(20)ジャン・ヴァルジャンが大切な燭台を燃やそうとした⁉まさかの大事件

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(20)ジャン・ヴァルジャンが大切な燭台を燃やそうとした⁉まさかの大事件
第一部 ファンチーヌ 第七章 シャンマチウ事件 ⑵
前回の記事でシャン・マチウ事件におけるジャン・ヴァルジャンの葛藤について見ていきました。
そしてその最後にお話ししましたように、ジャン・ヴァルジャンは信じられないような行動を取ります。
なんと、あの大切な燭台を燃やそうとしてしまうのです。
レミゼの根幹とも言えるこの燭台を燃やそうとした!これは想像を絶する事件です。シャン・マチウ事件はそれほどまでに彼を追い詰めていたのです。
では、これよりその顛末を見ていくことにしましょう。
ここから引用するのは前回の記事で紹介した部分の続きになります。
彼は立ち上がり、またも歩き出した。今度は満足のような気がした。
ダイヤモンドは地下の暗闇の中でしか発見されない。真理は思想の深淵の中にのみ見いだされる。その深淵の中に降り、暗闇の最も暗いところで長い間探ったあとで、彼はついにそうしたダイヤモンドの一つ、そうした真理の一つを発見し、拾い上げたかのように思われた。そうしてそれを見つめて、目がくらむような気がした。
「そうだ」と彼は考えた。「こいつだ。俺は正しい。これが解決だ。結局、何かをつかまなくてはならない。決心がついた。成り行きにまかそう!もう迷うまい。退くまい。これはみんなのためであって、俺のためではない。俺はマドレーヌだ、これからもマドレーヌのままだ、ジャン・ヴァルジャンである男に災いあれ!そいつはもう俺ではない。俺はそんな人間を知らない。もうそれが何者だかわからない。今、誰かがジャン・ヴァルジャンになっているなら、その男が自分で始末したらいい!俺には関係がない。それは闇に漂う宿命の名前だ。その名前が誰かの頭上に落ちてきたとしたら、その男の運が悪いのだ!」
彼は暖炉の上の小さな鏡をながめて、言った。「おや!決心がついたもんで、安心したんだな!顔つきがまるで変ってしまった」
彼はなお数歩あるいてから、急に立ち止った。
「さあ!」と彼は言った。「決心したからには、結果がどうあろうともためらってはいけない。俺をあのジャン・ヴァルジャンに結びつける糸はまだある。それを断ち切らなくては!ここに、この部屋の中に、俺を告発するような物が、証拠となるかもしれない無言の品物がある。そうだ、そいつをすっかりなくしてしまわなくてはならない」
彼はポケットを探り、財布を引出し、それをあけて、小さな鍵を取った。この鍵を一つの錠前にさしこんだが、その穴は壁紙を蔽っている模様のうちで最も暗い色に紛れて、ほとんど見えなかった。壁の隅と暖炉の棚の間に設けられた秘密の戸棚のような、隠し場がひらかれた。その隠し場には、青い木綿の仕事着、古ズボン、古い背嚢、両端に鉄のついている太い茨の杖のような、取るに足りないものしか入っていなかった。一八一五年十月に、ディーニュを横切ったジャン・ヴァルジャンを見た人なら、このみじめな身なりの品々を、すぐに思い出したことだろう。
彼は自分の出発点をいつでも思い出せるように、銀の燭台を残しておいたように、これらも残しておいたのだ。ただ徒刑場から持ってきたこうしたものは隠しておき、司教からもらった燭台は見えるところに出しておいたのだ。
閂をかけておいたくせに、あきはしないかと恐れでもするかのように、彼はドアの方をちらりと見た。それから、長年、危険を冒して大切そうにしまっておいたこれらのものに目もくれずに、すばやくひとかかえにしてぼろ服も、杖も、背嚢も、みんな火の中に投げ込んでしまった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P437-438
いかがでしょうか、ジャン・ヴァルジャンは完全に口をつむぐつもりです。ここからどう我々の知る高潔な決断が生まれてくるのか気になるところですよね。
それにしても、冒頭の「ダイヤモンドは地下の暗闇の中でしか発見されない。真理は思想の深淵の中にのみ見いだされる」という言葉はあまりにお洒落ですよね。こういう格好良い言葉が要所要所で置かれている所にも私は痺れています。
では、いよいよ問題のシーンへと突入していくことにしましょう。
