(15) Lenin and the Russian Orthodox Church: The harsh reality of the Soviet government's suppression of the church

History of the Soviet Union under Lenin and Stalin

ヴィクター・セベスチェン『レーニン 権力と愛』を読む(15)

引き続きヴィクター・セベスチェン著Lenin, Power and Love.The following are some of the memorable passages from the

レーニンとロシア正教会

レーニンの意思に抗い続ける一つの組織が、正教会だった。キリスト教信仰とレーニン版共産主義は、いずれ衝突する運命にあった。レー二ンは反宗教キャンぺーンを展開し、できれば教会を破壊しようと常々考えていたが、時機を待っていたのだ。最初の三年間は慎重で、政治宣伝に頼った。自軍が破れ、反乱農民が平定されると、レー二ンは教会攻撃の時機をとらえる。大衆の支持が得られるとふんだ一つの布告によってである。

歴代皇帝の下で、教会は絶大な世俗権力と精神的権威を併せもつ特異な地位を占めていた。正教信仰だけが改宗者を受け入れる権利を有していた。

潤沢な国庫補助金を受け取っており、これが四万五〇〇〇人の教区僧侶の給与をまかない、一〇万力所の修道院の財政を支えていた。正教会はロシア最大の土地所有者の一つだった。

二月革命に先立つ一〇年間、教会会衆は激減していたけれども、ロシアは依然として圧倒的に正教の国家だ。正教信仰と皇帝権力は分かちがたく結びついていた。教会は事実上、独自の大臣をもった国家の一つの省だった。歴史的に、その政治はウルトラ反動である。
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白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P295

ロシア革命以前の皇帝統治下のロシア正教会は国家の統治機関の一つとして機能していました。この引用では絶大な権力と財政基盤を有していたとあります。

たしかにそれはそうなのですが、地方の神父や修道士たちはかなり厳しい生活に追い込まれていました。

その件については上の『十九世紀ロシア農村司祭の生活』にかなり詳しく書かれていましたが、権力と財政基盤の不均衡は甚だしかったようです。モスクワやペテルブルクなどの中央部の大寺院の高位聖職者のみが特権的な生活をしていて、地方はずいぶんと荒廃していたようです。この引用では贅沢な国庫金で4万5千人の聖職者を養っていたとありますが、地方の神父や修道士には生活していくのが不可能なほどの給料しか出ていませんでした。しかも教育機関も悲惨を極め、堕落腐敗した地方教会がどんどん増えていくという有り様だったようです。より詳しくは、ぜひ上の記事を読んで頂きたいと思います。

さて、このような宗教事情もドストエフスキーを考える上でよく考えなければなりません。一概にロシア正教といっても中央部のエリート僧と地方の荒廃した神父や修道士ではその性格も異なりますし、個々の人柄も当然ながら異なります。

そうした多種多様なロシア正教の姿の中で、ドストエフスキーはどんなロシア正教像を理想としたのか、そのことを考えるのが重要であると私は改めて感じました。

レーニンの正教会攻撃の始まり

レーニンが出した最初の布告の一つは、教会と国家を分離し、正教によらない結婚を認め、国営学校での宗教教育を禁じ、教会への国家財政援助をすべて引き揚げた。頑強な無神論者たちに率いられた革命としては、かなり穏健である。

新総主教になったモスクワ大主教チーホンは、「ロシア的運命観を強く帯びた……敬虔で世間ずれしていない人物」との評判だった。彼は最初からボリシェヴィキとの衝突を選んだ。チーホンは、「教会を迫害しはじめ、いたる所に……悪意と憎悪と不正な争いの種をまくことによって、キリストの大義を破壊しようと血道をあげている、キリストの……公然・隠然の敵……こうした人類の怪物」のことを嘆いた。

