(21)スターリンの生まれ故郷ジョージアのゴリへ~スターリン博物館で旧ソ連の雰囲気を感じる
【ジョージア旅行記】(21)スターリンの生地ゴリへ~スターリン博物館で旧ソ連の雰囲気を感じる
私がジョージアにやって来たのはトルストイを学ぶためであることを前回の記事でお話しした。
だが、せっかくジョージアに来たのならどうしても行きたい場所があった。
それがスターリンの生まれ故郷ゴリという町だった。
当ブログでもこれまでソ連については様々な記事を書いてきた。その中でも特にスターリンについては「スターリンに学ぶ」という連続記事もアップした。
そしてスターリンの生涯を学んでいるうちに彼の生まれ故郷ゴリに私は強い興味を持つようになったのである。
ではその彼の生まれ故郷ゴリという町はどのような場所だったのかを見ていこう。
スターリンの生まれ故郷ゴリ
ソソ(※スターリン ブログ筆者注)は典型的なゴリっ子だった。というのは、ゴリの住人たちはグルジア中に「マトラバジ」(大ロたたきの乱暴な悪党)として悪名をとどろかせていたからである。
ゴリは「絵になるような野蛮な慣わし」を続ける最後の町の一つだった。それは飛び入り自由の街頭乱闘で、特別のルールはあったが、禁じ手がなかった。どんちゃん騒ぎと祈りと喧嘩はみな、酔っ払った坊さんたちが仲裁役を務めるということで相互につながっていた。ゴリの居酒屋は、手に負えない暴力と犯罪のシチュー鍋だった。
ロシアとグルジアの行政当局は、中世グルジアが絶えず戦争をしていた時代に軍事訓練として始まった、この怪しげなスポーツを禁止しようと試みた。
ロシア軍の兵舎があったにもかかわらず、「ブリスタフ」(地元警察署長)のダヴリチェヴィと、そのわずかな警官ではほとんど対処できなかった―ゴリの手に負えない無法状態を鎮めることは誰にもできなかったのである。
殴り合いの最中、馬たちが急に駆けだし、馬車が街路上の子供たちを轢き倒すのも無理はなかった。
心理歴史学者たちはスターリンの発達の多くを酔っ払いの父親のせいにしている。しかし、この街頭乱闘の文化も同様に形成要素だった。
白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P85-86
※一部改行した
ゴリという町はとにかく強烈だ。この後も解説を見ていくが、この町はとてつもない荒くれものたちの巣窟だったのだ。
ソソの父は貧しい靴職人で酔って彼に暴力を振るう男だった。この父による暴力がスターリンの人生を決定づけたとされることが多いのだが、著者はそれだけではなくゴリのような環境要因も強力に働いていると指摘している。
路上乱闘、レスリング大会、そして学校生徒の喧嘩合戦が、ゴリの勝負の三大伝統だった。
子供に至るまでどの家の男たちも、ワインを飲み、歌いながら、夜になるまで町を練り歩いた。本当の楽しみが始まるのはそれからである。
この「フリースタイル・ボクシングの勝負」―「クリヴィ」は「ルールのある集団対決」だった。最初に三歳の男児たちがほかの三歳の男児たちと取っ組み合った。
次は子供たちが格闘した。その次は十代の少年たちが闘い、最後は大人の男たちが「信じられないような乱闘」をおっぱじめるのだった。その頃までに町は完全に収拾がつかなくなっていた。その状態は翌日まで持ち越された―学校でさえも、クラスとクラスが闘った。商店はしばしば略奪された。
ゴリの人気スポーツは、強豪たちによるグルジア・レスリング、「チダオバ」の試合だった。勝負は旧約聖書のゴリアテの物語にどこか似ていた。試合は特別に高くしたリングで「ズルナ」の伴奏に合わせて行なわれた。これは貴賎貧富、宗教、民族にかかわりなく実力だけが物をいう勝負だった。
地元の地主アミラフヴァリ侯爵のような裕福な貴族、商人、そして各村までも、お抱えの強豪選手を出場させた。これらの強豪たちはとても尊敬されていたので、話しかける時には「パラヴァニ」という称号が使われた。
スターリンの代父エグナタシヴィリ自身、強豪三兄弟の一人だった。今や年をとり、そして金持ちだったので、「パラヴァニ」エグナタシヴィリはお抱えの強豪選手たちを出場させていた。老年になってからも、スターリンは代父の格闘技の勝利をまだ自慢していた。
白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P87-88
※一部改行した
