MENU

(21)スターリンの生まれ故郷ジョージアのゴリへ~スターリン博物館で旧ソ連の雰囲気を感じる

目次

【ジョージア旅行記】(21)スターリンの生地ゴリへ~スターリン博物館で旧ソ連の雰囲気を感じる

私がジョージアにやって来たのはトルストイを学ぶためであることを前回の記事でお話しした。

だが、せっかくジョージアに来たのならどうしても行きたい場所があった。

それがスターリンの生まれ故郷ゴリという町だった。

当ブログでもこれまでソ連については様々な記事を書いてきた。その中でも特にスターリンについては「スターリンに学ぶ」という連続記事もアップした。

あわせて読みたい
(1)スターリンとは何者なのか~今私たちがスターリンを学ぶ意義とは  スターリン自身が「私だってスターリンじゃない」と述べた。 これは非常に重要な言葉だと思います。 スターリンはソ連の独裁者だとされてきました。しかしそのスターリン自身もソヴィエトというシステムを動かす一つの歯車に過ぎなかったのではないか。スターリンが全てを動かしているようで実はそのスターリン自身もシステムに動かされていたのではないかという視点は非常に興味深いものでした。 独裁者とは何かを考える上でこの箇所は非常に重要であると思います。

そしてスターリンの生涯を学んでいるうちに彼の生まれ故郷ゴリに私は強い興味を持つようになったのである。

ではその彼の生まれ故郷ゴリという町はどのような場所だったのかを見ていこう。

スターリンの生まれ故郷ゴリ

ソソ(※スターリン ブログ筆者注)は典型的なゴリっ子だった。というのは、ゴリの住人たちはグルジア中に「マトラバジ」(大ロたたきの乱暴な悪党)として悪名をとどろかせていたからである。

ゴリは「絵になるような野蛮な慣わし」を続ける最後の町の一つだった。それは飛び入り自由の街頭乱闘で、特別のルールはあったが、禁じ手がなかった。どんちゃん騒ぎと祈りと喧嘩はみな、酔っ払った坊さんたちが仲裁役を務めるということで相互につながっていた。ゴリの居酒屋は、手に負えない暴力と犯罪のシチュー鍋だった。

ロシアとグルジアの行政当局は、中世グルジアが絶えず戦争をしていた時代に軍事訓練として始まった、この怪しげなスポーツを禁止しようと試みた。

ロシア軍の兵舎があったにもかかわらず、「ブリスタフ」(地元警察署長)のダヴリチェヴィと、そのわずかな警官ではほとんど対処できなかった―ゴリの手に負えない無法状態を鎮めることは誰にもできなかったのである。

殴り合いの最中、馬たちが急に駆けだし、馬車が街路上の子供たちを轢き倒すのも無理はなかった。

心理歴史学者たちはスターリンの発達の多くを酔っ払いの父親のせいにしている。しかし、この街頭乱闘の文化も同様に形成要素だった。
※一部改行した

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P85-86

ゴリという町はとにかく強烈だ。この後も解説を見ていくが、この町はとてつもない荒くれものたちの巣窟だったのだ。

ソソの父は貧しい靴職人で酔って彼に暴力を振るう男だった。この父による暴力がスターリンの人生を決定づけたとされることが多いのだが、著者はそれだけではなくゴリのような環境要因も強力に働いていると指摘している。

路上乱闘、レスリング大会、そして学校生徒の喧嘩合戦が、ゴリの勝負の三大伝統だった。

子供に至るまでどの家の男たちも、ワインを飲み、歌いながら、夜になるまで町を練り歩いた。本当の楽しみが始まるのはそれからである。

この「フリースタイル・ボクシングの勝負」―「クリヴィ」は「ルールのある集団対決」だった。最初に三歳の男児たちがほかの三歳の男児たちと取っ組み合った。

次は子供たちが格闘した。その次は十代の少年たちが闘い、最後は大人の男たちが「信じられないような乱闘」をおっぱじめるのだった。その頃までに町は完全に収拾がつかなくなっていた。その状態は翌日まで持ち越された―学校でさえも、クラスとクラスが闘った。商店はしばしば略奪された。

ゴリの人気スポーツは、強豪たちによるグルジア・レスリング、「チダオバ」の試合だった。勝負は旧約聖書のゴリアテの物語にどこか似ていた。試合は特別に高くしたリングで「ズルナ」の伴奏に合わせて行なわれた。これは貴賎貧富、宗教、民族にかかわりなく実力だけが物をいう勝負だった。

地元の地主アミラフヴァリ侯爵のような裕福な貴族、商人、そして各村までも、お抱えの強豪選手を出場させた。これらの強豪たちはとても尊敬されていたので、話しかける時には「パラヴァニ」という称号が使われた。