一部の僧侶に対してわずかに散発的な攻撃はあったが、こうした攻撃はこの段階では、公式の政策ではなかった。レーニンは、チェカーと赤衛兵への指示のなかで、当面は教会にかまうなということを明示している。「教会の扱いには十分注意せよ。事を急いではならない。この戦いの時機は来るだろうが、待つのだ」と彼はジェルジンスキーに書いた。自分とその他の共産党指導者がチーホンによって「破門」されると、レーニンはこの総主教を無視した。
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白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P295-296

レーニンはまずは比較的穏健な方法で教会を圧迫していきます。もちろんこれだけでも教会としてはかなりの痛手になります。

総主教のチーホンは敵対姿勢を明確に打ち出します。

しかし、レーニンが巧みなのは、ここで「事を急がない」ことがです。教会を徹底的に潰すにはまだ機が熟していない。今は待てと彼は虎視眈々とその機を待ち構えているのでした。

そしてついに、レーニンは動き出します。

本格的な弾圧の開始ー飢饉に乗じた略奪

一九一九年、政府はすでにすべての大土地所有者に対して行ったように、教会の領地と財産の接収を開始する。これには工場、アパート建物、乳製品製造所、病院、店舗、そして大農地をもった修道院が含まれていた。政権は「公園のような公共の場所」を含め、教会の外での宗教教育を禁じる一段と厳しい規則を導入した。

「これは教会、すなわち教会組織と聖職者の存在そのものを不可能にすることを狙っている」と、チーホンは正式に苦情を申し立てた。彼は数カ月間、自宅軟禁下に置かれ、ほかに一〇〇人ほどの僧侶が逮捕された。

次いで、飢饉が起きて、レーニンは共産主義以外の信条に全面攻撃を加える好機を見た。チーホンは相当額の金と「神聖な聖別された容器類を除く教会財産」を国へ納入すると申し出た。一九ニ一年夏、レーニンは新聞を総動員した政治宣伝キャンぺーンを開始、教会は「財宝を貯め込んでいる」と指摘し、「われわれがmoney (written before an amount)きんをパンに転換できるよう……隠された富」をもっと渡すよう要求した。もし拒否すれば、その財産は没収される、と。

チーホンが、聖別された品を世俗の目的に使うのは神への冒漬だと返答すると、レーニンは教会を略奪するためにチェカー係員を派遣した。モスクワの北東三〇〇キロの小さな町シューヤでは、一九ニニ年初め、一五人の敬虔な町民が、兵士が教会から貴重品を差し押さえるのを制止しようとして殺された。

レーニンが不在のとき、実権を握る党政治局が、少なくともしばらくは今後の没収を延期することを決定した。この決定を聞くと、彼は例によって激怒した。彼にしてみれば、いまが聖職者と対決する絶好の時であり、同志たちが対決から尻込みしてほならないのだ。
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白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P296-297

飢饉によって「飢えた国民のために」という口実ができたレーニンはここぞとばかりに教会弾圧を始めます。

『レーニンは新聞を総動員した政治宣伝キャンぺーンを開始、教会は「財宝を貯め込んでいる」と指摘し、「われわれがmoney (written before an amount)きんをパンに転換できるよう……隠された富」をもっと渡すよう要求した。』という箇所はレーニンの恐ろしさを感じます。この論法はかなり凶悪です。

こう言うことで教会が「悪意を持って財宝を貯めこみ、国民を見殺しにして富を隠している」という印象を国民に与えることになります。この言い方の狙い所は教会が本当に富を隠していなかったとしてもそれが証明不可能なところにあります。「ないもの」を「ない」と証明することはできません。「どこかにあるかもしれない」という問いには反証しようがないのです。レーニンはそれをわかっていてわざと「教会が実は富を隠している」と吹聴するのです。

そしてさらにレーニンは「邪悪な教会から国民の富を取り返す我々こそ正義である」というニュアンスも付け加えています。

ですが前もお話しましたが、この飢饉はそもそもボリシェヴィキが引き起こした飢饉です。農民から過剰に穀物を収奪しすぎたからこそ発生した飢饉です。自らの失政をごまかすために教会を悪者に仕立て上げ、自分達の責任をうやむやにする。