しばらくすると、部屋と正面の壁は、赤く揺らめく大きな火影で明るくなった。何もかも燃えていた。茨の杖はぱちぱちと音を立てて、部屋の中央まで火花を飛び散らした。
背嚢は、中に入っていた汚ならしいぼろと一緒に燃えたが、灰の中に何か光るものが出てきた。近づいて見れば、それは銀貨であることがすぐにわかっただろう。あのサヴォワの少年から盗んだ四十スーの銀貨にちがいなかった。
彼は火なんか見ようともしないで、相変らず同じ歩調で、行ったり来たりして歩いていた。突然、彼の目は、暖炉の棚の上で火影のために、ぼんやり光っている二つの燭台の上に落ちた。
「おや!」と彼は考えた。「ジャン・ヴァルジャンのすべてがまだこの中にある。こいつもこわしてしまわなくては」
彼は二つの燭台を手に取った。火が十分にあったから、それはすぐに形がくずれて、なんだかわからない地金になってしまうだろう。
彼は暖炉の上に体をかがめ、しまらくあたたまっていた。本当にいい気持だった。
「とても暖かい!」と彼は言った。
一つの燭台で、火をかきたてた。そのすぐあとで、燭台は二つとも火の中に投げこまれようとしていた。
そのとき彼の内部で叫んでいる声が聞えるような気がした。「ジャン・ヴァルジャン!ジャン・ヴァルジャン!」
彼の髪の毛が逆立った。恐ろしいことを耳にした男のようだった。
「そうだ!そのとおりだ、やってしまえ!」と声が言う。「やりかけたことをやりとげろ!その燭台をこわせ!記念品なんかなくしてしまえ!司教を忘れろ!すべてを忘れろ!シャンマチウを亡きものにせよ!やれ、それでいいのだ。喜べ!こうして、万事おさまり、きまりがつき、終りになる。ここに一人の人間がいる。どうされるかわからない老人がいる。たぶんなんにもしなかった罪のない男だろう。そいつはお前のためにひどい目に会い、お前の名前が罪悪のようにのしかかって、お前とまちがえられ、処罰され、悲惨と恐怖の中で命を終えようとしている男だ。それでいいのだ。お前は紳士のままでいろ。市長殿になりすまして、当然の尊敬を受けていろ。町を富まし、貧乏人を養い、孤児を育て、幸福で、有徳で、感服されて生きろ。そしてその間、お前が喜びと光に包まれてここで暮す間に、誰かが、お前の赤い獄衣を着て、汚辱の中でお前の名前をつけられ、徒刑場へお前の鎖を引きずっていくだろう!そうだ、これで、うまく決った!ああ、みじめな男よ」
汗が額から流れていた。彼は燭台を荒々しい目でながめた。その間にも、内部で語っている声は、終っていなかった。声はつづいた。
「ジャン・ヴァルジャン!お前の周囲にたくさんの声が起って、大騒ぎをし、声高にしゃべり、お前を祝福するだろう。また、誰にも聞えないただ一つの声があって、暗闇の中でお前を呪うだろう。さあ、聞け、恥知らず!こうした祝福は、どれも天に届くまでに落ちてしまい、呪いだけが、神まで達するだろう!」
この声は、初めはごく弱くて、彼の意識の最も暗いところから、起ってきたのだが、次第にそれは鳴りひびくような、恐ろしいものとなり、今では耳に聞えるようになった。それは彼自身から出てきて、今は彼の外で話しているように思われた。最後の言葉は、とてもはっきりと聞えたような気がして、彼は一種の恐怖心で、部屋の中を見回した。
「誰かいるのか、ここに?」と彼はすっかりうろたえて,声高に尋ねた。
それから馬鹿みたいに笑って、また言った。
「俺はなんて馬鹿なんだ!誰もいるはずがないのに」
誰かがいたのだ。だがそれは人間の目に見えない者だったのだ。
彼は燭台を暖炉の棚の上においた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P439-442
この箇所を読んで頂けましたらわかりますように、ジャン・ヴァルジャンはかなりぎりぎりのところまで来てしまっていました。
燭台で火をかき立て、あと少しで本当に燭台を投げ込んでしまうところでした。
ですがそこで彼は声を聞きます。一方は自己保身を勧める声、そしてもう一方はそれを戒める声・・・。
これは幻聴か?いや、確かにこれは現実です。心の中に響く声は現実であり、人間の目に見えない者がたしかにそこにいたのです。
こうしてギリギリのところでジャン・ヴァルジャンは踏みとどまりました。
ですがこれで解決したわけではありません。
彼は何がなんだかもうわからなくなってしまった。
今では、かわるがわるに決めた二つの決心の前で、同じような恐怖を感じて、彼はあとじさりした。彼に助言してくれた二つの観念は、どちらも不吉なように思われた。なんという宿命だ!
