(20)お経はいつから書かれ始めた?その意外な始まりと大乗仏教誕生の関係について

『シン日本仏教史』(20)お経はいつから書かれ始めた?その意外な始まりと大乗仏教誕生の関係について
前回の記事では大乗仏教の始まりについてお話ししましたが、今回の記事ではその背景となったある興味深い出来事についてお話ししていきます。
さて、突然ですが皆さんに質問です。
今回の記事のタイトルにもありますが、お経が書かれるようになったのはいつ頃からだと思いますでしょうか。
ここで重要なのは、「お経ができたのはいつか」ではなく、「お経が書かれるようになったのはいつか」ということです。

私達はお経と言いますと上の写真のように、紙に書かれたお経をイメージしてしまいますが、実はお経はそもそも暗誦するものであり、文字化されるべきものではなかったのです。ですがある時点からそのお経が文字化され、私達がイメージするような形で書写されるようになったのです。
では、それがいつかと言いますと、紀元前1世紀頃、そしてその場所はスリランカのお寺でありました。
いかがでしょうか。意外ですよね。書写が始まった時期も意外ですがその場所がスリランカというのは驚かれた方も多いのではないでしょうか。インドではないというのは意外ですよね。
ですがこれには様々な歴史的な事情が含まれています。
今回の記事ではそんな世界初の経典書写が行われたその背景と、そこからどんな変化が世界に起こったかを紹介していきます。日本ではあまり知られていないこの出来事ですが、まさに世界を変えた巨大な事件でした。私達の日本仏教にもこれは直接関わってきますのでぜひじっくりとその過程を見ていくことにしましょう。
仏典が初めて書写された歴史的な寺院、アルヴィハーラ

スリランカ中央部に位置するアルヴイハーラ。
私は2022年にここを訪れました。
この寺院が歴史上有名になったのは、ここで世界の仏教史上初の経典書写が行われたからです。このことについて『新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア 静と動の仏教』では次のように解説されています。
スリランカ仏教史上画期的な事業といえば、前一世紀ヴァッタガーマニー・アバヤ王の時代に行われた「仏典書写」事業であろう。それまで暗誦で伝えられてきた仏陀の教えを文字に書写したのである。
なぜ「仏典書写」が必要であったかは、文献には論じられていないが、次のような事情があったものと考えられる。
まず、スリランカの歴史は常に外国、特に南インドからの侵略を受けてきた。治世者である王がシンハラ人(※ブログ筆者注:スリランカの仏教徒)でない場合、仏教の衰退が続き、それのみならず仏典を暗誦保持する比丘が少なくなってしまう。
次に、十二年間続いた未曾有の飢饉体験である。この間比丘の数が少なくなり、正法護持丘教団が堕落した現実もあった。
そして、マハーヴィハーラ寺のライバルとなったアバヤギリ寺の建立である(E.W. Adikaram, 1946)。
《※ブログ筆者注:マハーヴィハーラ寺はスリランカに仏教を導入したティッサ王がアヌラーダプラに建てた寺院で、そしてそのお寺を中心とした宗派をマハーヴィハーラ派といいます。そこから分裂してできたのがアバヤギリ寺派です。このスリランカの仏教宗派については後の記事で改めてお話していきます》
これらの原因に加えて、政治的な要素も多分あったと考えられる。同じシンハラ王でも、特にアバヤギリ寺の建立で、必ずしもマハーヴィハーラ寺のみをサポートするとは限らない。ヴァッタガーマニー・アバヤ王がその通例である。また、同じマハーヴィハーラ寺派内部での意見の相異も考えられる。正法久住の大役を理解していた比丘たちもあったことは、容易に窺える。
これら複数の理由があって、マハーヴィハーラ寺派の有志五百人の比丘たちは、正法を久住せしめんがために、島の中央部にある、現在のマータレー郡アルヴィハーラという場所にある窟院で、仏典を書写したという。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
佼成出版社、奈良康明、下田正弘編集『新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア 静と動の仏教』P121-122
この引用内には書かれていませんが、このアルヴィハーラでの仏典書写はスリランカだけでなく、インド本土においても初だったとされています。紀元前1世紀のことでありました。
インドやスリランカの宗教界の伝統では基本的に経典は暗唱するのが掟でした。そしてそれら経典は師匠から弟子へと口頭で継承されていきます。つまり、言葉を書き記すという発想がそもそもなかったのです。その鉄の掟と言ってもよい口頭伝授のスタイルを崩したのがこの仏典書写なのでありました。