小さな子供から大人まで町中で何でもありの乱闘を繰り広げるのが伝統という、現代日本に住む私たちには想像を絶する世界がそこにあったのだ。
そしてここで重要なのは「貴賎貧富、宗教、民族にかかわりなく実力だけが物をいう」価値観があり、強さを追い求める精神性がこの町では特に求められたということだ。
こうした中で育った人間と、秩序と優しさを重んじる環境で育った人間とではだいぶ人間の性格が変わってくるというのは想像に難くない。
今回引用した箇所の最後にスターリンの代父が出てきたが、暴力を振るう父親があまりに危険なためスターリン家から引き離されることになっていたのだ。だが母だけだと経済的に厳しかったため、実質的な代父としてエグナタシヴィリがスターリン家を支援することになっていたのだった。
ちなみにスターリンの母ケケは美人で有名で、なおかつ気さくで真面目な人だったそう。そしてスターリンを溺愛する教育ママだった。ケケはスターリンを神父にしたいと考え、彼に教育を授けた。だが、その教育によってスターリンは教養を手にし、後には独裁者となるなどとはまったく想像もつかなかったことだろう・・・
そして神学校に進んだスターリン。ロシア朝廷があった当時、神学校ではマルクス主義の本は革命的であるとして読むのを禁止されていた。
さらに、神学校ということで規律も厳しく、そういった類の本を読まないよう「黒点」とあだ名される厳しい職員によって常に監視されていたのだった。
スターリンはヴィクトル・ユゴーの小説、とくに『一七九三年』を発見した。その主人公、革命派の僧侶シムールダンは彼の原型の一つになるだろう。しかし、ユゴーは神学校の教師たちから厳禁されていた。
夜になると、「黒点」が廊下を巡回し、消灯されているか、読書をしていないか、あるいはほかの自堕落な悪徳にふけっていないか、絶えず点検していた。彼がいなくなるとたちまち生徒たちはロウソクを点け、読書を再開した。
ソソはその典型で、「読書をしすぎて、ほとんどまったく眠らず、目がショボショボしていて顔色が悪かった。彼が咳をし始めると」、イレマシヴィリが「彼の手から本を取り上げ、ロウソクを吹き消した」。(中略)
若いスターリンは、急進的な若者たちの間でセンセーションを巻き起こしたロシアの作家たちから、さらにもっと影響を受けた―ニコライ・ネクラーソフの詩とチェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』である。
後者の主人公ラフメートフはスターリンにとって断固たる禁欲主義的革命家の原型になった。ラフメートフと同じように、スターリンは自分を「特別の人間」と見なすようになった。
まもなくスターリンは、別の禁書を読んでいる現場を「学校の階段の上で」取り押さえられ、そのために「校長命令で、監禁室への時間延長収容と厳しい叱責」を受けた。
彼は「ゾラを崇拝していた」。このパリ作家の小説で彼のお気に入りは『ジェルミナール』だった。彼はシラー、モーパッサン、バルザック、サッカレーの『虚栄の市』を翻訳で、プラトンをギリシャ語の原典で読み、ロシア史とフランス史を読んだ。
そしてこれらの本をほかの生徒たちに回した。彼はゴーゴリ、サルティコフ=シチェドリン、チェーホフを熱愛し、その作品を暗記した。そして「暗唱することができた」。
トルストイに感嘆したが、「そのキリスト教には退屈した」。後年彼は、贖罪と救済に関するトルストイの瞑想のかたわらに「ハハハ」と書きなぐることになる。
革命の陰謀と裏切りに関するドストエフスキーの傑作『悪霊』の一冊にはたくさん印をつけた。
これらの本は神学生たちのサープリスの下にくくりつけてひそかに持ち込まれた。後にスターリンは冗談で、これらの本の何冊かは革命のために書店から「収奪」(万引き)しなければならなかったと語った。
白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P121-123
※一部改行した
若きスターリンの恐るべき読書欲がここからうかがわれる。彼は晩年にいたるまで読書を続け、その教養は一流の文化人にも匹敵するほどだったそうだ。
そしてスターリンが読んでいた本というのも興味深い。
チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』はレーニンもバイブルとして愛読していた。スターリンも同じようにこの書物から多大な影響を受けていたようだ。
