末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』あらすじと感想~コロナ禍の今、死とどう向き合うか
コロナ禍の今、死とどう向き合うか~末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』概要と感想
今回ご紹介するのは2021年8月20日に岩波書店より発行された末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』です。
早速この本について見ていきましょう。
原発事故とコロナ禍は、否応なく見えざるものの力を思い知らしめた。見えざるものである死者たちと私たちの関係にも、いま新たな変化が生じている。末木文美士、中島隆博、若松英輔、安藤礼二、中島岳志、眼に見えない領域をめぐって独自の思索を続けてきた五名が、死者と霊性をキーワードに、来るべき時代について討議する。
Amazon商品紹介ページより
この本は仏教学者末木文美士、東洋哲学学者中島隆博、批評家、随筆家若松英輔、文芸評論家安藤礼二、政治学者中島岳志の5人の座談、そしてそれぞれの立場からの文章が収録されています。
この本についてまえがきにあたる箇所に末木文美士氏による《提言》があり、これがものすごく心に刺さったので引用していきます。すべて引用したいところですがかなり長くなってしまうので要点だけ抜粋していきます。
近代とはどのように定義できるであろうか。ごく簡単に言えば、人類は合理的思考によって進歩し、それによって万人の幸福度が増加する方向へ向かうという楽観論が共通の前提となっていた時代ということであろう。合理的思考というのは、一つは科学技術による環境(人体を含めて)の制御である。それによって生産性を向上させ物質的な豊かさと安楽度を増すことができる。もう一つは人間社会の合理化である。それは民主主義の徹底により、人々の間の差別や不公平を取り除き、万人の幸福度を増すことができると考える。
このような歴史の進歩という観念は、進歩派と言われる人たちだけでなく、保守的とされる人たちにも共有されてきた。経済発展による物質的豊かさの増大ということは、保守派の人たちもまた意図したことであり、GDPの増加ということが国家目標とされた。
岩波書店、末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』P2
私たちはこれまで物質的な豊かさを追い求め、科学や合理性を信望してきました。たしかに物質的には戦後、日本は豊かになったと言えるかもしれません。しかしそれに比して私たちは精神的な豊かさを享受できているのでしょうか。私たちは何か大切なものを見失ってはいないだろうか、提言は次のように続いていきます。
それでは、近代的世界観の何が問題であり、それに代わるべき思想はどのようなものであらねばならないのだろうか。近代的世界観は、科学的合理性による進歩ということを根本的特徴としている。それ故、そこではその合理性によって把握できないものは、容赦なく抹殺される。唯物論を標榜するマルクス主義はもちろんだが、それに反対する場合にも、しばしば科学的実証が絶対視され、実証できないものは、存在しないものとして否定されることになった。この世界は見えるもののみから成り立ち、見えざるものは排除される。「神」を信仰することは勝手だが、それは個人の問題であり、公共の場で議論される問題ではない。
こうして、公的な場から見えざるものたちが消されていく。消された見えざるものの代表が死者たちだ。長い間、死者たちについて問うこと自体がタブーであつた。私が二〇〇〇年代の初頭にはじめて死者の問題を提起した時、それはほとんど嘲笑をもって無視された。死者が大きな問題として浮上したのは、東日本大震災で多数の死者と向き合わなければならなくなったことが契機となっている。
岩波書店、末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』P16
近代的世界観では見えざるものは排除される。科学的実証性がないものはタブーとされる。
しかし、こうした世界観が広まっていた中で、東日本大震災や靖国問題、そしてコロナ禍によって見えざるものの力を私たちは思い知らされることになりました。これまで遠ざけられていた死が身近に迫ってきたのです。だからこそ私たちは見えざるものや、死について今一度考え直さなければならないのではないでしょうか。