そしてこちらが僧院兼展示室となっている建物です。ここに書写された経典が展示されています。

こちらがパームの葉で作られた書写経典です。長方形にそろえて束ねられています。これらの経典の寿命は長くて2~3百年ほど。そのため現在残っている経典は何度も書き直されたものになります。

こちらがパームの木とその制作過程を収めた写真です。

こちらが乾燥させたパームの葉。これを先ほどの長方形の形に整え、この上に書写していきます。

ガイドさんが僧院の方を読んで下さったおかげでこれから実際にパームの葉に文字を書いてくださることになりました。この写真は書写に必要なインクを用意しているところです。

アルヴィハーラ僧院の僧侶が来て下さり、実演が始まりました。先ほども見たパームの葉に鉄製のペンで文字を彫っていきます。

この段階では文字を書くというより、文字を彫るという方が正確です。

そしてここから葉の全体に先ほど用意したインクをこすりつけていきます。

するとペンで彫った溝にインクがしっかりと入り込み、文字が浮かび上がってきます。

これで完成です。「Takahio Ueda」になっていますがまあこれくらいは気にしません。
このようにして仏典も書写されていったのです。その制作過程を間近で見ることができたのはとてもありがたい経験でありました。
さて、ここまでアルヴィハーラの書写経典について見てきましたが、いよいよ問題の核心へと入っていきましょう。
その核心とは「仏教世界における初めての経典書写が後の大乗仏教経典誕生の大きな要因となったのではないか」というものです。
前回の記事でもお話ししましたが、大乗仏教経典は紀元1世紀頃から生まれ始めたとされる経典群で、『般若経』や『法華経』、『阿弥陀経』など私達日本仏教の根幹となっているお経のことです。そして重要なポイントとして、紀元前1世紀にスリランカで始まった経典書写がこれら大乗経典の誕生に大きな影響を与えた可能性が高いのです。
先ほども述べましたように、インドやスリランカの宗教界ではその経典は暗唱されることが前提とされていて、経典を文字化するなど想像すらしていなかったのでありました。これは仏教だけでなく、ヒンドゥー教やジャイナ教もそうでありインド文化圏の当然の常識だったのでありました。
そんな中、スリランカのマハーヴィハーラ派では仏教の教えを伝授することが危機的な状況に陥り、やむなく経典書写を開始したのです。なんと、経典書写は「やむなく」始められたのです。ですが、これによりマハーヴィハーラ派はなんとかその教えを守ることに成功したのでありました。
ただ、問題はその後です。
これまでタブーとされてきた経典書写が行われたことで、インド・スリランカ文化圏でこれまで想像もしていなかったことが起こり始めたのです。
このことを考えるためにまずは馬場紀寿著『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』の次の解説を見ていきましょう。
インド仏典は、もともと口頭伝承だった。およそ五世紀にわたって仏典は口頭でのみ伝承されたのであり、紀元前後にいたってようやく書写され始めた。しかも、書写は伝承の補助的手段であって、仏典伝承の中心は口伝であり続けた。
仏典が口頭伝承だったということは、仏典が外在物としての書物ではなく、記憶して実践されるべきテクストであることにかかわっている。たとえば、仏典を指す「法」は「保持すべきもの」を原意とし、「教法」は「修得」を原意として、いずれも「記憶し、身につけ、実践するもの」を意味する。「阿含」は、文字どおり、口頭による「伝承」を意味する。これら仏典をよく学んだ者は「多聞」と呼ばれ、弟子は「声聞」と呼ばれた。これらの語は、口伝のテクストの学習と実践が仏教の修行だったことをよく示している。(中略)
仏典が口頭伝承だったからこそ、仏教における帰依の対象は「仏」と「法」と「僧」という三宝であって、一つに絞られなかった。出家教団(僧)が仏典を伝承することによって「法」が存続し、「法」の読誦によってすでに入滅した「仏」が聴衆の前に生き生きと現前したからである。
※単語の原語など、本書の一部を省略して引用した。
東京大学出版会、馬場紀寿『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』P31
まず、仏典書写が始まったとしてもそれが主流にはならずあくまで補助的手段だったということは重要なポイントです。
そしてここで注目したいのが、インドの伝統では「言葉」は単なる言葉を超えた「聖なるもの」だったという点です。言葉と宗教の繋がりについては川村悠人著『ことばと呪力 ヴェーダ神話を解く』に詳しく説かれていますが、仏教においても仏典の言葉は聖なる力そのものでもあったのでありました。