ユゴーの『一七九三年』、ゾラの『ジェルミナール』は当ブログでも以前紹介した。
マルクス主義を信ずるということは科学や合理性を重んじることにつながる。そうした面でもゾラの作品と親和性があったのかもしれない。実際、『ジェルミナール』は抑圧された労働者の戦いの物語なので、マルクス主義者にも非常に好まれた作品だった。
バルザックやシラー、ゴーゴリなどはドストエフスキーがたどった道であるようにやはりロシアの読書家の王道のパターンなのだろう。そして若きスターリンと同時代人のチェーホフを好んでいたという点も興味深い。
そしてトルストイの作品に対して「ハハハ」と書きなぐり、逆にドストエフスキーの『悪霊』に対してはたくさんの印をつけた。この点もスターリンを知る上で見過ごすことはできない。
そしてマルクス主義革命家になりつつあったスターリンは神学校を退学し、ギャングのようになっていく。
そしてついに彼は銃撃事件に関わることになった。その結果彼はもう後戻りができないところまで行きつくことになる。
この銃撃が意味したのは、当時よく読まれたニヒリストのネチャーエフの本『革命家の教理問答書』が言っているように、「家族、友情、愛、感謝のための、そしてさらには名誉のためのやさしい感情の一切を、ただ革命活動一途の情熱によって押しつぶさねばならない」新しい時代のスタートだった。
善悪の判断にとらわれない超道徳的な掟―あるいはむしろ掟自体の不在―は、敵味方双方の側によって「コンスピラーツィア」(陰謀)と称されている。
それはドストエフスキーの小説『悪霊』に活写されている「別世界」である。「コンスピラーツィア」を理解せずにソヴィエト連邦自体を理解することは不可能だ―スターリンがこの世界と縁を切ることは決してなかったからである。
「コンスピラーツィア」は彼のソヴィエト国家の、そして彼の心理状態の支配的精神になった。
それ以後、スターリンはピストルをべルトに差して携帯した。秘密警察官と革命テロリストたちはいまやロシア帝国を賭けた決闘で対決するプロの秘密戦士どうしとなった。
白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』Pった155-156
※一部改行しました
ドストエフスキーはまさしくこのネチャーエフの危険性を重く見たからこそ『悪霊』を執筆し世に警告したのだった。
ドストエフスキーはそうした革命家やテロリストがどのように闇の世界に突き進んでいくかを驚くべきリアルさをもって描いている。
しかしスターリンはそこに自分を見出し、それを嫌悪するどころか自分の糧にしてしまったのであった。
ドストエフスキーとスターリンのつながり、そしてソ連によるドストエフスキーのイデオロギー利用の原点がここにあったのだ。このソ連的ドストエフスキーはクドリャフツェフ著『革命か神か―ドストエフスキーの世界観―』ではっきりと見ることができる。
ドストエフスキーはロシア正教を信仰し革命家たちを批判していたのだが、ソ連時代には全く逆の存在として扱われるようになった。なんと、彼は無神論者で王朝打倒を目論む革命家になってしまったのだ。ソ連的にドストエフスキーを解釈すると存命時とは全く逆の思想家になってしまうのである。この辺りのイデオロギー利用もソ連を考える上で大きな意味があるだろう。
話は少しそれてしまったがスターリンが生まれ育ったゴリという町がいかに彼に影響を与えたかが何となくは伝わったのではないだろうか。
というわけで私はこのゴリという町に強い関心を抱くようになったのである。
トビリシからゴリへ向かう途中に立ち寄ったジョージアの古都ムツヘタ
トビリシから高速道路でゴリへと向かう。
この高速道路も2004年の政権交代の結果作られたもの。経済成長に高速道路は必要不可欠。というわけで新政権肝いりの事業として始められたそうだが、建設当初は国民から「我々にアスファルトを食えというのか」とかなりの批判を受けていたそう。
と言うのも、当時のジョージアは今よりもはるかに貧しく、旧ソ連的な思考が未だに根強く残っていた。だからこそ道路に金を費やすのではなく、生活費をまずは支給すべきという発想だったそうだ。
だが今となってはジョージア国民も高速道路のメリットを理解し、喜んでいるとのこと。この道路ができるまでは道路が穴だらけで非常に危険だったそうで、街と街の移動がとにかく大変だった。だが旧ソ連時代ではそれが当たり前だったのだ。たとえ著しく不便であったとしても、それが当たり前だったとしたらそれを変えるのはなかなか難しい。高速道路建設に大きな批判があったのも何となく理解できるような気がする。
