(21)英雄とは、そうせざるをえない運命を背負った人間である

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(21)英雄とは、そうせざるをえない運命を背負った人間である
第一部 ファンチーヌ 第七章 シャンマチウ事件 ⑶
前回の記事まででジャン・ヴァルジャンの偉大なる葛藤を見てきましたが、それでもなお彼は決心がついていません。
ですがすでに予約していた馬車が到着したことで、とにもかくにも彼は出発します。もしこの馬車をあらかじめ予約していなかったら、彼が出発していたかどうかわかりません。この時点ですでに彼の運命は動き出していたのです。
彼はどこへ行くのか?自分でも言えなかっただろう。なぜ急ぐのか?彼にもわからなかった。彼はがむしゃらに、前進して行った。どこへ?おそらくアラスへだ。だが、またほかへ行くのかもしれない。ときどき、そんな気がして、彼は身ぶるいした。
彼は深淵に飛び込むように、闇の中を突進した。何かが彼を引張った。彼のうちに起っていることを、誰も言うことができないが、いずれみんなが理解するようになるだろう。未知の暗い洞窟の中に、少なくとも一生に一度、入った経験のない者があるだろうか?
それに彼は何も決心せず、決定せず、確定せず、何もしなかったのである。彼の良心の行為のどれもが、決定的ではなかった。彼はこのときほど、いわば出発点にいたことはなかった。(中略)
はっきりと言えば、実際は、アラスへ行きたくなかったのだろう。
それでも、彼は行くのであった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P453-454
「彼は深淵に飛び込むように、闇の中を突進した。何かが彼を引張った」
そう。まさに何かが彼を引っ張るのです。
人はそれを「運命」や「宿命」と呼ぶことでしょう。
ジャン・ヴァルジャン自身はもはや何もしていないのです。正直、アラスにも行きたくないのです。ですが、それでも彼は行くのです。
そしてここから先彼の身には不思議なことが連続して起こります。
実は上の言葉が語られた時点ですでに馬車が故障しています。モントルイユ・シュル・メールの町の出口で別の馬車が彼の馬車をひっかけてしまっていたのです。
そして途中の町で馬を休憩させた時、宿屋の小僧がこう言います。
「こんな馬車ではもうあと1キロと行けないよ」と。
そして車大工を呼びに行かせ見てもらうことになったのですが、やはりだめです。修理にはどうやっても1日はかかるとのこと。「それでは困る!今行かねばならないのだ!」と粘ってもダメです。
となれば別の馬車を貸してくれと頼むもそれもダメでした。馬車がダメなら馬だけでもいい!ですがそれもダメ・・・これで完全に万事休すです。
彼は大きな喜びを感じた。
神の意志が加わっていることは明らかだ。小型馬車の車輪をこわし、これを途中で止めたのは神の意志だ。彼はこのいわば最初の勧告に負けたのではない。旅をつづけるために、あらゆる努力をしてきたのだ。誠実に細心にあらゆる手段をつくした。季節にも、疲労にも、費用にも屈しなかった。非の打ちどころはなかった。これから先へ行かないとしても、それはもう彼のせいではない、彼のあやまちではない。彼の良心の問題ではなくて、神の意志の問題だ。
できることはすべてやった、今は静かに帰って行きさえすればいい、と彼は考えた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P463-464
そうです!この絶体絶命のピンチは彼にとっては救いだったのです!やるべきことはやった!これは神の意志なのだ。私はこのまま自白せずとも良いのだ!と本気で彼は思っています。
ですが、運命はそんなことを許しません。
たまたまジャン・ヴァルジャンの話を立ち聞きしていた少年が気を利かして、ある老婆を連れてきたのです。
「旦那さま」とその女が言った。「うちの子供の話では、馬車をお借りになりたいそうで」
子供が案内してきた老婆の言ったこの簡単な言葉を聞いて、彼の腰には冷汗が流れた。彼を放した手が、背後の闇の中にまたあらわれて、彼をつかまえようとしているかのように思われた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P464
何たることでしょう!一度解放されたかと思いきや再び彼は運命にとらえられてしまったのです。
こうして彼は再び走り出します。
ですが、ことはこれだけでは終わりません。
今度は道の途中で道路工事が行われていて大きく迂回せねばならなくなってしまいます。しかも馬はもう疲れきっていて一頭ではどうにもならなくなっていました。
そこで彼は道を一旦引き返し、新たな馬を追加で借り出発します。これですでに大きなタイムロスです。
さらに迂回した道は悪路続きで、馬車が路肩に落ちる衝撃でまたも壊れてしまいます。ですがここはジャン・ヴァルジャンの突貫修理でなんとか乗り切り走り続けますが、これも大きなタイムロスでした。
こうして走り続けたジャン・ヴァルジャンはようやくアラスの町に到着したのでありますが、なんとすでに時刻は午後8時。もう夜です。6時間で済むはずだった旅程が14時間もかかってしまいました。急がねば・・・。
ジャン・ヴァルジャンは町を歩き裁判所を探します。
ただ、彼はこの町の地理を知りません。なのであてもなく歩くことになるのですが何せ暗い夜道、彼は道に迷ってしまったのでした。
