フィレンツェ・サンタ・クローチェ聖堂~ミケランジェロ、マキャヴェリ、ガリレオの墓を訪ねて
【フィレンツェ旅行記】フィレンツェのパンテオン、サンタ・クローチェ聖堂~ミケランジェロ、マキャヴェリ、ガリレオの墓を訪ねて
2022年末、私はヨーロッパを旅しました。そしてその時の体験を『ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行』という旅行記にまとめ当ブログで更新してきました。
そしてその旅の中で私はフィレンツェも訪れています。
ですがこの旅行記ではドストエフスキーゆかりの地をメインに紹介していますので、見どころ満載のフィレンツェを全て紹介することはできませんでした。
今回の記事ではそんなフィレンツェの中でも特に印象に残っているサンタ・クローチェ聖堂をご紹介していきます。
サンタ・クローチェ聖堂はドゥオーモのあるエリアから東に少し歩いたところにあります。
こちらがサンタ・クローチェ聖堂の内部。柱が比較的細く、広々とした開放感を感じます。
『地球の歩き方』ではこの教会について次のように解説されていました。
趣のあるフィレンツェ最古の広場に面した大教会。横に付属した僧院中庭とブルネッレスキによるパッツィ家礼拝堂の生み出す空間は類まれな美を作り上げ、フィレンツェ・ルネッサンスの凝縮といわれている。
きて、140 x40mという広い教会内部には、この町を追われラヴェンナで死んだダンテの記念廟からミケランジェロ、マキャヴェリ、ロッシーニ、G.ガリレイなど276の墓が収められ、一大墓地の趣だ。これらの人々にふさわしく、内部もさまざまな芸術家たちの手によって飾られている。
ダイヤモンド社『地球の歩き方A09 イタリア2019~2020年版』P160
この解説にありますように、この聖堂には錚々たる偉人達のお墓があります。私はこうした偉人達のお墓参りがしたくこの聖堂にやって来たのでありました。特にマキャヴェリのお墓には強い思いを持って私はお墓参りをしました。
ミケランジェロのお墓
こちらがミケランジェロのお墓。ミケランジェロらしい暖色系の色彩や肉体表現が描かれています。
そしてこのお墓の前に立ってふと私は思ってしまいました。
「あれ?ミケランジェロってどんな顔してたっけ・・・?」
お墓参りをするとその人を思い浮かべてお参りをするわけです。ですがミケランジェロの顔や姿がどうも浮かんでこないのです。
そこではっとしました。自分がそもそもミケランジェロの顔をほとんど知らないことに・・・。
ミケランジェロといえばサンピエトロ広場の『ピエタ』やシスティーナ礼拝堂の天井画や『最後の審判』、そしてここフィレンツェの『ダヴィデ』を思い浮かべることでしょう。
ただ、これらのインパクトが強烈すぎてミケランジェロといえばミケランジェロその人よりもこれらの傑作が思い浮かんでしまう・・・
これはなかなかに珍しい現象なのではないでしょうか。
なぜなら、レオナルド・ダ・ヴィンチならば私たちも何となくあの顔を思い浮かべることができるからです。
ミケランジェロの面白さはこういう所にもあるなとお墓を前にして思ったのでした。
ちなみにこちらがミケランジェロのお顔。皆さんはどう感じますでしょうか。
・・・ん?ちょっと待ってください。
よくよく考えたら画家の顔を想い浮かべてパッと出てくるダ・ヴィンチの方が珍しいのでは?あれ?そんな気がしてきました。ラファエロも何となく思い浮かびます。ですがブリューゲル、ボッティチェッリ、モネ、マネ、セザンヌなどなどたくさんの有名画家がいますがなかなか顔が思い浮かびません。そう考えると、ダ・ヴィンチの方が特殊なのかもしれません。お墓の前でふと思ったことと帰国してから一呼吸置いて考えたのだとまた少し違ってきますね。
以下ミケランジェロに関する記事を掲載しますので興味のある方はぜひご覧ください。
マキャヴェリの墓
こちらが『君主論』で有名なマキャヴェリのお墓です。
実は私がこの教会を訪れた一番の理由はこのマキャヴェリのお墓参りをしたかったからなのです。
私が彼に興味をもったのは高階秀爾著『フィレンツェ 初期ルネッサンス美術の運命』を読んだのがきっかけでした。
この本では15世紀にルネッサンス全盛を迎えたフィレンツェの政治情勢やイタリア全体の時代背景を知ることになりました。
ルネッサンス芸術の繁栄はイタリアの独特な政治情勢に大きな影響を受けていて、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロもまさに各国間の政治的駆け引きの道具として利用されていたということに私は驚くことになりました。
そしてそのまさに同時代に生きていたのが『君主論』で有名なあのマキャヴェリだったのです。
『君主論』はマキャヴェリズムという言葉があるほど有名な作品ですが、この本自体はなかなかに読みにくく、手強い作品となっています。私も以前この本を読もうとしたのですが前半で挫折してしまいそのままになっていました。
ですがこの『フィレンツェ 初期ルネッサンス美術の運命』を読んでから改めて『君主論』を読むと、全く別の顔を見せるようになったのです!とにかく面白いのなんの!時代背景がわかってから読むと、マキャヴェリの言葉がすっと入ってくるようになったのです。
そうなってくると『君主論』の理想の君主のモデルともなったチェーザレ・ボルジアという人物が気になって気になって仕方なくなってきました。世界中を席巻することになった『君主論』のモデルになるほどの人物ですから、とてつもなく巨大な男に違いません。これはぜひもっと知りたいものだと本を探した結果出会ったのが『昔も今も』という本でした。
この本もものすごく面白かったです!極上の歴史小説です!これはいい本と出会いました!