近代の理論の中で、見えざる死者はその正当な位置から追いやられてしまった。死者を排除することこそが、近代的として賛美された。仏教においては、葬式仏教が軽蔑され、仏教は本来生者のためのものだと論じられた。だが、現実には近代の仏教の経済的基盤は葬式仏教によって成り立っていた。その現実を見ずに、理論において死者を抹殺してきたのが近代である。
その立場から、近代に先立つ近世も世俗化の時代として捉えられ、宗教の力を軽視することになった。だが、現実には、一七世紀においてもっとも影響力を持った思想は仏教であった。一七世紀前半の儒仏の論争においては、儒教側が理気説を提出して前世・来世を否定したのに対して、仏教は正面から三世の因果を打ち出し、前世・来世を説き、それを現世道徳の成り立つ根拠としていた。
岩波書店、末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』P18
最近、仏教が葬式仏教と揶揄されることも多いですが、本来、死者と向き合うことはとてつもなく重要なことです。死をどう受け止めるかという問題はまさに「生きるとは何か」ということに直結した問題です。死を抜きにして生はありません。
この箇所ではこの後仏教だけでなく、儒教や神道もそうした死者への儀礼を通して日本人の世界観、死生観を形成していたことが述べられます。
そして《提言》は政治のあり方に関して述べながら次のような言葉で締めくくられます。
近代が終わった後で、理念なき覇権主義の暴走は絶対にあってはならない。もはや人類の存亡自体が問題となっている。お互いに争いあっている余裕はない。政治も宗教も協力しながら、この危機に正面から立ち向かわなければならないのである。
岩波書店、末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』P23
今、間違いなく私たちは危機の中にあります。こういう時だからこそなおさら覇権主義の暴走はあってはならない、それは当ブログでもソ連の歴史を通して学んできたことでもあります。
※ソ連とナチス、全体主義についての記事は以下をご参照ください
・ソ連の革命家レーニンとは「レーニンに学ぶ」記事一覧
・ソ連の独裁者スターリンとはーその人物像と生涯「スターリンに学ぶ」記事一覧
・ソ連や全体主義との恐るべき共通点ーカラマーゾフとのつながりも「中世異端審問に学ぶ」記事一覧
・独ソ戦のおすすめ参考書13冊一覧~今だからこそ学びたい独ソ戦
・ソ連の粛清とナチスのホロコーストを学ぶ~「独ソ戦・ホロコーストに学ぶ」記事一覧
・ソ連兵は何を信じ、なぜ戦い続けたのか「独ソ戦に学ぶ」記事一覧
さて、この本ではこの《提言》の後で5人の座談に入っていくことになります。
その中でこれまたグサッとくる言葉がありました。それは若松英輔氏による言葉で、これは私がずっと感じ続けていたモヤモヤをまさしく言い当ててくれた言葉でもありました。少し長くなりますがその箇所を読んでいきたいと思います。
若松 岳志さんと私とは、少し年齢が違うんですが、私にも近い経験があります。阪神淡路大震災の時は、サラリーマンだったのですが、さほど時をあけずに現地に仕事で行っているんです。当時勤務していた会社の営業所がなくなったということで、被災地に入りました。東日本大震災の時とは違って、東京から行けたことをよく憶えています。
しかし、東日本大震災の時は違った。もちろん、原子力発電所の問題もあり、関東も揺れたという問題もあります。ただ、それだけでは説明できない違いもあったように感じています。それはある分断です。世の中が絆という言葉を連呼したのはその裏返しだったようにも思います。
阪神淡路大震災と東日本大震災では何が違ったのかというと、「宗教」の力だったと思っています。阪神淡路大震災が起こった際には、さまざまな宗教家たちがいろいろな発言をしたし、宗教団体も言葉を残した。それが東日本大震災のときは、十分にそのはたらきをなすことができなかった。
個人として活躍した宗教者はいました。被災地に入ってさまざまな働きをした人はいたし、そういう方を複数存じ上げています。
けれども、いわゆる宗教団体としては、大きな問題を残したかたちになりました。そして、いまのコロナ禍も、何にも聞こえてこない。なぜこうなってしまったのか。なぜ「宗教」は言葉を失ったのか。これはとても大きな問題であって、宗教が言葉を失ってしまったら、存続することがなかなか難しくなってくる。
