チェーホフ『桜の園』あらすじと感想~チェーホフ最晩年の名作劇!桜の木、無常、移ろいゆく時代・・・
チェーホフ『桜の園』あらすじ解説―チェーホフ最晩年の名作劇
チェーホフ(1860-1904)Wikipediaより
『桜の園』は1904年に上演されたチェーホフ最晩年の劇です。
私が読んだのは新潮社、神西清訳『桜の園・三人姉妹』所収の『桜の園』です。
早速この作品について巻末解説を見ていきます。
『桜の園』は、一九〇二年、チェーホフ四十二歳の夏に着想され、翌一九〇三年の秋に書きあげられた。モスクワ芸術座が上演したのは、チェーホフ四十四回目の誕生日であった。この日はまた、チェーホフ筆歴二十五年の祝賀が兼ねられていたが、その頃すでに病み衰えていたチェーホフは、晴れがましい劇場の舞台の上に立ちつづけることさえできなかったという。
チェーホフが死んだのは、その五カ月後である。
新潮社、神西清訳『桜の園・三人姉妹』P251-252
ここにありますようにこの作品はチェーホフ最晩年の作品となります。チェーホフはこの作品の発表後間もなく亡くなりました。
続いてこの作品のあらすじを見ていきましょう。
急変してゆく現実を理解せず華やかな昔の夢におぼれたため、先祖代々の土地を手放さざるを得なくなった、夕映えのごとく消えゆく貴族階級の哀愁を描いて、演劇における新生面の頂点を示す『桜の園』
新潮社、神西清訳『桜の園・三人姉妹』裏表紙
五月の朝はやく、桜の花が満開の領地に、ラネーフスカヤ夫人の一家が五年ぶりにパリから戻ってくる。彼らを迎える夫人の兄のガーエフ、近隣の地主、おおぜいの召使いたち。桜の園は三カ月後に競売にかけられようとしている。古めかしい地主生活は、それでも落ちぶれた姿ではない。しかし内実はすっからかんだ。ばらばらな思いに生きる人間模様。
第二幕では、ガーエフ=ラネーフスカヤ家はいよいよ破産しかけている。みんながそれを知ってはいても、どこ吹く風といった顔つきをしている。浪費と饒乱のうちにすぎて行くうつけた時間、商人ロパーヒンの言う「おめでたい、きてれつな人間たち」。万年大学生トロフィーモフとラネーフスカヤの娘のアーニャの恋―夢想のような。
第三幕、いよいよ桜の園の競売される日。破局の到来に気がつかぬかのように開かれている舞踏会、はかない歓楽。桜の園を競売で手に入れた、むかしの農奴の子、商人ロパーヒンの歓喜のあまりの長ぜりふ。ラネーフスカヤは身をすぼめて、はげしく泣く。
第四幕、ラネーフスカヤが領地を引きはらい、ヤロスラーヴリのおばさんから送ってもらった金をあてにしてパリへ発つ日。一家の人びとはちりぢりに散って行く。桜の園の終焉。
筑摩書房、松下裕『チェーホフの光と影』P169
※一部改行しました
ラネーフスカヤ家は昔ながらの地主貴族。その領地がタイトルにもある桜の園です。美しい桜並木のあるこの領地はラネーフスカヤ家にとってはお金に換算できないほど大切にしていたものでした。
しかし彼らは時代の変化についていけません。
資本主義的な価値観がロシア社会を覆い始め、地主貴族は没落の一途をたどります。昔ながらの土地所有だけで生活をまかなえた時代はすでに息絶えつつありました。これからの時代は商業、ビジネスの時代です。
しかし古い価値観にどっぷり浸かった彼らにはその変化がどうしても理解できません。その結果有利な条件で桜の園を買ってあげましょうと提案してくれた農奴上がりの商人の忠告も聞かず、結局領地は競売にかけられすべてを失ってしまうことになってしまうのです。
時代に合った現実的な商人ロパーヒンと、昔ながらの考え方をどうしても捨てられないラネーフスカヤ家のちぐはぐなすれ違い、そして大切な桜の園が時代の変化に飲み込まれ失われてしまう哀愁がこの作品では描かれています。
再び巻末解説を見ていきます。
『桜の園』は、四大劇の最後の戯曲であり、チェーホフの文字どおり最後の作品であるが、この戯曲の世界が同様に悲劇、喜劇の両要素から成り立っていることは、もはや改めて言うまでもあるまい。
