Balzac's "Eugenie Grande" Synopsis and Impressions - The story of a defensive father and his simple love for his virtuous daughter.

Balzac French Literature, History and Culture

バルザック『ウージェニー・グランデ』の概要とあらすじ

『ウージェニー・グランデ』は1833年にフランスの文豪バルザックによって発表された小説です。

私が読んだのは講談社の高山鉄男訳の『豪華版 世界文学全集―4 バルザック』所収『ウージェニー・グランデ』です。

実はこの作品はドストエフスキーと非常に関係の深い作品で、1843年、彼が22歳の頃、この作品をロシア語に翻訳して出版しようとしていました。

Dostoevsky was devoted to Balzac from a young age and was strongly influenced by him.

Honoré de Balzac (1799-1850)Wikipedia.

It was this "Eugenie Grande" that he had his eye on as a work to be translated into Russian.

The story centers around the intense miser, Old Felix, and his daughter, Eugenie, and their battle between material greed, symbolized by money, and spiritual integrity.

解説にはこのフェリックス爺さんについて次のように書かれています。

フェリックス・グランデという人物はただの守銭奴ではない。彼は明敏な資本家であり、有能きわまる農業経営者である。ぶどう酒の売却の時期について、彼は一度だって間違えたことはないし、国債の売買についても、彼は底に近い安値で買って、高値を売るという機敏さである。フェリックス・グランデは、むろん一個の典型であるが、彼は守銭奴という性格上の典型である以上に、新興ブルジョアという社会史上典型である。つまり彼の生き方のうちには、歴史の方向そのものが現われている。グランデは、フランス革命中、国有財産を有利に購入したのを手はじめに、ついには千七百万フラン(これはざっと見積もって、現在の日本の何十億円かに相当するはずだ)という財産を蓄積する。

バルザックが描いたのは、近代ブルジョアジーの資産形成の過程なのだ。同時に、これは、新興階級であったブルジョアジーが、その上昇の過程で発揮した意志とエネルギーの物語でもある。こんなわけで、グランデ爺さんのうちに見られるものは、近代市民社会の成立期において、しがない樽屋でしかなかった一人の男が、社会と富をを征服して行く過程であり、これはそのあくなき物欲と執念の物語である。しかも、物欲は、ここでもまた他のバルザックの小説におけると同じく、一種の固定観念として、恐るべき情熱として描かれている。
Some line breaks have been made.

講談社 高山鉄男訳『豪華版 世界文学全集―4 バルザック』所収『ウージェニー・グランデ』P507

上の解説にあるように、この小説ではバルザック得意のフランス革命後の社会分析がふんだんに描かれています。金の力による成り上がりが至上命題となっていく時代をバルザックは正確に写し取っていくのです。

だがむろん、『ウージェニー・グランデ』の主人公はグランデ爺さんではない。題名が示すごとく、この小説の主人公はウージェニーであり、彼女の不幸な恋こそこの作品の真の主題である。ウージェニーは、パリからやって来たいとこのシャルルに宿命的な愛情をいだき、それが彼女の人生を支配する唯一の感情となってしまう。インドにでかけたシャルルを、彼女は七年間も待ち続け、そして帰国したシャルルに裏切られたのちのウージェニーは、もはや世間並みの家庭生活をいとなめる女ではなくなっている。ボンフォン裁判長と形ばかりの結婚をし、さらに夫が世を去ってからは、祈りと善行に一生を捧げる。それは、人生のすべてを決定するにいたった強い唯一の感情の物語であって、その感情は、激しさと持続の力において、父親グランデの物欲にも相応するものだ。だからこの作品は、二つの情熱、すなわち物欲と愛の対立を描いているとも言えるのだが、しかしそれにしてもこれらはなんと異なった二つの世界であろう。一方は力と征服しか欲しないのに、他方は、自己を捧げること、自分を与えることしか求めない。

さらに、ウージェニーの清らかな感情は、父親の物欲に対立するだけではない。それは、彼女と結婚することによってグランデ爺さんの財産を手に入れようとするクリュショ家の人々や、デ・グラサン家の人々にも対立している。この小説では、グランデ爺さんをはじめとして、物的な利益のみを人生の目的としている人々と、他方ウージェニーとその母親など、自分の素朴な感情によってのみ生きる人々、というふうに、人物たちは二つの種類に判然と分かたれている。そして作家バルザックが、そのどちらの側に立って物語っているかは言うまでもない。

作者は、グランデ爺さんの最期を描き、ボンフォン裁判長の死を述べつつ、物欲のために捧げられた一生というものが結局はいかに空しいか、を示している。他方、ウージェニーの一徹で清らかな生き方には惜しみない共感を寄せているように見える。だから、バルザックは、グランデ爺さんの生涯を語りつつ、新興市民階級のすぐれたエネルギーや驚くべき物欲を示すとともに、その生き方の根本にあるものを批判してもいるのだ。そしてグランデ爺さんのような生き方に対立するものとして、娘ウージェニーの愛と信仰の生涯を描いた。
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講談社 高山鉄男訳『豪華版 世界文学全集―4 バルザック』所収『ウージェニー・グランデ』P507