そしてその聖なる言葉を学ぶためには出家してその教団の一員になるしかありません。なぜなら文字に書き残されていない以上、その仏典を知る先達から直接習わなければならないからです。だからこそ仏教では「仏・法・僧(教団)」の三宝を篤く敬うのです。師匠から弟子へ代々受け継ぎ、記憶するのが仏教僧侶の役目であり、修行そのものだったのでありました。
こうした師匠相承の口頭文化についてウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』では次のような興味深い指摘がなされています。
ことばがもっぱら声として機能している社会は、何年もかけて根気よく習得したことを、たいへんなエネルギーを投入して、何度も何度もくりかえし口に出して言っていなくてはならない。
その結果、精神はきわめて伝統主義的で保守的な構えをとることになる。当然この精神は、知的な実験を禁止してしまう。
知識は、得がたく貴重なものであり、専門に知識を保存している博識の古老たちが、この社会ではたかく評価される。かれらは、古い時代の話を知っていて物語ることができるからである。
知識を精神の外側にたくわえる、つまり、書き、さらには印刷するようになることによって、過去の再現者であるこれら博識の古老たちの値打ちはさがり、そのかわりに、なにか新しいことの発見者である若者たちの値打ちがあがるのである。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
藤原書店、ウォルター・J・オング、桜井尚文他訳『声の文化と文字の文化』P92
これはまさにインド・スリランカの宗教界にもまさに当てはまります。厳格なヒンドゥー教宗派では今なお師子相承が重んじられ、聖典『リグ・ウェーダ』が現在でも暗唱されています。
同じように仏教においてもこのような知識の継承を膨大なエネルギーを費やして行っていました。その一つの方策として、暗記しやすいように言葉をシンプルに繰り返すというものがあります。その例がこちらです。
六八 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力を具え、犀の角のようにただ独り歩め。
七一 音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
岩波書店、中村元訳『ブッダのことば』第一、蛇の章、三.犀の角 p21,22
こちらは開祖ブッダの言葉に最も近いと言われるお経からの抜粋だが、暗記しやすいように「犀の角のようにただ一人歩め」というフレーズが何度も繰り返されます。初期経典とされるもののほとんどがこのようなシンプルなフレーズの繰り返しでできているのはこうした口頭伝承の文化があったからなのです。
そして上の解説にもあったように、莫大なエネルギーを用いて記憶するということはそこから創造的な思考をする余地がほとんどないということでもあります。元々創造的な思考など当時は求められていないという事情もありますが、こうして伝統教団は教えを保持し続けてきたのでありました。
しかしそこに「書写」というタブーを破る営みが生まれてきました。
これにより何が生まれたかといいますと、まさしく教えを分析、研究し、新しく創造する余地だったのです。引き続き解説を見ていきましょう。
研究するということそれ自身が、書くことに関係があるからである。一次的な声の文化における思考も含め、およそすべての思考は、ある程度分析的である。すなわち思考は、その材料をさまざまな成分に分解する。
しかしながら、さまざまな事実や、真偽にかかわる言明を、抽象的に順序づけ、分類し、説明して分析することは(すなわち、それが研究するということなのだが)、書いたり読んだりすることなしには不可能である。
一次的な声の文化のなかで生活する人びとは、(中略)多くのことを学び、おおいなる知恵を身につけ、それを実践している。しかし、かれらは「研究」することはない。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
藤原書店、ウォルター・J・オング、桜井尚文他訳『声の文化と文字の文化』P26-27
書くことによって師子相承の全文暗記に頼る必要がなくなりました。そしてそれによって時間とエネルギーを他のことに割くことができるようになります。しかも文字化することで様々な概念を同時に見て比較し、自由に思索できるようになったのです。これは従来の在り方と決定的に異なるものでありました。ウォルター・J・オングはこのことについてさらにこう述べています。
