目次
マルクス主義者ではない私がなぜマルクスを学ぶのか~宗教的現象としてのマルクスを考える
これまで当ブログでは「親鸞とドストエフスキー」をテーマに更新を続けてきました。
そしてドストエフスキーをもっと知るために同時代のヨーロッパだけではなく、ドストエフスキー亡き後のロシアについても私は学ぶことになりました。
ドストエフスキーは『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官の章」で来るべき全体主義の悲惨な世界を予言していました。
そして驚くべきことに、『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』で説かれていたことが彼亡き後のロシアで現実になったのです。ドストエフスキーがいかに人間のあり様を見通していたかがわかります。
ドストエフスキーが彼の作品の中で警告していた事態が現実になってしまった。
トルストイも作品を通して「非暴力」を訴えていましたが結局ロシアは暴力の時代へと突き進んでいくことになります。
文学は圧倒的な権力の前では無力なのか。思想は銃の前では無意味なのか。
私はやはりソ連の歴史も学ばねばならない。ここを素通りすることはできないと感じました。
そうしてソ連史や独ソ戦、ホロコースト、冷戦史などを学んだのが去年のことでありました。
ですが正直、当初はマルクスを学ぶつもりはありませんでした。
まず、あまりに難しい。そして巨大すぎる・・・!
マルクスと闘おうとするとどれだけ時間がかかるだろうか。彼の著作そのものも膨大ですが、それに関連する思想や歴史も膨大です。一体どれだけの本を読まなければならないのか、考えるだけでぞっとします。また、イデオロギー上の対立などもありデリケートな問題もあります。
という訳で私はマルクスを敬遠していたのですが、昨年の読書を通してやはり私はマルクスを避けてはいられないような気がしてきました。
私はマルクス主義者ではありませんが、マルクスと向き合うことで見えてくるものが必ずある。今はそう思っています。
マルクスは宗教を批判しました。無神論的な場では必ずと言っていいほどマルクスが引き合いに出されます。
宗教を批判するマルクスの言葉に1人の宗教者として私は何と答えるのか。
これは私にとって大きな課題です。壁と言ってもいいでしょう。とにかく巨大な壁です。
私は昨年の夏頃よりマルクス関連の本を読み始めています。
そして彼の生涯や思想を知るうちに、私はある仮説を立て始めました。
それは、マルクスの思想やその影響力は「宗教的な現象」なのではないかということです。
ここで重要なのは「宗教現象」ではなく、あくまで「宗教的な現象」ということです。
「~~的」というのは「~~のような」という意味です。
「マルクスは宗教である」と言ってしまうと、「ではそもそも宗教とは何なのか」という議論が必要になってきます。これは完全に行き詰りコースまっしぐらです。マルクスが宗教だとしたら、キリスト教や仏教とは何が違うのかという問題やそもそも神をどう捉えるかなど神学的な問題も出てきます。ただでさえ議論が難しいマルクスに、さらに解決困難な問題を付け加えるのは危険すぎます。
そうではなく、あくまで世にある宗教現象と共通点が多いという点からマルクスを見ていきたいと私は考えています。私個人としても「マルクスは宗教そのものである」とは考えていませんし、あくまで「マルクスは宗教的な現象」だと見ています。
マルクスは宗教を批判しましたが、その実態は非常に宗教と近いものがあるというのが私の仮説です。
マルクス主義を信望したソ連は徹底的に宗教を弾圧しましたが、それは既存の宗教を排して自らが唯一の宗教たらんとしていたことを示していたのではないでしょうか。
マルクス思想はキリスト教的世界観を失ったヨーロッパ人に壮大な物語を提供しました。
宗教は、「私たちがどこから来て、なぜ生きて、どこへ行くのか」という過去現在未来を語ります。
そして宗教の最も重要な物語のひとつは、