チェーホフがこの戯曲を喜劇と呼んで、芸術座の人びとを驚かせた話は有名であるが、問題はこの戯曲のなかに仕込まれた二つのテーマ、すなわち過去との訣別と、未来への出発と、そのいずれを取るかにあると言えるだろう。
過去との訣別は人間の生活感情のなかではつねに悲しく、未来への出発はつねに夢に満ちている。そうして過去と未来にはさまれた現在は、晩年のチェーホフの目には粗暴なざらざらした俗悪な姿として映っている。
この戯曲のなかでは、過去をあらわす人物がラネーフスカヤ夫人とその兄ガーエフであり、現在は農奴の息子だった商人ロパーヒンによって、未来はラネーフスカヤ夫人の娘アーニャと大学生トロフィーモフによって表現されている。
新潮社、神西清訳『桜の園・三人姉妹』P249-250
※一部改行しました
個人的な感想ですが『桜の園』は四大劇の中では一番読みやすく、印象に残った作品でした。
時代に取り残されていくのんきな田舎貴族と、現実的な商人ロパーヒンの対比はチェーホフの力量がまさに遺憾なく発揮されています。
何となくもの悲しい雰囲気がありつつも確かにどこか滑稽さを感じさせる両者のやりとりがそこにあります。
本を読んでいても独特な間と余韻が感じられます。もしこれを劇で観れたとしたらどれほどのインパクトを受けるだろうかと思ってしまいました。
最後にチェーホフ研究者佐藤清郎氏による『桜の園』の解説を見ていきたいと思います。少し長くなりますがチェーホフ劇の集大成であるこの作品を知る上で非常に重要なポイントになりますので引用していきます。
ブーニンは、『桜の園』の主人公は、「時」だと言った。実際、桜の園の運命を決めたものは「時」であり、その「時」の受取り方と登場人物の性格はきつく結びついている。
古代ロシヤでは、一年を「夏」(しめりの季節)と「冬」(雪の季節)に分けていたが、いまも「夏」の複数生格レートで「年」を表わしている。一年の収穫が夏のあいだに行なわれるからである。
その大切な夏を『桜の園』はフルに使っている。白い桜の花の咲く五月の、ある朝に始まって、空気のひんやりし始める十月の、ある朝で終る。例によってチェーホフは、この劇もラネーフスカヤの到着で始め出発で終えている。まことにすっきりした枠組である。
人の世の営みの断片がこの枠組のなかで拡大され、転換期ロシヤにおける田舎の地主屋敷での劇が、どこにでも起りうる人間一般の劇となって追ってくる。
およそチェーホフ劇を論ずる者で、この到着と出発に着目しない者はいないと言っていいだろう。(中略)
小説『百姓』も、明瞭に到着で始まり出発で終っており、『決闘』『すぐり』『恋愛について』『中二階のある家』等にも、われわれはその応用を見る。
特に劇作に心を向ける直前の、いわゆる三部作(『すぐり』『恋愛について』『箱に入った男』)の冒頭と結末の物静かなナレーション、あの枠組の見事さは、劇作の上にも影響を持っていないはずはない。
あの枠組はちょうど絵の額縁と同じ働きをしている。およそ劇とは、一つの均衡から始まり、何らかの障害にぶつかり、その障害を越えて他の均衡に至りつく構造を基本的に持つものなら、ある意味で(内容のうえから言えば)、すべての劇は到着で始まりで出発で終ると言えるかもしれない。
チェーホフが深い影響を受けたツルゲーネフも、『父と子』や『貴族の巣』等ですでにこの手法を巧みに用いている。
筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ劇の世界』P145
※一部改行しました
冒頭に出てくるブーニンとは、チェーホフを深く敬愛したロシア人初のノーベル文学賞作家です。そのブーニンがこの作品の主人公は「時」であると述べるのでした。
そしてチェーホフ劇で注目すべきは到着から始まり出発で終えるという枠組みであると佐藤氏は述べます。
たしかに『かもめ』も『ワーニャ伯父さん』も『三人姉妹』も誰かがやって来てそして去って行くという構図を取っています。