2人の天才、マキャヴェリとチェーザレ・ボルジアが織りなす濃密な人間ドラマ!そして彼らが生きたイタリアの時代背景も知れます。ドラマチックなストーリー展開の中に『君主論』を思わせる名言が出てきたり、人間臭いマキャヴェリの姿も知れたりと非常に盛りだくさんな作品となっています。
この作品について訳者は巻末の解説で次のように述べています。
『昔も今も』に登場する主人公は、ニッコロ・マキアヴェリとチェーザレ・ボルジアである。マキアヴェリはフィレンツェ共和国に仕える才気煥発、敏腕な官僚であり、喜劇作家であり、そして何よりも『君主論』の著者であって、今日近代政治学の祖と言われる。
一方、チェーザレ・ボルジアは、長年〈ボルジア家の毒薬〉で知られる悪逆無道な権力亡者、目的のためには手段を選ばない、いわゆる〈マキアヴェリズム(権謀術数)〉の権化として、歴史にその名を記されてきた。
マキアヴェリは『君主論』のなかで、君主は世の美徳や評判に捉われることなく、時と場合によっては、残酷な行為も一気呵成に行ない、悪に踏み込んで行くことも必要である、獅子のごとく猛々しく、狐のごとく狡猾でなければならないと語っている。さらに、雄図半ばにして斃れたチェーザレ・ボルジアについて、「すばらしい勇猛心と力量の人であった。また民衆をどのようにすれば手なずけることができるか、あるいは滅ぼすことができるかを、十分わきまえていた」(『君主論』池田廉訳)と述べ、彼こそ新時代の君主となる人たちが模範とすべき人物であると称賛している。
しかしながら、そのようなキリスト教の美徳に挑戦する言辞が災いして、『君主論』はマキアヴェリの死後まもなく、高名な教会人によって〈悪魔の所産〉と弾劾され、やがて彼の全著作がローマ法王庁の禁書目録に載せられた。
筑摩書房、サマセット・モーム、天野隆司訳『昔も今も』P366-367
※一部改行しました
この箇所を読むだけでマキャヴェリとチェーザレ・ボルジアがどのような人物だったかが浮き上がってきますよね。
そして著者は続けます。次の箇所では当時のイタリアの時代背景が解説されます。
マキアヴェリの時代イタリアは、大小の都市国家が割拠して分裂し、そのために絶対王政の体制を整えたフランス、スペイン両大国の介入と収奪を許していた。たがいに傭兵を雇ったり傭兵に雇われたりして〈八百長戦争〉をしながら勢力均衡を維持し、豪華絢爛たるルネサンス文化を謳歌していた時代は去りつつあった。一四九四年のフランス国王シャルル八世の侵入以来、イタリアは全土が残忍な戦闘や略奪の横行する不安定な状況に陥っていた。
この乱世の時代にチェーザレ・ボルジアが登場した。まだ二十七歳という若い剛毅な君主である。彼は法王アレッサンドロ六世の私生児ながら、統一をめざして国民軍を創設し、法王領の実権を握るべく群小領主の一掃に邁進する。
彼の野望に直面して、フィレンツェやヴェネツィアや、シエナやボローニャは動揺する。彼らにとってイタリアの分裂状態と勢力均衡こそ自国が繁栄する条件だった。このままチェーザレの過激な行動を許すならば、とりわけ大都市国家の存立が脅かされる。その自由と繁栄が失われる。
おりしもチェーザレの傭兵隊長たちが、自分たちも主人の野望の生け贄にされかねないと恐怖して謀反を起こした。これはフィレンツェにとって、共和国が生き延びる格好のチャンスだった。強欲な軍人どもが共食いをしてくれるならば、漁夫の利を得るのはフィレンツェである。こうしてフィレンツェ政府は巨額の傭兵契約を求めるチェーザレの許に、口八丁手八丁のマキアヴェリを使節として送りこんだ。反乱の結果が見えるまで、舌先三寸でチェーザレの矛先をかわそうという作戦だった。
かくして物語は、二人の天才的人物の丁々発止のやりとりを縦糸にし、女好きなマキアヴェリが手練手管を発揮する恋の火遊びを横糸にして進行する。マキアヴェリは男盛りの三十三歳、共和国に忠実な官僚であるとともに、情熱的な生身の一個の男である。出張先のイーモラに到着したとたん、有力な商人の若い女房にひと目惚れし、多忙な外交交渉の合間をぬって、彼女をモノにしようと奮闘する。この必死の政治活動とマメで真剣な恋愛活動とが、モーム得意の軽妙なタッチで描かれる。