こうした事情からも共産主義から資本主義への移行の難しさというものを感じた。
ゴリへ向かう道中、ジョージアで有名な古都ムツヘタに立ち寄った。
まず私が訪れたのは小高い山のてっぺんに立つジュヴァリ聖堂。山の上にぽつんと立つその姿に四国のお遍路を連想してしまった。
この教会がなぜ山の上にぽつんと立っているかというと、ジョージアではかつて教会が要塞の役割を果たしていたからだ。戦が起きると住民たちは山の上にある教会に避難し、守りを固めていたそうだ。だからこそ守りやすい見晴らしのいい山の上に教会が建てられ、城壁のような壁が周囲に残っているのだ。
もちろん山の上にぽつんと教会があるのはそれだけではない。下界は人々が暮らす俗なる世界。そこから離れて祈りに専念するために山の上にぽつんと教会を建てたのである。
実用的な要塞としての教会と、宗教的な祈りの場としての教会。ジョージアの教会はこの二つの大きな理由からこのように山の上に教会を建てたのであった。
内部は巨大な岩によって壁や柱が作られていた。そのためどっしりとした重厚感を感じる。
そしてトビリシでも感じたように、やはり何か精神的な空気を感じる。祈りの場という雰囲気が強い。自分が宗教的な空間、聖なる空間にいるというのが直感的にわかる。
ジョージア・・・ここは何かが違う。来て数日で私はこの国の魅力に惹かれ始めたのであった。
この教会からはジョージア観光のハイライトの一つとして知られる景観を眺めることができる。川が交差し、ジョージアの美しい山々を堪能できるスポットだ。
そしてここでガイドからある興味深い話を聞くことになった。
ジョージアは元々女神信仰が強い地域だったそう。そしてそこに一世紀に初期キリスト教徒が布教にやってきた。しかしキリスト教は父なる神の宗教であるため、ジョージアの人々に受け入れられることはなかった。
だが4世紀に来た聖ニノという女性がこの地を訪れると事態は一変する。
聖ニノは父なる神ではなく、聖母マリアの教えを説いた。そして世を救う光としてのイエスを説いた。この聖母子による救いの教えが女神信仰と合致しジョージアの人々に受け入れられたとされている。もちろん、聖ニノがこの地で布教した際、雷や病気快癒、日食などの奇跡が起こったことも彼女の教えが広まる大きな要因であっただろう。
だが土着の宗教とキリスト教がいかに結びつくかという例としてこれは非常に興味深いものであると言える。これは日本の観音信仰などともつながるかもしれない。いずれ私も調べてみたいと思う。
そしてムツヘタではもうひとつ興味深い教会がある。
ここはスヴェティ・ツホヴェリ大聖堂という、トビリシのシオニ大聖堂ができるまではジョージアで最大の教会だった建物。
ジョージア正教の教会建築においても独特な建築様式で建てられており、内部にはさらに珍しいフレスコ画が遺されている。
なんとここには「聖母子像」ならぬ、「聖父子像」のフレスコ画が描かれているのである。
これは珍しい。私も初めて見た。ジョージア正教の中でもこれは珍しく、やはり古都ムツヘタは初期キリスト教と土着の宗教とが入り混じった独特な感覚というものがあるのだろうか。これはいいものを見た。
ゴリへの道中、オセチアにおけるロシアとの軍事衝突について考える
さて、これよりゴリに向かう。ムツヘタからは高速道路で40分ほど。
さあ、間もなくゴリに到着だ。
今回私は問題なくゴリの町を訪ねることができたのだが、実はこの町のすぐそこがオセチアという、ロシアが事実上軍事支配している地域なのだ。なので私はまた紛争が起きてこの近辺がいつ危険地帯になるかとここに来るまで心配だった。
ガイドによると、今も少しずつ国境線がジョージア側に動いているらしい。私がこの後に向かうコーカサス山脈もロシアとの国境線がある。だがそちらは道路の問題で侵攻が難しいようで、ロシアが次に侵攻してくるとすればこのゴリの辺りが一番その危険性が高いとのこと。なのでこのゴリ周辺はジョージア軍が常に警戒をしているそうだ。
しかもこの国境線の近くでは今もなお誘拐事件が起きていて、殺されて戻ってくるそう。ロシア側は偶然死んだと言うが明らかに殴られた跡があったそう。
かつていきなりここに侵攻してきて「今日からここはロシア領だからパスポートを発行しろ」と言われ家族と引き離されたおじいさんも最近亡くなったとのこと。