奈良時代までの日本では、宗教がなければ国家が潰れていた。それほど大きな役割を担っていたわけです。このことはまさに今日の主題である「死者と霊性」に直結します。「死者と霊性」は、ともに意味では不合理なものです。しかし、こうした証明不可能な存在を省いた、人間の知識だけで、新しい世界観を構築するのは難しいのではないかと感じています。人間を超えた存在との結びつきを整えながら次の世界をつくっていく必要に迫られているのではないでしょうか。
二〇世紀までは何かその糸口があった。しかしニ一世紀になって私たちは、それを急激に失っていったと思うのです。
一つには、「宗教」自身が、宗教と、それと似て非なるものだったオウム真理教を、峻別できなかったことが挙げられます。オウム真理教の事件以後、何か「宗教」は怪しいものだ、あるいは近寄らないほうがいいものだという空気があった。宗教団体は、この間題に対峙することなく、沈黙することで是認したところがあります。そこまでさかのぼって、危機において「宗教」が何をなし得るのか、もう一回考えていくことが、極めて重要ではないかと思います。
岩波書店、末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』P44-46
「いわゆる宗教団体としては、大きな問題を残したかたちになりました。そして、いまのコロナ禍も、何にも聞こえてこない。なぜこうなってしまったのか。なぜ「宗教」は言葉を失ったのか。これはとても大きな問題であって、宗教が言葉を失ってしまったら、存続することがなかなか難しくなってくる。」
これは本当に私自身も感じていたことでした・・・私も一人の僧侶として教団に所属している身です。ですので私にも当然責任があります。ただ、あまりにもこのコロナ禍において教団が声を出せていない、大きな役割を果たせていない、その現状に関して非常に苦しい思いを感じていました・・・僧侶はもはや役に立てないのだろうか・・・声も出さなければ、いや、声を出してももはやその声は誰も聞いてくれないのだろうかと・・・
私はコロナ禍が始まってからずっと悩み続けていました。
私に何ができるだろうかと・・・
そう悩んでいたからこそ今もこうして本を読み、考え、ブログを続けています。
独ソ戦やホロコースト、全体主義について長い間ブログを更新してきたのも、今の世の中のあり方の危険性について自分自身でも考えていきたい、そして少しでも世の中に還元できたらという思いからでした。
もちろん、それらは私の「親鸞聖人とドストエフスキーについての研究」の延長線上にある問題です。ただ、それでもじっくりと長い時間をかけてアップし続けたのは世の中に対して少しでも声を上げたいという思いがあったからこそでした。
また、若松英輔氏はオウムと宗教問題についても言及してくれています。このことは私が僧侶として生きていく上でどうしても避けて通れない問題でした。私の僧侶としての歩みはまさにここから始まったと言ってもよいほどです。それだけこの問題は私にとって大きなものでした。
コロナ禍の問題、そしてオウムの問題については、この記事の最後に記事をまとめておきますので、ぜひ読んで頂けましたら嬉しく思います。私の思いがそこには書かれています。
さて、話は本から少し逸れてしまいましたが、この本はコロナ禍における今だからこそ非常に重要なものとなっています。
私たちは死をどう考えていけばいいのだろうか。目に見えない存在に対してどう向き合うべきなのか。科学や合理性を盲信するあまり大事なことを見失ってはいないだろうか。
そのようなことを考えさせられる1冊となっています。
この本は出版されたばかりですが、かなり話題になっているようです。
ぜひおすすめしたい1冊です。
※ただ、座談部分では人物名や書名、専門用語がかなり多く、哲学や文学の知識がないとなかなかついていきにくいところもあり、そこは注意が必要です。素晴らしい本だからこそ僭越ですがあえてそこは言わせて頂きたいと思います。後半のそれぞれの著者の文章のところに関してはとてもわかりやすく興味深いので、座談部分で挫折して読むのをやめてしまうのはとてももったいないのでぜひそこは強調したいです。
以上、「末木文美士編『死者と霊性―近代を問い直す』コロナ禍の今、死とどう向き合うか」でした。
次の記事でも引き続きコロナの問題について考えていきます。ぜひご覧ください。
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死者と霊性: 近代を問い直す (岩波新書 新赤版 1891)
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