教会からの略奪と自らの責任のなすりつけという、レーニンからすると何重にも美味しい作戦なのでした。この飢饉については以前紹介したこの記事をご覧ください。

飢餓という国民の不満が高まった時期に、教会を悪者に仕立て上げ国民の不満や怒りをそこに誘導する。ここにレーニンの巧みさがあります。

メディアによって悪者を仕立て上げ、国民の不満をそこに誘導する。これはまさしく私たちが生きる今も起こり続けています。悪者探しが盛んに宣伝されている時は気を付けた方がいいと思った方がいいかもしれません。

コロナ禍においても悪者探しが続いています。最も議論されなければならないことより、本筋からずれたところでの悪者探しが続いています。これはどういうことなのかということを私たちはよく考えなければなりません。不満や怒りを巧みに誘導されている可能性があります。

レーニンによる暴力的な教会弾圧-確信犯的な飢饉の利用

クレムリンの仲間の重鎮たちに対するレーニンの反応はーソ連崩壊からかなり経って、ようやく最近、明るみに出るようになったのだがー、その冷笑的な残酷さの点で、いまなお衝撃力がある。それは最悪のレーニンを暴露しており、彼の歴代後継者たちがその書簡を用心して隠したのも、むべなるかなである。少々長くなるが、引用する価値がある。

レーニンは聖職者への攻撃を始める口実に、意図的にこの飢饉を使っている。

「敵〔教会を指す〕は、この時期にわれわれを戦闘に引き込もうとして、重大な戦略的誤りを犯しつつある……われわれにとって、いまこそ九九パーセントの確率で彼らを粉砕し、われわれ自身にこの先何十年も確固たる位置を確保する時なのだ。

もっとも無慈悲な熱意をもって教会の貴重品を没収し、いかなる抵抗をも粉砕しなければならないのは、飢餓地域で人民が人肉を食らい、無数の死体が道路に散らばっている、まさに今なのである。

農民大衆がわれわれを支持するか、少なくとも聖職者を支持する状態にないのは今、今だけなのだ……われわれは貴重品をいまや速やかに没収しなければならない。

絶望的な飢餓の時を除き、われわれに大衆の間の支持を与えてくれる時はないのだから、あとでそうすることはできないであろう。

没収は無慈悲な決意をもって実行されなければならない……われわれがこの理由〔教会略奪への抵抗〕で、より多くの聖職者と反動ブルジョアジーの処刑に成功すればするほど、よいのである。この先何十年にもわたって、あえて抵抗しようとの考えさえ起こさないように、こうした連中に教訓を与えなければならない」

これが暴力的な宗教弾圧の始まりであり、その後一五年ほどの間にソ連の教会とシナゴーグ、そしてモスクの九七パーセント以上が閉鎖される。レーニンの布告から二年もすると、三〇人の大主教と一ニ〇〇人の司祭が殺され、さらに数千人が投獄されていた。ぺルミでは、大主教アンドロニクが銃殺される前に、目がえぐり出され、頬がくりぬかれ、耳が切り取られるのを見たと目撃者は言っている。トボリスクの主教ゲルモゲンは岩に縛りつけられ、川に投げ込まれた。

他方で、ボリシェヴィキは教会の略奪から莫大な戦利品を上げた。レーニンへの報告によると、一九二一年一一月だけで、金五〇〇キロ、銀四〇万キロ、ダイヤモンド三万五六七〇キロ、各種の貴石二六五キロ、「そして、価値は未定のその他九六四個の骨董品」を没収したのである。
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白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P297-298

敵対勢力が最も抵抗できない時に叩く。

農民の不満が最大限に高まり飢餓に苦しむ今、教会を守ろうとする人間もいないはず。

Lenin waited until it was now or never to destroy the church, and finally took action.

It was a policy typical of Lenin's thoroughgoing strategy for seizing power.

Thus, the Russian Orthodox Church was thoroughly suppressed and suffered a harsh fate during the long years of Soviet power.

ソ連時代のロシア正教についてはまた別の機会により詳しくお話ししていきたいと思います。

be unbroken

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