ロシアとの軍事対立が生々しいほどに感じられたお話だった。
たしかにガイドはよくジョージアの歴史を語る時「戦争」という言葉を口にする。だがそれは第二次世界大戦ではなく2008年のロシアとの戦争のことを指している。
第二次世界大戦の時、ジョージアは戦場になっていない。
だが徴兵に取られて戦死した率はソ連圏内でもトップクラスだったとのこと。つまりソ連軍の特攻兵として使われたのがジョージア人だったということなのだ。ソ連の人海戦術と特攻についてはこの「ソ連の人海戦術と決死の突撃ー戦場における「ウラー!」という叫び声とは 「独ソ戦に学ぶ」⑶」の記事を参照して頂ければ幸いである。
こうした歴史的背景を聞き、ジョージアにとってロシアの脅威は心の底からリアルなものなのだということを実感した。
ゴリに到着。スターリン博物館へ
さて、いよいよゴリの町に到着した。「ゴリの住人ほど道路を渡るのが下手な人はいない」とガイドは笑っていたが、たしかに車を気にせずすっと渡ってくる人が多いように感じた。さすがかつての「あらくれの町」。
スターリン博物館に到着。入り口の前にはスターリンの像が立っていた。これぞスターリン博物館。入場前からスターリン礼賛の空気を感じる。
博物館に入ってすぐ、思っていたよりも立派な内装であることに驚く。
しかも中の展示もびっくりするほど充実していた。
そしてガイドの女性も思っていたよりかなり若かった。私たち見学者はこの写真のガイドに説明を受けながら見学していった。
前情報ではこの博物館のガイドはスターリン大好きおばさんが熱烈にその愛を語るということを聞いていたのだがどうも今回はそのおばさんではないらしい。私はそのスターリン大好きおばさんの語りを聞きたかったのだが、今回担当してくれたこの女性はものすごくクール。とにかく淡々とスターリンの歴史を解説してくれた。スターリンへの熱烈な愛という雰囲気は感じなかった。
おそらく40歳には達していないだろうこの女性。やはり現役でソ連時代を知っている世代とは感覚が違うのだろうか。
それにしてもこの博物館の充実ぶりには驚いた。
そしてこの絵を見ていたとき、ふと「共同幻想」という言葉が浮かんできた。
ここにいてスターリンの偉業を称える展示を見ていたら、それは「スターリンに付いていけば間違いない」という感覚になってしまう。
かつてのソ連はこれを全ての局面で圧倒的な物量とエネルギーをもって行っていたのだ。
「この男に付いていけば世界はよくなる!」
「見よ!子供を抱きかかえるスターリンを!」
「見よ!労働者をねぎらうスターリンを!」
「見よ!戦争を勝利に導くスターリンを!」
「そうだ!この人こそロシアに栄光をもたらすのだ!それができるのはこの人しかいない!この人こそ我らの指導者なのだ!」
当時はこれを本気で国民一丸となって信じていたのである。作られた現実、フィクションを生きていたのだ。(信じなかった人はどうなったかは言うまでもない)
だが、かつてのソ連を私たちは笑えない。今なお私たちは共同幻想を生きている。私たちも今、現実の上に作られたフィクションを生きている。
私たちは「日常の当たり前」を生きているが、そこにある価値基準は本当に自明のものなのだろうか。何が良くて何が悪いのか、人から「良い人」と認められる人間像とは何か。生きていく意味はどこにあるのか。
ひょっとして、こうしたことは誰かが作ったものにすぎないのではないか。そしてそれを私たちは当たり前のように信じている。
これのどこがソ連と違うというのだろう。
ソ連時代も何が良くて何が悪い、「良い人間」とはかくあるべきということを推し進めていったではないか。そしてそれを人々は信じ、生きていたではないか。
いやいや、今の日本はそんな強制なんか存在していないと思うかもしれない。
だが本当にそうだろうか。日本の同調圧力、噂社会の怖さはこのコロナ禍で特に顕在化したのではないだろうか。同調圧力が発生するには「こうあるべき」という「正しさ」が必要だ。多数が正しいと思うことと外れたことをした場合「悪」として攻撃されることになる。
ではその「こうあるべき正しさ」はどこから生まれたのか。
そう考えてみると一筋縄ではいかない恐ろしい問題が見えてくる。
私たちは決してソ連を笑えない。その恐怖をこの博物館で感じたのであった。
続く
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