「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう~寿命とは何か、死と病をどう考えるのか―お釈迦様のことばに聴く

われらはここにあって 仏教コラム・法話

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。―お釈迦様のことばに聴く

六 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。―このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いは静まる。

岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P11

さて、今回のことばはまさに「いのち」の問題で世界中が揺れている中、大きな意味があるように思われます。

お釈迦様は『「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。』と述べます。

一見当たり前のことのように思えることばですが、これをいざ自分の心の底から覚悟するとなると非常に難しいことですよね。

病や事故に遭い九死に一生を得た方はその感覚を感じたかもしれません。あるいは目前に死が迫っている方もそうかもしれません。

ですが普通の生活をして毎日を過ごしていると「自分が死ぬ」という感覚を持つ事はなかなかありませんよね。

ましてや明日、いや今日この後死ぬかもしれないと感じながら日々過ごすという方はほとんどいないのではないでしょうか。

特に現代社会では自分の死だけではなく、他者の死とも距離が遠くなってしまいました。

高齢化が進み、亡くなるときは多くは病院です。

それに対し昔は家族や親戚も多く、兄弟が5人以上いるのも珍しくない時代でした。しかも医療も発達していなかったので幼いながらに亡くなる子供たちもたくさんいた時代です。

かつては今よりもはるかに死や病が身近にあった時代だったのです。

さらに遡ればお釈迦様が生きておられた2500年前はそれよりもはるかに死や病が日常に溢れていたことでしょう。

しかしそうした死が日常に溢れていた時代にあっても、お釈迦様は『「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。』と仰られるのです。そして「このことわりを他の人々は知っていない。」とまで述べるのです。

死が満ちていた2500年前の世界ですら多くの人間は「自分が死ぬこと」を覚悟できなかった。であるならば、死が遠ざけられた現代日本においてはなおさらこれは難しいことなのではないかと私は思うのです。

死や病が尋常ならざることになってしまった社会。

それが今の日本であると思います。

医療が発達し、ある程度の病なら治るのが当たり前。そしてかつては不治の病と恐れられた難病も少しずつ克服されつつあります。

私たちは生き延びることが当たり前の社会に暮らしているのです。

しかしだからこそそこに新たな問題も生まれてくる。

それが今コロナ禍で顕在化してきたのではないかと思います。

コロナ禍が問題を引き起こしたというよりは、これまでずっと存在していた問題が白日にさらされたというのが実際のところなのではないでしょうか。

私は以前「僧侶が問うコロナ禍の日本~いのちがあまりに高価になりすぎた時代にどう生きる?―死と病が異常事態になった世界で」という記事を書きました。

この記事では死と病が異常事態になってしまった日本の現状について私が思う所を述べた記事となっています。

冬に入り日本を取り巻く状況はどんどん悪化しています。

私たちは今、命についてそして病についてどう向き合うかということが突き付けられています。コロナが流行り出す前まで、私たちはどう生活していたのでしょうか。

交通事故に遭うかもしれない。心臓発作を起こすかもしれない。脳梗塞も、結核も、肺炎も、インフルも、食中毒も・・・あらゆる危険と共に私たちは生きていたはずです。これは高齢者だけでなく若者もそうです。私たちはそんな危険の中どう生きていたでしょうか。

あるいは脳死の問題をどう捉えるか、延命措置、妊娠中絶、遺伝子検査などなど、高度な医療が発達したからこそできてしまう選択肢に私たちはどう向き合うのか。

かつては手の施しようがなく、寿命として受け入れるしかなかったことが今では私たちの選択次第になっている。

私たちは絶対的な正解がない究極の難問を突き付けられているのです。コロナも一緒です。実際、皆さんはどう思いますか?

正直に申します。私はわかりません。学生の頃からこうした問題を何度も何度も授業や書物から投げかけられました。ですが、考えても考えてもわかりませんでした・・・実際自分がその立場になるまでわからないのではないかと思います。そしてわからないままに答えを選ばざるをえなくなるのではないでしょうか・・・

先程も申しましたように、コロナ禍がそうした問題を引き起こしたというよりは、これまでずっと存在していた問題が白日の下にさらされたというのが実際のところなのではないかと思います。

最後にもう一度お釈迦様のことばに聴いてみましょう。

六 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。―このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いは静まる。

岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P11

私たちは改めてこのことをじっくり考えていく必要があるのかもしれません。

私は僧侶です。日々多くの死とも立ち会います。遺族の方とお話ししていると様々な死を聞くことになります。

今、「コロナの死」が毎日毎日報道され私たちはそれを目にすることになっています。しかし、人の死は、人の病はコロナだけではありません。癌も、心臓病も糖尿病も、あるいはその他あらゆる病も人を苦しめ、死に至らしめます。

私自身、いつ事故や病気で死ぬかもわかりません。私も他人事ではないのです。

コロナ禍において私たちは「寿命とは何か、あなたの死生観はどのようなものか」を問われています。

死をどのように見るか、病をどのように見るのか。

私はお釈迦様のことば、そして仏教の歴史の中で語られてきたことをもう一度しっかりと聞き直していきたいなと思っています。

以上、「「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう~寿命とは何か、死と病をどう考えるのか―お釈迦様のことばに聴く」でした。

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