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P442
そうです。彼はもはやどちらを選ぶべきかわからなくなってしまったのです。今起きたことは、司教の燭台を燃やすことを食い止めることができたというだけなのです。
「天国にとどまって悪魔となるか!地獄に戻って天使となるか!」
どうしたらいいのか、ああ、どうしたらいいのか?
彼が苦しみぬいてぬけ出した苦悩は、再び彼の内部で荒れ狂った。再び考えが乱れはじめた。絶望に特有の、なんとも言えない機械的な自失状態に落ちこんだ。(中略)
ああ!彼はまたあらゆる不決断にとらえられた。初めから一歩も進んでなかったのだ。
このように、この不幸の魂は、苦悩に身もだえしていた。この不幸な男より千八百年前に、人類のあらゆる聖性と、あらゆる苦悩を、一身に集めていた神秘な人キリストも、オリーブの木々が、荒れ狂う無限の風におののいている間に、星にみちた深い空の中で、影をしたたらせ、闇をあふれさせていた恐るべき杯が差出されたのに、それをいつまでも手で押しのけていたのである。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P444-445
「彼はまたあらゆる不決断にとらえられた」
そうなのです。結局これだけ悩んでもどうすべきか決められなかったのがジャン・ヴァルジャンなのです。
ですが、この苦悩の重さがあるからこそ彼が偉大なる存在であるとユゴーは示しています。上の引用の最後に出てきたキリストの話はまさにそのことを示しています。つまり、ジャン・ヴァルジャンはイエス・キリストに比されるべき人物だということです。そして彼もイエス・キリストと同じような偉大なる苦悩を背負った人間なのです。
こうして彼は悩みに悩みましたが、結局結論は出せませんでした。
そしてこの後もひたすら部屋の中で歩き続け闘うのでありましたが午前3時ころになってさすがに限界がやってきます。なんと彼は5時間もこうして部屋の中を歩き続けていたのでした。ジャン・ヴァルジャンは椅子に崩れ落ち、そのまま眠りについてしまいます。
なんと、結局何も決められないまま終了してしまったのでありました。
そしてジャン・ヴァルジャンは夢を見ます。これがまた謎な夢ですのでここでは深入りしませんが、この眠りから目を覚ますと外に馬車が来ていることに気付きます。寝ぼけていた彼にはこの馬車が何のことやらさっぱりわかりませんでしたが、何てことはありません。彼自身が予約していた馬車が到着したのです。つまり、朝の4時半です。
先程の葛藤ですっかり頭が混乱していたジャン・ヴァルジャンはまだ事態が呑み込めません。門番の老婆から「スコーフレール」の名前を聞いてようやく我に返ったのでした。
そして彼は言います。
「よし、今行く、と言ってくれ」
つまり彼は決断しないまま成り行き上アラスの裁判所に行くことになったのです。前回の記事でミュージカル版との違いをお話ししましたが、ここでもその違いは大きいです。
そしてここから先アラスに行くまでにもジャンヴァルジャンには様々な出来事が起こります。これまたレミゼにおける重要なテーマでありますので次の記事でもじっくり考えていきたいと思います。
続く
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