(7)カラマーゾフのキーマン、ゾシマ長老とは何者なのか

「カラマーゾフを読む」(7)カラマーゾフのキーマン、ゾシマ長老とは何者なのか
第一編 ある家族の歴史 五 長老
いよいよこの物語の鍵となるゾシマ長老のお出ましです。
ですが、この章はアリョーシャの風貌からスタートするという意外な展開。
しかし、これもドストエフスキーの一計です。偉大なる長老を引き立たせるには彼を尊敬するアリョーシャの存在が不可欠です。「王が王とわかるのは、そこにかしずく人間がいるからだ」いう言葉を演劇関係の本で読んだ記憶があります。その人が何者であるかを知るためにはやはりすぐそばにいる人間が大事なのです。
そしてこれまた重要なのがアリョーシャの風貌です。ここまでこの物語を読んだ方はアリョーシャを「青白い夢想家で、虚弱な瘦せこけた人間」であるかのように思ってしまいがちなのではないでしょうか。
ドストエフスキーもそれを見越して「いいや、彼は頬が赤く、明るいまなざしをした、健康に燃えんばかりの体格のよい十九歳の青年だった」と断言するのです。
つまり、アリョーシャは極めて健全な肉体の持ち主であったのです。そのアリョーシャが精神的な世界に強く惹かれているというところがミソなのです。
そしてさらに重要なことが語られます。
それがアリョーシャが「誰にもまして現実主義者であった」ということです。
これはこの物語において極めて重要なポイントです。
現実主義者にあっては、信仰が奇跡から生れるのではなく、奇跡が信仰から生れるのである。現実主義者がいったん信じたなら、まさしく自己の現実主義によって必ず奇跡をも認めるはずである。
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P58
私たちはふつう、奇跡を目にしたから信仰すると考えてしまいがちです。つまり、常識では考えられないことが目の前に起きて初めて信じようと思い始めるのです。
しかし現実主義者アリョーシャは違います。彼が信じ始めるのに奇跡は必要ないのです。アリョーシャに道を開いたゾシマ長老は、彼に奇跡を見せてはいません。ただ溢れ出るその人柄によって彼は信仰の道に入ったのです。そして信仰の道に入ったからこそ、奇跡が起きたとしてもそれを奇跡として信じるのみなのです。つまり、アリョーシャは奇跡がなければ信じないという人間ではないということです。
何度も言いますがこれは極めて重要なポイントです。アリョーシャの信仰は普通の一般民衆とはかなり異なります。後にゾシマ長老を慕う民衆の描写が出てくるのですが、その大多数が奇跡を求めて熱狂しています。それはそれで素朴な信仰としてドストエフスキーは否定はしないのですが、もし奇跡が起きなければ彼らにとって信仰は全く無価値なものになってしまうことでしょう。そうした危うさをドストエフスキーは見抜いています。
だからこそドストエフスキーはアリョーシャを通して、そうした危うさに打ち勝つキリスト者をイメージしたのではないでしょうか。
ただ、ドストエフスキーもこれをわかってもらうにはかなり慎重になったようで、その後も「ひょっとすると、アリョーシャは鈍いのだとか、発育が遅れているとか、学校も終えていないとかと、言う人があるかもしれない」と言葉を続けています。
この辺りのアリョーシャの解説はある程度宗教の勉強を積んだ人であるならば「ふむふむ」とすんなり入ってくるでしょうが、全く宗教の世界と関わったことのない方にはやはりピンとこない箇所かもしれません。
そういう時は思い切って流し読みすることです。無理に全部わかる必要はありません。もし「もっと知りたい!」と思ったなら参考書を読めばよいと思います。まずは楽しみながら読み切ることです。
ここではまずアリョーシャがロシアでも一風変わった求道青年だったということがわかれば十分です。
では、それがわかったところでゾシマ長老がいよいよ登場します。
・・・しかしこれがまた19世紀の小説のまどろっこしいところで、ゾシマ長老その人の話をするかと思いきや、ロシア正教の長老制度についての歴史の話が始まってしまうのです。