マキアヴェリの涙ぐましい活動の顛末は本書を読んでいただくとして、そのコミカルな物語の展開のなかにも、マキアヴェリとモームの鋭い人間観察が表裏一体となって現われ、読者を随所で楽しませてくれる。『昔も今も』を一読されたあと『君主論』を手にするならば、読者は大いに興味・関心を刺激されて読書が進むのではあるまいか。
筑摩書房、サマセット・モーム、天野隆司訳『昔も今も』P367-369
※一部改行しました
チェーザレ・ボルジアが教皇アレッサンドロ六世の私生児であるというのは驚きですよね。しかもその立場を利用してイタリア全土を掌握しようというとてつもない野心を持った人物でした。
そしてこの作品で説かれるように、チェーザレ・ボルジアは単に生れを利用しただけの男ではなく、信じられないほど優秀な人物でもありました。その鋭敏な頭脳、カリスマ性、権謀術数にはただただ驚くしかありません。
訳者が「『昔も今も』を一読されたあと『君主論』を手にするならば、読者は大いに興味・関心を刺激されて読書が進むのではあるまいか」と述べますように、これはぜひセットで読むのをおすすめしたい作品です。
おそらく、世の大半の方は有名な『君主論』をそれ単体で読むのではないかと思います。私もそうでした。
「あの有名な『君主論』はどんな本なのだろう。ベストセラーにもなってるみたいだし、試しに読んで見ようか」、そんな軽い気持ちで手に取ったはいいものの案の定挫折してしまった苦い思い出があります。
ただ、この『昔も今も』を読んでから『君主論』を読み返してみたらどうでしょう。これはもう全く別の作品に見えるくらいの違いが生まれてきます。今となっては『君主論』が面白くて面白くてたまりません。
さて、マキャヴェリの『君主論』といえばマキャヴェリズムという言葉があるように、厳しい現実の中で勝ち抜くためには冷酷無比、権謀術数、なんでもござれの現実主義的なものというイメージがどうしても先行してしまうのではないでしょうか。
たしかに『君主論』の中でそうしたことが語られるのは事実です。
ですが、「マキャヴェッリがなぜそのようなことを述べなければならなかったのか」という背景は見過ごされがちです。
当時のイタリアの政治状況はかなり特殊な状況です。上の解説でも少しだけ触れましたが、イタリアはそれぞれの都市国家がひしめき合っていました。そして形の上では共和制という一見民主的なシステムの下運営されていましたが、その実態は腐敗し機能不全という体たらくでした。
しかもそこにフランスやスペインなどの強力な絶対王政的国家がイタリアを侵略しようと動き出し、さらにはオスマン帝国の勢力にも地中海地域を蹂躙されていた時代です。
腐敗し機能不全を犯していた都市国家群。そんな形だけの民主主義をベースにした小国が小競り合いに明け暮れていたのがマキャヴェリの生きたイタリアだったのです。もしフランスやスペイン、オスマン帝国などの大国が侵略してこなかったならイタリア内で茶番の小競り合いを続けていてもよかったでしょう。
ですが大国が問答無用で攻めてくる状況にあっては強力な国家体制が必要になってきます。もはや、腐敗した民主主義ではどうにもならない状況なのです。
マキャヴェリもできることなら愛するフィレンツェが健全な民主主義の下繁栄することを願っていたでしょう。ですがこの危機の時代に相変わらず腐りきった少数の人間達が共和制の名の下に無能を晒し続けている・・・
そんな中でマキャヴェリは『君主論』を書いたのでした。
そう考えるとこの作品がかなり特殊な状況を前提とした意見書であることが見えてくるのではないでしょうか。
ルネサンス時代のイタリア、ヨーロッパ情勢を考える上でマキャヴェリの説く教えは非常に重要な示唆を与えてくれます。政治経済と宗教が一体化したその世界を教えてくれるのがマキャヴェリでもあります。
ヨーロッパ社会の複雑さ、面白さ、仁義なき戦いの激烈さを教えてくれたマキャヴェリには頭が上がりません。
