ソ連を代表する作家ゴーリキーによるドストエフスキー批判

レーニン・スターリン時代のソ連の歴史

ゴーリキーによるドストエフスキーへの評価

マクシム・ゴーリキー(1868-1936)Wikipediaより

前回の記事「『スターリン伝』から見たゴーリキー~ソ連のプロパガンダ作家としてのゴーリキー」でお話ししましたように、ゴーリキーはソ連を代表する作家であり、スターリン政権下ではソ連のプロパガンダの宣伝にも大きな役割を果たしました。

そのゴーリキーがドストエフスキーのことをどう言うのか。

これはすなわちソ連がドストエフスキーをどう見るかということにもつながっていきます。

というわけで、佐藤清郎氏の『ゴーリキーの生涯』の中にゴーリキーがドストエフスキーに言及している箇所がありましたのでそちらを見ていきたいと思います。

「私の個人的生活については、私は何ぴとにも口をはさませなかったし、はさませる気はない。おれは―おれだ。もしおれのどこかが痛んだとしたところで、その痛みは何ぴとにも関係はない。これまで多くの者がしてきたように、そして誰よりもいとわしく、わが意地のわるい天才フョードル・ドストエフスキーがしたように、自分の掻き傷を世間に披露し、人前でそれを掻いて膿を出して、人々の前で胆汁を飛ばすなどは、いとわしいことだし、有害なことさ。言うまでもないことだ!われわれはみんな死ぬ。世界は、生き残る。世界は私に多くの悪いことや汚れたものを見せてきたし、押しつけてきた。だが、私はその醜悪を欲しないし、受け取らない。私は世界からいいものを受け取ってきたし、いまも受け取っている。私は世界に復讐する必要はない。私の傷や潰瘍で、恥かしい形で人々にいやな思いをさせたり、金切り声をあげて人の耳を聾させる必要はないのだ。」

筑摩書房、佐藤清郎『ゴーリキーの生涯』P383

これは文通相手のアンドレーエフに送った手紙の文面です。ゴーリキーがドストエフスキーを毛嫌いしている様子がいかにも伝わってきます。

ここで参考にスターリンの考える社会主義文学の定義を見ていきます。ゴーリキーも基本的にはこの立場を取ることになります。

スターリンは、人々に不吉な予感な与えるような雰囲気で真珠入りの柄のぺーパーナイフをもてあそんでいたが、突然「厳格な」顔つきになり、「鉄の響き」を込めた声で話し始めた。

「芸術家は生活の真の姿を描かなければならない。そして、生活の真の姿を描こうとすれば、生活が社会主義に向かう様子を描かざるな得ない。これが現在の社会主義リアリズムであり、それは将来も変わらない」。

つまり、作家が書くべきことは、ありのままの生活ではなく、あるべき生活の姿、ユートピア的未来への賛歌でなければならなかったのである。
※一部改行しました

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフォーリ、染谷徹訳『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち〈上〉』P186

後半に述べられる、

『「生活の真の姿を描こうとすれば、生活が社会主義に向かう様子を描かざるな得ない。これが現在の社会主義リアリズムであり、それは将来も変わらない」。

つまり、作家が書くべきことは、ありのままの生活ではなく、あるべき生活の姿、ユートピア的未来への賛歌でなければならなかったのである。』

という部分がソ連における社会主義リアリズム文学の特徴ということになります。やはりソ連のイデオロギーを礼讃する文学というのがこの時代の主流ということになりそうです。

そしてソ連のイデオロギー宣伝として利用された文学作品についてTwitterで興味深い記事がありましたので興味のある方は以下をぜひご覧ください。ソ連における文学観がわかりやすく解説されています。

こうしたイデオロギーの下、文学作品も統制されますのでドストエフスキー作品もその影響を受けます。

上のページには次のように述べられていました。

 ソ連の文化機関は、完全に国家に従属していた。いかなる映画、本、音楽作品が日の目を見るべきか否か(そして公式に出版、リリースされるべきか否か)を決めたのは国家だった。作家は、ソ連国民に正しい価値観――つまり、労働と祖国への愛、ヒロイズム、自己犠牲、平等――を植え付ける義務があると信じられていた。だから、これらの黙契に従った作家は特に高く評価され、大部数で出版された。

https://jp.rbth.com/arts/83341-soren-propaganda-riyo-sareta-bungaku-sakuhinより

いかがでしょうか。こういう作品が理想だとしたらゴーリキーがドストエフスキーを毛嫌いするのもわかるような気がします。

ドストエフスキーは人間の奥底にある混沌に飛び込み、どろどろした予測不能な人間世界を描きだしました。それらは明らかに「労働と祖国への愛、ヒロイズム、自己犠牲、平等」などとは無縁の世界です。ドストエフスキーを読んで「理想的なソビエト人」を生み出すのはほとんど不可能なのではないでしょうか。真っ青な顔をして絶望している『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフはやはりこうした理想像とは違います。

その時の社会が求める理想像によって作品の評価がまったく変わってくるというのもゴーリキーやソ連を知ることで特に感じられました。これは非常に興味深かったです。

以上、「ソ連を代表する作家ゴーリキーによるドストエフスキー批判」でした。

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