ですが彼は人に道を尋ねるのをためらいます。裁判所に着いてしまうのが怖かったのです。
とはいえいつまでもそんなことは言っていられません。彼はようやく決心し、道行く男に声を掛けます。
すると、男はこう言いました。
「裁判を見たいというのなら、ちとばかり遅いですな。普通は六時に閉廷ですよ」
おお!そうであるならばジャン・ヴァルジャンの望み通りです!彼はやるべきことはやりました。ですが間に合わなかった!これで終了です。これが彼の運命であり神の意志なのでしょう。
ですが、ここでもそれは覆されます。
なんと、裁判所に着いてみると、まだ明かりがついているのです。
「おや、あんた、間に合いましたぜ、あんたは運がいい方だ」
そう言われたジャン・ヴァルジャンはたまったものではなかったことでしょう。なんと、この日ちょうど別の案件も重なり、シャンマチウ事件の裁判のスタートが大幅に遅れていたのです。
つまり、ここでも運命はジャン・ヴァルジャンを裁判へと向かわせたのでした。本来間に合わないはずであった裁判が、たまたままだ行われていたのです。
ただ、ここでもまだトラブルが待ち受けていました。この裁判を傍聴するにもすでに満員でもう誰も入れないというのです。
とはいえ、ここでもジャン・ヴァルジャンは特別に入場することになります。本当は行きたくないのになぜか事態は彼を前へ前へと押し出してゆく・・・。やはりこれが運命なのでしょうか。
彼は法廷の隣の部屋にまでやってきました。そしてこの部屋の奥にある扉を開ければ裁判長の後ろの特別傍聴席です。
彼はひとりこの部屋に取り残されていました。扉を開ければ運命の法廷!その宿命的な場まであと一歩のところまで来ていたのです。ですが彼はここでも葛藤します。この期に及んでもまだ決断できなかったのです。
15分ほど経ちました。ジャン・ヴァルジャンは一体どうなってしまったのでしょう。
突然、彼はどうやってだか自分でもわからなかったが、ドアのそばに立っていた。痙攣したように把手を握った。ドアがあいた。
彼は傍聴室に入った。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P500
これは極めて重要です。
ドアを開けたのではないのです。ドアがあいたのです。
ここにジャン・ヴァルジャンの意志を超えた何かがあるのです。
では、ここで彼は決意したのか、それも違います。法廷に入り目にしたシャン・マチウの姿に「断じていやだ!」と恐怖するのです。徒刑囚の地獄の日々のトラウマが彼を襲ったのでありました。
呆然自失のジャン・ヴァルジャン。
ですがそんな彼をよそに裁判は続いていきます。
起訴状の朗読や弁護人の陳述、検事による論告が行われ、シャンマチウ自身も自らの潔白を語ります。この間、ユゴーはあえてジャン・ヴァルジャンの心情を描いていません。おそらく彼はまさに自身の心の中で戦っていたのでしょう。
そしてそのシャンマチウをジャン・ヴァルジャンだと言い張る元囚人たちの証言がなされ、完全に有罪が確定せんとしたその瞬間、ついに彼が声を上げます。
ここでついに彼は決心し、「私がジャン・ヴァルジャン」だと自白するのです。
いかがでしょうか、これがシャンマチウ事件の結末です。彼の葛藤がいかに巨大なものであったかがよくわかったのではないでしょうか。ミュージカル映画ではものの数分で決着がついたこの事件ですが、原作では最後の最後まで悩み続けたのがこの出来事だったのです。
そして私はこうしたジャン・ヴァルジャンを見ていて、英雄とは何たる存在なのかということを考えずにはいられませんでした。
英雄といえば、戦場で無数の敵をなぎ倒す豪傑をイメージしてしまいがちですが、それだけではありません。
ジャン・ヴァルジャンは苦悩を背負い、葛藤し続けました。そして最終的に偉大な決断を下します。
そしてそんな彼の人生を表すかのように、運命は彼を動かし続けたのでありました。
馬車が壊れてもなぜか代わりの馬車が現われ、終わっているはずの裁判がたまたま続いていた・・・。
彼は悩みました。ですが、最終的に選んだのは高潔な道です。どんなに悩もうと、最終的に彼はそれを選ぶのです。いや、選ばざるをえないような人生を彼は生きています。
この後もジャン・ヴァルジャンは悩みながらも偉大な決断を下していきます。その決断も、選ばざるを得ないような運命だったとしか思えないものがあります。英雄とはきっとそういうものなのでしょう。他の選択肢を選ぶことができないような運命を背負った人間。それが英雄なのではないか。私はそんなことを思うのです。
私は今年、浄土真宗の開祖親鸞聖人の伝記『親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』を執筆しましたが、その親鸞聖人もまさにそういうお方だったと私は信じています。
ジャン・ヴァルジャンにせよ親鸞聖人にせよ、敵をなぎ倒すタイプの英雄ではありません。ですが、偉大なる運命と苦悩を背負った英雄であることは間違いないと私は思うのです。
シャンマチウ事件で起きた数々の偶然はジャン・ヴァルジャンを「そうせざるをえない決断」に導くものでありました。そしてそれはこれからの展開でも多々起きてきます。そのことに注目しながらこれからの物語も注目していきたいと思います。
続く
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