とはいえ、私自身は『君主論』のモデルのように冷酷無比、権謀術数何でもござれを推奨しているわけではございません(笑)この辺りで私が思う所は「マキャヴェッリ『君主論』時代背景と感想~ダ・ヴィンチと同時代のフィレンツェ人による政治論」の記事で詳しく書いていますのでそちらも読んで頂けますと幸いです。
私はマキャヴェリには強い思い入れがあります。マキャヴェリは世の中の厳しさを教えてくれた師でもあります。マキャヴェリは仁義なき権謀術数を推奨したかったのではなく、愛すべきフィレンツェを救うべく戦っていたのでした。彼の生涯について知るにはM・ヴィローリ著『マキァヴェッリの生涯 その微笑の謎』がおすすめです。
この本では世の大半の人がイメージするマキャヴェリとは全く違う姿を知ることができます。
そんなマキャヴェリを知った私はこのお墓参りをとてもとても楽しみにしていました。私は彼の波乱万丈の生涯を偲び、ゆっくりと念を込めてお参りしてきたのでありました。
ガリレオ・ガリレイのお墓
こちらはガリレオ・ガリレイのお墓。
イタリアのピサ生まれの科学者、ガリレオ・ガリレイ。1564年というのはあのシェイクスピアが生まれた年でもあります。同じ年に世界を変えた天才が生まれているというのはなんとも感慨深いですよね。
天体望遠鏡で星を観察し、科学的な実験を重ねたガリレオ。そんなガリレオの理論はカトリック教会の語る世界観と真っ向からぶつかってしまいます。
しかもガリレオが住んでいたイタリアはローマカトリックのお膝元。宗教的に非常に厳格な地域です。少しでも教会の言うことと違えば異端審問にかけられます。
そんなガリレオの生涯についてはマイケル・ホワイト著『ガリレオ・ガリレイ 伝記 世界を変えた人々17』がおすすめです。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
ダンテの記念碑
このサンタ・クローチェ聖堂にはなんと、ダンテの記念碑まであります。これもダンテの『神曲』を読んだ私にとってはとても嬉しいものでした。
『神曲』といえば誰もがその名を知る古典ですよね。ですがこの作品がいつ書かれて、それを書いたダンテという人がどのような人物だったのかというのは意外とわからないですよね。
というわけでダンテのプロフィールを簡単にご紹介します。
1265年、トスカーナ地方フィレンツェ生まれ。イタリアの詩人。政治活動に深くかかわるが、1302年、政変に巻き込まれ祖国より永久追放される。以後、生涯にわたり放浪の生活を送る。その間に、不滅の大古典『神曲』を完成。1321年没
河出書房新社、ダンテ、平川祐弘訳『神曲 地獄篇』より
ダンテはイタリアルネサンス文芸を代表するペトラルカ(1304-1374)やボッカッチョ(1313-1375)より少し前の世代の人物になります。
彼がフィレンツェ生まれであるということにまず驚きましたが、政治の争いに巻き込まれたことで追放されてしまったというのもびっくりですよね。そしてこの追放への様々な思いから書かれたのが『神曲』になります。祖国への思いや権力闘争、不正への憤りがこの作品の原動力になっていたと思うとまたこの作品が違って見えてきますよね。どこかマキャヴェリとも重なってきます。
サンタ・クローチェ聖堂はルネサンスの大御所たちのお墓参りができる素晴らしい場所です。
この記事ではミケランジェロ、マキャヴェリ、ガリレオ、ダンテを紹介しましたが、他にもたくさんのビッグネームのお墓があります。それぞれの分野のスペシャリストたちがここに眠っています。「フィレンツェのパンテオン」と呼ばれるのももっともだなと思います。
見どころだらけのフィレンツェにおいては少し影の薄い場所かもしれませんがぜひおすすめしたい教会です。
ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
以上、「フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂~ミケランジェロ、マキャヴェリ、ガリレオの墓を訪ねて」でした。
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