物欲に対する清らかな精神。

それを体現するのがタイトルにもなっているウージェニーであります。

この作品を読んでいるとグランデ爺さんとウージェニーの性格が両極端であることに驚きます。小説ならではの劇的な作りとなっていてこの二人が結局どうなっていくのかとハラハラして読み進めていくことになります。

Thoughts - From a Dostoevskyian Perspective

ドストエフスキーが好んで読んでいたこの作品。この作品には後のドストエフスキー作品につながるような箇所がたくさん出てきます。そのいくつかをここで紹介していくことにしましょう。

守銭奴というものは来世を信じない。彼らにとっては、現在こそすべてである。こう考えて来ると、どんな時代よりも、金が法律と政治と生活を支配している現代とは、どういう時代であるか、恐ろしいまでに明らかとなる。

千八百年このかた、社会制度は、来世への信仰の上にのっていたのだが、今やその信仰をうち壊すために、制度も、書物も、人間も、理論も、ひそかに協力しあっている。今では、死とはたんなる移り変りであって、人々はほとんどそれを恐れない。かつて鎮魂ミサのかなたで、われわれを待ちうけていた未来というものは、現在のなかに置きかえられてしまった。

奢侈と快楽という虚飾にみちた地上楽園に、手段の是非を問わず到達すること。かつて人々が、永遠の幸福のために現世の迫害に耐えたように、束の間の所有の楽しみのために、心をひからびさせ、肉体を痛めつけること。このようなものが、人々の一般的な考え方となり、これはいたるところに、ひいては法律のなかにまで書きこまれている思想なのだ。

法律は、『あなたは、なにを考えるか』と問うかわりに、『あなたはどれだけ支払うか』と問うている。このような理論が、中産階級の手から庶民の手に移ったとき、いったいこの国はどうなるのだろうか。
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講談社 高山鉄男訳『豪華版 世界文学全集―4 バルザック』所収『ウージェニー・グランデ』P387

これはヨーロッパがいまや金銭や欲望充足を人生の第一目的に据えていることを示した箇所です。

1830年ころのフランスを描いたバルザックでしたが、これは現代日本でもまったく他人事ではない描写です。

次はウージェニーをだましたシャルルという男がどのようにして育てられたかが示された箇所。

パリでは大方の子供たちは、パリのいろいろな快楽を眼にするにつけ、欲望をいだき、計画をねる。しかし欲望や計画が、両親の生活のせいでたえず実現をさまたげられ、延期されてしまうのをくやしく思うところから、子供たちは恐るべき打算を働かせるようになる。しかし、ギヨーム・グランデ夫妻は、息子のあらゆる気まぐれをかなえてやり、富がもたらすあらゆる楽しみを与えてやったので、このような打算的な気持からこれまでシャルルをまぬがれさせて来た。つまり、父の気前の良さが、息子の心のなかに、なんの下心もない本当の親思いの気持を植えつけるところまで行ったのだ。

とはいえ、シャルルもパリっ子であった。パリ生活によって、またアネットその人によって、すべてに打算を働かせるのに慣らされ、青年の仮面をかぶった老人になっていた。シャルルはすでに社交界のあの恐るべき教育を受けていた。社交界では、重罪裁判所において裁かれる以上の犯罪が、ひと夜のうちに、頭のなかや言葉でもって行なわれる。そこでは、気の利いた言葉がもっとも偉大な思想を殺し、正確に物事を見ないかぎり、強者として通用しない。しかもそこでは、正確に見るということは、なにも信じないこと、人の気持も、人間も、実際の出来事さえも信じないということなのだ。なにしろ、いつわりの出来事がでっちあげられることもあるからだ。社交界では、正確に見るためには、毎朝、友人の財布の重さをおしはかり、どんな事態になっても政治的遊泳術を忘れずにいなけれぱならない。さしあたり、芸術作品にしろ、立派な行ないにしろ、なにごとにも感心しないこと、そしてすべてに、動機として個人的利益を考えるようでなければいけない。

例の美しい貴婦人、アネットもさんざんばかげたことをしたあげ句、まじめに物事を考えるようにシャルルをしむけた。シャルルの髪の毛のなかに、かぐわしい手をさし込みながら、将来の地位について語った。髪の毛を巻きなおしてやりながら、人生の損得勘定をやらせた。彼女はシャルルを女性化し、物質本位の人間にした。これは二重の堕落だが、しかし、趣味が良く、優雅で洗練された堕落だ。
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講談社 高山鉄男訳『豪華版 世界文学全集―4 バルザック』所収『ウージェニー・グランデ』P412-413

この箇所はバルザックの後の作品Old Gorio."でも出てくるパリ社交界でののし上がり方を彷彿させます。社交界というもの対して、青年ドストエフスキーはどのように感じていたのか非常に気になるところであります。