「私たちはなぜこんなにも苦しまなければならないのか、この苦しみに何の意味があるのか。」
というものです。
マルクスはまさに労働者がなぜこんなにも悲惨なのかを説きました。そしてそれは資本家という搾取者がいるからであり、産業発展の歴史を経て悲惨な現在があると述べ、今度は労働者が主役となって未来を変革していくのだという物語を提供しました。
マルクス思想はまさしく過去現在未来を語り、今を生きる人間に人生の意味を与え、それこそ人生を変えてしまうほどの影響を与えることになりました。
次の記事では「そもそもマルクスとは何か」ということを解説書を参考にお話ししていきますが、その後に改めて「マルクス主義は宗教的現象である」ということについて著名な歴史家の見解を見ていきたいと思います。
私はマルクス主義者ではありません。
ですが、だからと言ってマルクスを全否定するつもりもありません。
マルクスは19世紀ヨーロッパに生きた巨大な思想家です。彼ほど後の世界に影響を与えた人間は歴史上ほとんど存在しません。
世界中の人をこれだけ動かす魔力がマルクスにはあった。それは事実だと思います。
ではその魔力の源泉は何なのか。
なぜマルクス思想はこんなにも多くの人を惹きつけたのか。
マルクス思想はいかにして出来上がっていったのか。
そもそもマルクスとは何者なのか、どんな時代背景の下彼は生きていたのか。
そうしたことを学ぶことは宗教をもっと知ること、いや、人間そのものを知る大きな手掛かりになると私は思います。
これから先どれだけかかるかわかりませんが、マルクスについてじっくりとブログを更新していきます。
浄土真宗の開祖親鸞聖人を学ぶためにドストエフスキーを読み始めた私でしたが、随分と予想外の道のりになってしまいました。
ですが現代においても、いや米ソ冷戦というイデオロギー対立がなくなった今だからこそマルクスを学ぶ意味はきっと大きなものがあると思います。
ぜひ引き続き当ブログにお付き合い頂けたらなと思います。
以上、「マルクス主義者ではない私がなぜマルクスを学ぶのか~宗教的現象としてのマルクスを考える」でした。
次の記事はこちら
関連記事
コメント
コメント一覧 (2件)
北斗市在住の60代の男です。道新の旅行記を拝読し以前からお名前は存じ上げておりました。先日、ドストエフスキーの「作家の日記」の検索中、偶然こちらのブログに遭遇して以来、時々拝見しております。私自身は学生時代に出会った「資本論」と「存在と時間」に今なお関心を持ち続けていますが、僧侶の貴方様がマルクスを取り上げておられるのに驚き、また敬服いたしました。
ロシア批判一色に染まる中、今回のウクライナ問題についてのご見解には深く共感いたしました。恥ずかしながら私もウクライナ方面には無知で、この戦争を機にソ連崩壊後の歴史を調べてみました。EU、NATOの東方拡大、グルジア、キルギス、ウクライナ、あるいはセルビアの民主革命(カラー革命)、さらには2014年以降のウクライナ情勢を見るにつけ、今回の侵攻に至った経緯や動機もそれなりに「理解」できる気がいたします。ドイツでは、このように考える人は「プーチン理解者」と揶揄されるそうですが。
資本主義対社会主義というかつての東西冷戦はまがりなりにも平和共存が可能な時代でした。しかし、今日の民主主義対専制主義は文字通り共存不可能な対立でしょう。フランシス・フクヤマの言う「歴史の終わり」すなわち民主主義が全世界を覆いつくすまで戦い続けるしかないのです。現在のウクライナ戦争もそうした歴史の一齣のように思われます。
金木さん
はじめまして。コメントありがとうございます。
道新さんの記事も見て頂きありがとうございます。嬉しいです。
今回のウクライナ問題は私も本当にショックを受けました・・・
私も最近は本を読めば読むほど自分が何もわかっていなかったということを突きつけられる毎日です。歴史を学ぶということは今を学ぶことだということを痛感します。本当に難しいですよね・・・
今後のウクライナ情勢が少しでもよい方向に向かってくれることを祈るのみです。
今後ともよろしくお願いします。