そしてそれは彼の小説作品ですでに用いられていた構図でした。『箱にはいった男』『すぐり』『恋について』の短編三部作は当ブログでも紹介しました。
たしかにこれら三部作も同じような構図の下描かれていることがわかります。
そしてまた興味深かったのがチェーホフはツルゲーネフの影響も強く受けていたということでした。特にこの作品においてはツルゲーネフの代表作と言える『父と子』と『貴族の巣』が大きな役割を果たしているということがわかり驚きました。
では引き続き解説を聞いていきましょう。
非情な、「時」の動きのなかで、『桜の園』の人物たちは自分の生き方と運命を、桜の園の運命とともに決めていく。初め自分たちの身の振り方と結びつく桜の園の運命を気づかう人たちが集まり、その運命の決定のあと、容赦なく伐り倒していく斧の響きのなかを、散りぢりに去っていく。(中略)
非情な「時」のまえに、古くさい貴族的理想主義やラネーフスカヤの非現実的なはかない願いはまったく力を持たず、実際家ロパーヒンの現実的な献策も実を結ばない。
むなしい願いをねがい、非力な抵抗(もしその愚行が抵抗と言えるなら)を試みる。そして、零落の坂をまっしぐらに落ちていくのである。
人は所詮、置かれた境遇のなかで、おのおの個性と人生観にしばられて生きていくほかはないのである。チェーホフはもちろん、願望のみがあって行動の伴わない、運命のまにまに生きているガーエフやラネーフスカヤよりも、いくらか滑稽味はあっても、あくまでアクチヴに現在を生きるロパーヒンや、未知数でも、いやそれだからこそ可能性を持つアーニャやトロフィーモフに好意的であったことは否みようもない(このことは書簡その他で容易に傍証できる)
桜の国の女主人が疲れきってパリから帰ってくる場から桜の木を伐り倒す斧の音で終るまで、この劇の基底では二つの旋律が鳴りつづけている。滑稽と哀感のそれだ。
およそ美しいものの「滅び」が哀しくないはずはない。たとえその美が農奴たちの犠牲のうえに作られたものだとしてもである。この劇には、疑いもなく桜の園葬送の調べが嫋々と鳴り響いている。持ち主への批判と笑いがあったとしても。
初め、その挽歌の調べに心打たれて、スタニスラフスキーが思わず泣いたというのも無理のない面があるのだ。たとえ作者自身は笑いながら過去と別れようとしていたとしても。およそ物哀しきの伴わない挽歌はない。
思い出ときつく結びついたものとの別れは哀しいものだ。この世の変転に何かしらの感慨を覚えず、終始、笑いながらこの劇を観つづける者がいたとしたら(その逆の場合と同様に)、チェーホフはその者のまえを、無視するように、振り向きもせずに行き過ぎてしまうだろう。
筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ劇の世界』P145
※一部改行しました
先ほども私はこの作品には物悲しい雰囲気と余韻があるとお話ししました。
その物悲しさと余韻の正体はここにありました。
愛着のある桜の木たちが無慈悲にも切り倒されていくのが斧の音から想像させられます。
日本人の私たちにとって桜の木には特別な意味があります。私たちは桜の花が散る様に「あぁ・・・」という何とも言えぬ無常観、物悲しさを感じます。その感覚がある私たちであるからこそ、この桜の木の伐採を知らせる斧の音が、人生の様々な場面とリンクし、私たちを感動させるのではないかと思ってしまいました。
ロシア人、いや世界中の人にこの作品は愛されていますが、きっと日本人は特にこの作品に愛着が湧くのではないかと感じました。少なくとも、私は四大劇の中ではこの作品が一番好きです。
チェーホフの四大劇をこれまで見てきましたが、どれも実際に劇で観てみたいなと思う作品でした。その中でも『桜の園』は特にそれを感じられる作品でした。機会があればぜひチェーホフ劇を観てみたいなと思います。
以上、「チェーホフ『桜の園』あらすじ解説―チェーホフ最晩年の名作劇」でした。
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