招いてくれ、わたしたちはいたるところで、「新酒」のシャンパンで祝福された。
当時はこういう習慣で、この十日間に飲んだシャンパンの量は、その後の全期間に飲んだ量を合わせても及ばないくらいだ。けれども、このお祝いは、悲しい結末となって、結婚生活に最初の大きな苦痛をもたらすことになった。彼が一日に二度までも、てんかんの発作を起こしたからだ。しかも驚いたことに、たいていいつも起こすように、夜眠っているときでなく、白昼、正気のときのことだった。
聖週間の最後の日、わたしたちは親類の家に呼ばれ、姉の家にまわって夕べをすごしていた。夕食はとても愉快で(いつものとおりシャンパンが出た)、客が帰って身内のものだけになった。
フョードル・ミハイロヴィチは殊のほか元気で、姉とたのしそうに何か話していた。すると突然、何か言いかけて、まっ青になったかと思うと、ソファから体を浮かすようにしてわたしのほうにもたれてきた。すっかり変ってしまったその顔つきを見てわたしはぎょっとした。急に、おそろしい、人間のものとも思われぬ叫びが、というよりは悲鳴がひびきわたって、彼は前にたおれはじめた。同時に、夫とならんで掛けていた姉が金切声をあげ、椅子からとびあがると、ヒステリックに泣きわめきながら部屋を駆けだして行った。義兄もそのあとを追って飛びだした。
てんかんの発作の初期にはつきもののこの「人間のものとも思われぬ」悲鳴を、その後、わたしは何十ぺんも耳にすることになった。そしてそのつど、心の底からゆすぶられ、おどろかされたものだ。
だが、われながら意外だったのは、てんかんの発作をみるのははじめてだったのに、この瞬間すこしも驚かなかったことだった。
わたしは彼の肩を抱きかかえ、カをこめて長椅子に掛けさせた。だが無感覚になった体は長椅子からずりおちて、わたしの力ではどうしようもなかった。それを見たとき、どんなに驚いたことだろう。わたしは灯のともっているランプを置いた椅子を押しやって、ようやく彼を床におろし、自分もすわりこんで、けいれんのつづくあいだ自分の膝の上に頭をのせてやっていた。だれも助けにくるものはなかった。姉がヒステリーをおこしたので、義兄も女中も、つきっきりで介抱していたからだ。
少しずつ、けいれんがおさまると、彼は意識をとりもどしはじめた。だが、はじめのうち、自分がどこにいるかもわからず、口もきけなかった。たえず何か言おうとしたが、ろれつがまわらず、何を言っているのか聞きとれなかった。
半時間ほどもしてから、わたしたちはやっと彼を起こして、長椅子に横にさせることができた。そして家に帰れるようになるまで、もう少し休ませることにした。それにしても、なんというひどい悲しみだったことだろう!発作が最初のから一時間たってぶりかえしたのだ。今度はもっと強く、二時間以上もたって、意識をとりもどしてからも彼は苦痛に声をあげて叫ぶのだった。
なんと恐ろしい光景だったろう!その後も彼は、二度つづく発作をたまに起こした。医者が言うのには、この時の発作は、挨拶まわりや招待宴ですすめられたシャンパンで興奮しすぎたためだった。酒は特に体にさわったので、けっして飲まないようにしていたのだが。
ひどく弱ってもいるし、あらたな発作も恐ろしかったので、とうとうそのまま泊ることになった。どんなに恐ろしい夜をわたしはすごしたことだろう!このときはじめてわたしは、夫がどれほどみじめな病気に苦しめられているかを納得したのだった。
わたしは、何時間も絶え間なくつづく叫び声とうめき声を聞き、苦痛にゆがんで不断とはすっかり変ってしまった顔を見た。狂ったように動かない目と、なにを言っているのかわからぬ支離滅裂な言葉に、最愛の夫は気が違ってしまったと半ば信じて、恐怖のどん底におちたくらいだった。
だが、さいわい、彼は、何時聞かぐっすり眠って、ようやく帰ることができるほどに回復した。だがその後、発作にはつきものの虚脱感と圧迫感が一週間以上もつづいた。「この世で一番親しい人をなくしたような、だれかの葬式をしたような気分だ」―彼は、発作のあとの状態をこう説明した。この夜の二度ひきつづいて起こった発作は、いつまでもわたしの記憶に重苦しく残った。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P115-117
このドストエフスキーのてんかんは彼の代表作『白痴』の主人公ムイシュキン侯爵や『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフを通して描かれている。特に『白痴』はアンナ夫人とのヨーロッパ旅行中に執筆されたものであることも意味深い。ドストエフスキーは常にてんかんの発作に怯えて生きていかなければならなかったのである。後に話すことになるが彼は「死の恐怖」を強く抱えていたのだった。
そして彼のてんかんは発作の苦しみだけではなく、その後一週間以上も続くうつ状態ももたらした。気分も変わりやすくなり、癇癪も起きやすくなる。記憶力もあやふやになり、人の名前や顔すら忘れてしまう。
このような状態の彼に会った人が「ドストエフスキーという男はなんて嫌な人間なんだ」と思っても仕方がない。ドストエフスキーが「陰気で気難しい男」と非難されるのはこうした背景もあったのだ。もちろんドストエフスキー生来の性格もたしかに不器用で神経質で癇癪持ちではある。だが誰それ構わずそれをぶつけるほど無神経な人間ではない。
「性格のねじれた嫌な男ドストエフスキー」もたしかに彼の一面であったかもしれない。だがこれからアンナ夫人との旅を通して見ていくドストエフスキーも間違いなく彼の一面なのだ。陽気に冗談を言い、妻や子にデレデレのパパでもあったのである。きっとその姿に皆さんも驚くことになるだろう。
続く
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