読み書きができる人は、読み書きを知らない純粋に声の文化に属する人びとにとってことばがどういうものであるかということを、十分に想像することができなくなっている。
藤原書店、ウォルター・J・オング、桜井尚文他訳『声の文化と文字の文化』P34
つまり、文字を用いてしまった者は、声だけの世界に生きる人間とは全く別の世界を生きることになってしまうのです。
こうしてこれまでとは全く別の思想が生まれる素地が仏典書写によって形成されたのでありました。
もちろん、先に述べたようにその後も仏教教団の主流は口頭伝承でした。書写はあくまで補助的なものにすぎず、好ましいものとしては扱われませんでした。だからこそ大乗経典が生まれるまでに時間がかかり、その勢力が増すまでに長い時間がかかったのです。
また、この仏典書写は後の紀元1世紀頃より始まった仏像制作の開始と発展とも相交わり、さらには「経典書写」の功徳という新たな概念も生み出すことになりました。暗唱すべき教えが「読み書き」する教えへと変貌を遂げるのです。
平成13年10月発行の駒澤大学佛教学論集第32号収録の朴点淑「第四結集はあったか」という論文でこの辺りの流れがわかりやすく解説されているのでおすすめです。その論文の結論部分では次のようにまとめられています。
文字化されたことによって経典が普及し、在家信者の目にふれるものとなって行き、それまでの口授による集団的組織的信仰形態から経典を書写・読誦するという個人レベルへの信仰の実践が可能になった。(中略)
書写が行われたということは、大乗仏教を導き出す重大な要因のひとつともなり、新しい実践行法として経典伝承の形にも影響を及ぼしたと考えられる。
平成13年10月発行、駒澤大学佛教学論集第32号収録の朴点淑「第四結集はあったか」より
「教団という集団組織から個人レベルの信仰へ」というのは非常に重要なポイントであるように思います。これは私達日本仏教の側にとっても大きな問題提起ではないでしょうか。「大乗仏教=すべての人を救うための仏教」というイメージがあるかもしれませんが、こうしたひとりひとりの個人レベルの信仰という側面からも見ることができるのです。
浄土真宗の開祖親鸞聖人も阿弥陀仏による救済を「親鸞一人がためなり」と表現していますがまさにこことつながってくるのかもしれません。
いずれにせよ、スリランカで始まった経典書写が大乗仏教の誕生に大いに影響を与えたことはかなり可能性の高いものと考えられましょう。
従来は暗記しやすいフレーズの繰り返しであったお経が、大乗仏教になって一気に長大な物語へと変わっていったのもここに根があります。書き残すことによって、それまで暗記に使っていたエネルギーを創造に向けることができた。また、視覚的にもすぐに参照し比較対象できることでより深い思索ができるようになった。これは従来のものの考え方とは決定的に異なる営みです。
また、前回の記事とも重なりますが、ローマとの交流によって『イリアス』や『オデュッセイア』などの壮大なギリシャ神話や『聖書』の感動的な物語もインドにもたらされていたことでしょう。それらの物語に触発を受けたことも考えられます。
このように、様々な要因が絡み合い、大乗経典が生まれてきたと言えそうです。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
〇奈良康明『仏教史Ⅰ』山川出版社
〇『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』春秋社
〇奈良康明、下田正弘編集『新アジア仏教史04 スリランカ・東南アジア 静と動の仏教』佼成出版社
〇馬場紀寿『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』東京大学出版会
〇川村悠人『ことばと呪力 ヴェーダ神話を解く』晶文社
〇ウォルター・J・オング、桜井尚文他訳『声の文化と文字の文化』藤原書店
〇駒澤大学佛教学論集第32号収録、朴点淑「第四結集はあったか」
主要参考文献一覧
〇インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧
〇インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧
〇仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧
〇中国仏教・中国思想のおすすめ解説本一覧
〇親鸞聖人や日本仏教を学ぶためのおすすめ参考書一覧
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