最後にもうひとつ引用していきます。

ウージェニーが7年もシャルルを待っている間に家庭は散々な有り様になっていましたが、そんな時に語られたシーンです。

「ねえ、ナノンいったいどうして」と、ある晩ウージェニーは寝しなに言った。「七年にもなるのに、あの人は一度も便りをよこさないんだろうね」

ソーミュールでこういうことが起こっているあいだに、インドではシャルルがひと身代作りあげていた。まず彼のもって行った雑貨が非常によく売れた。たちまちのうちに、シャルルは、六千ドルの資産をたくわえた。赤道祭で水を浴びせられて以来(船が赤道を通過するとき、初めて赤道を越す船客に水がかけられた)、彼は多くの偏見を捨て去った。

財産を作る最良の方法は、熱帯地方でもヨーロッパでも同じことで、人間を売買することだ、と彼は気づいた。そこで彼は、アフリカ沿岸におもむき、黒人奴隷の取引をやった。さらにまた、利益につられて出かけて行くあちこちの市場で、もっとも有利に売買できる商品の交易を、人身売買と合わせて行なった。商売に精を出したので、暇な時間が少しもなかった。巨万の富という輝きで身をつつみつつ、パリにもう一度姿を現わしたい、自分がそこから転落した地位よりももっと高い地位をもう一度手にしたいという考えにシャルルは支配されていた。

あちこちの土地を渡り歩き、いろいろな人間と立ちまじわり、場所によって習慣がまるであべこべになるのを見た結果、彼の思想は変化し、懐疑的になった。ある国で罪になることが、べつの国では美徳になるのを見るにつけ、正しいことと正しくないことについても、固定した観念をもたなくなった。利害損得の問題にたえず首をつっこんでいたために、心は冷たくなり、縮こまり、ひからびてしまった。

シャルルの運命にも、グランデ家の血統ははっきりと現われていて、シャルルは、獲物にたいしては冷酷かつ貪欲な男になった。彼は、シナ人や、黒人や、つばめの巣や、子供や、芸人を売り、大がかりな高利貸をやった。関税をごまかすのに慣れた結果、人間の作った法律などあまり気にしなくなった。サン・トマ島にでかけて行って、海賊が盗んできた品物を安値で買いたたきその品物が不足している場所にもって行った。

たしかに最初の航海のときは、スペインの水夫が船にもち込む聖母マリヤの絵姿のように、ウージェニーの清らかで高貴なおもかげを胸に秘めていたし、はじめから商売がうまく行ったのも、あの優しい娘が願をかけ、祈ってくれているおかげだと思っていた。しかし、時間がたつにつれ、黒人女性、黒人と白人の混血女性、白人の女、ジャヴァの女、エジプトの舞姫など、あらゆる肌の色の女相手に快楽にふけり、さまざまな国で情事を経験した結果、いとこのこと、ソーミュールのこと、屋敷のこと、腰掛けのこと、廊下でかわした接吻のこと、などみんな思い出から消えてしまった。彼はただ塀にとりかこまれた小さな庭のことだけは覚えていた。自分の危なっかしい運命がはじまったのはそこからだったから。

しかしシャルルは、伯父の一家のことを親類だともべつに思っていなかった。伯父は、自分から装身具を取りあげた因業爺いである。ウージェニーのことは、彼の心にも考えにも入っていなかった。ただ六千フランの債権者として、商売の取引さきの中に入っていただけである。シャルル・グランデが手紙をよこさなかったのは、このような行動、このようなものの考え方のせいだった。
Some line breaks have been made.

講談社 高山鉄男訳『豪華版 世界文学全集―4 バルザック』所収『ウージェニー・グランデ』P472-473

もう最悪です。最悪ですねこの男は。

ですが、時代の風潮から言えば彼のような人間はまったく珍しくはなかったのでしょう。

上に挙げた引用のように、それは時代精神であり、教育として子どもの時から叩き込まれるものなのです。そして成長した後も実地でその経験を積み、その考え方は血肉となっていく。

なんとも痛ましい人間形成のループです。

そしてこの引用の中に、

「あちこちの土地を渡り歩き、いろいろな人間と立ちまじわり、場所によって習慣がまるであべこべになるのを見た結果、彼の思想は変化し、懐疑的になった。ある国で罪になることが、べつの国では美徳になるのを見るにつけ、正しいことと正しくないことについても、固定した観念をもたなくなった。」

という箇所がありますが、ここが特に重要です。

何が善で何が悪かは絶対的なものではない。ある場所、ある状況ではそれがひっくり返りうる。

これはまさしく『罪と罰』で問われていく問題であります。

ドストエフスキーは若い頃からたくさんの文学を摂取して学びを続けていました。

彼が後に作家として活躍し、世界史に残る偉大な傑作を次々と残していけたのも、若き日に摂取した物語がドストエフスキーの人生経験の中で熟成し、彼自身のものとして浮かび上がってきたからこそであります。

彼が何を読み、どう感じたかを知ることはドストエフスキーの人生遍歴を知ることでもあります。

私にとって、ドストエフスキーが親しく読んでいた作品を見ていく楽しみはこういうところにあります。

『ウージェニー・グランデ』、非常に興味深い作品でありました。

以上、「バルザック『ウージェニー・グランデ』守銭奴の父と素朴な愛を貫く高潔な娘の物語」でした。

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