たしかに、長老制度の歴史がわからなければゾシマ長老が何者かがわからないのも頷けるのですが、これも日本の読者が挫折する大きな原因のひとつとなっているでしょう。「そんな歴史解説よりも早く物語を動かしてくれ!」そんな声が聞こえてきそうです。
まあ、この辺りもざっくり流して頂いても問題ないのですが、ここで語られるオープチナ修道院はぜひ知っておいて頂きたいです。

ドストエフスキーはこの『カラマーゾフの兄弟』執筆に先立ってこのオープチナ修道院を訪れています。彼がここを訪れたのは他ではありません。最愛の息子アリョーシャを喪った悲しみを癒すためにドストエフスキーはここを訪れたのです。
ここはロシア正教における最も権威ある修道院のひとつであり、多くの著名な長老を輩出している聖地です。そしてさらに、ここはロシアを代表する作家ゴーゴリやトルストイが訪れたことでも有名です。
ここで出会った長老アンブローシーにドストエフスキーは大きな感銘を受けます。
『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老のモデル造形にはこのアンブローシー長老が大きな影響を与えていると言われています。もちろん、ゾシマ長老=アンブローシー長老ではありません。ドストエフスキーは歴史上の様々な長老の姿を重ね合わせてゾシマ長老を作り上げています。ですが、ここでの体験がなければ『カラマーゾフの兄弟』の豊かな描写、物語は生まれていなかったでしょう。それほどここでの体験はドストエフスキーにとって大きなものがあったのです。
この後、子を失った母に優しく声をかけるゾシマ長老のシーンが出てきます。これはまさにここでドストエフスキーが長老からかけてもらった言葉そのものだそうです。
そしてもう一つ。お気づきの方もおられると思いますが、『カラマーゾフの兄弟』の主人公の名もアリョーシャです。そしてゾシマとアリョーシャは師弟関係です。アリョーシャは善良な修道士見習いで、優しいゾシマ長老に可愛がられています。
最愛の子アリョーシャを失ったドストエフスキーが最後の大作の主人公の名に選んだのがアリョーシャであり、その彼を優しく教え導くのがゾシマ長老なのです。この構図は極めて重要な意味を持つのではないでしょうか。
そしてゾシマの長老としての顔を知る上で重要なのが次の箇所です。
アリョーシャはほとんどいつも気づいていたが、はじめて差向いの話をするために長老を訪れる多くの者が、ほとんど全部と言ってよいくらい、入って行くときには恐れと不安に包まれているのに、長老の部屋から出てくるときにはたいていの場合、晴ればれとした嬉しそうな顔になっており、どんなに暗い顔も幸せそうな顔に変わっているのだった。長老がまるきり厳格でなく、むしろ反対にほとんどいつも応対が快活であることも、並みはずれてアリョーシャの心を打った。修道僧たちは長老のことを噂して、長老は罪深い者ほど愛着をおぼえ、いちばん罪深い人間を、だれよりも愛するのだと語っていた。
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P67
暗い顔をした人が幸せそうな顔をして部屋から出てくる。ゾシマ長老の偉大さが端的に示されていますよね。また、これをアリョーシャからの視点で書いているのもドストエフスキーの巧みさがあります。
しかもゾシマが厳格ではなく、快活であること、そして罪深い者ほど愛着をおぼえるという点は重要です。私はこの箇所を読むと浄土宗の開祖法然上人を連想してしまいます。結論から言ってしまうと、私はゾシマとアリョーシャの関係性が法然と親鸞にしか見えないのです。これについては後に改めてお話ししていくつもりですが、浄土真宗僧侶である私にとってこの二人の関係性はあまりに衝撃的なものでした。
そしてここからゾシマ長老と奇跡についての人々の期待が語られますが、これが後の大事件の伏線となっていきます。ゾシマ長老と奇跡の問題はこの物語の根幹に関わる問題ですので、ここはぜひ読み流さずじっくりと読まれることをおすすめします。
続く
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