スターリンの代父エグナタシヴィリ自身、強豪三兄弟の一人だった。今や年をとり、そして金持ちだったので、「パラヴァニ」エグナタシヴィリはお抱えの強豪選手たちを出場させていた。老年になってからも、スターリンは代父の格闘技の勝利をまだ自慢していた。
※一部改行した

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P87-88

小さな子供から大人まで町中で何でもありの乱闘を繰り広げるのが伝統という、現代日本に住む私たちには想像を絶する世界がそこにあったのだ。

そしてここで重要なのは「貴賎貧富、宗教、民族にかかわりなく実力だけが物をいう」価値観があり、強さを追い求める精神性がこの町では特に求められたということだ。

こうした中で育った人間と、秩序と優しさを重んじる環境で育った人間とではだいぶ人間の性格が変わってくるというのは想像に難くない。

今回引用した箇所の最後にスターリンの代父が出てきたが、暴力を振るう父親があまりに危険なためスターリン家から引き離されることになっていたのだ。だが母だけだと経済的に厳しかったため、実質的な代父としてエグナタシヴィリがスターリン家を支援することになっていたのだった。

ちなみにスターリンの母ケケは美人で有名で、なおかつ気さくで真面目な人だったそう。そしてスターリンを溺愛する教育ママだった。ケケはスターリンを神父にしたいと考え、彼に教育を授けた。だが、その教育によってスターリンは教養を手にし、後には独裁者となるなどとはまったく想像もつかなかったことだろう・・・

そして神学校に進んだスターリン。ロシア朝廷があった当時、神学校ではマルクス主義の本は革命的であるとして読むのを禁止されていた。

さらに、神学校ということで規律も厳しく、そういった類の本を読まないよう「黒点」とあだ名される厳しい職員によって常に監視されていたのだった。

スターリンはヴィクトル・ユゴーの小説、とくに『一七九三年』を発見した。その主人公、革命派の僧侶シムールダンは彼の原型の一つになるだろう。しかし、ユゴーは神学校の教師たちから厳禁されていた。

夜になると、「黒点」が廊下を巡回し、消灯されているか、読書をしていないか、あるいはほかの自堕落な悪徳にふけっていないか、絶えず点検していた。彼がいなくなるとたちまち生徒たちはロウソクを点け、読書を再開した。

ソソはその典型で、「読書をしすぎて、ほとんどまったく眠らず、目がショボショボしていて顔色が悪かった。彼が咳をし始めると」、イレマシヴィリが「彼の手から本を取り上げ、ロウソクを吹き消した」。(中略)

若いスターリンは、急進的な若者たちの間でセンセーションを巻き起こしたロシアの作家たちから、さらにもっと影響を受けた―ニコライ・ネクラーソフの詩とチェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』である。

後者の主人公ラフメートフはスターリンにとって断固たる禁欲主義的革命家の原型になった。ラフメートフと同じように、スターリンは自分を「特別の人間」と見なすようになった。

まもなくスターリンは、別の禁書を読んでいる現場を「学校の階段の上で」取り押さえられ、そのために「校長命令で、監禁室への時間延長収容と厳しい叱責」を受けた。

彼は「ゾラを崇拝していた」。このパリ作家の小説で彼のお気に入りは『ジェルミナール』だった。彼はシラー、モーパッサン、バルザック、サッカレーの『虚栄の市』を翻訳で、プラトンをギリシャ語の原典で読み、ロシア史とフランス史を読んだ。

そしてこれらの本をほかの生徒たちに回した。彼はゴーゴリ、サルティコフ=シチェドリン、チェーホフを熱愛し、その作品を暗記した。そして「暗唱することができた」。

トルストイに感嘆したが、「そのキリスト教には退屈した」。後年彼は、贖罪と救済に関するトルストイの瞑想のかたわらに「ハハハ」と書きなぐることになる。

革命の陰謀と裏切りに関するドストエフスキーの傑作『悪霊』の一冊にはたくさん印をつけた。

これらの本は神学生たちのサープリスの下にくくりつけてひそかに持ち込まれた。後にスターリンは冗談で、これらの本の何冊かは革命のために書店から「収奪」(万引き)しなければならなかったと語った。
※一部改行した

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P121-123

若きスターリンの恐るべき読書欲がここからうかがわれる。彼は晩年にいたるまで読書を続け、その教養は一流の文化人にも匹敵するほどだったそうだ。

そしてスターリンが読んでいた本というのも興味深い。

チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』はレーニンもバイブルとして愛読していた。スターリンも同じようにこの書物から多大な影響を受けていたようだ。

あわせて読みたい
(4)革命家のバイブル、チェルヌィシェフスキーの『何をなすべきか』に憧れるレーニンとマルクスとの出... レーニンは兄の処刑によって革命家の道に進むことになりました。しかし最初からマルクス主義者として出発したのではありませんでした。彼はまずチェルヌイシェフスキーに傾倒します。

ユゴーの『一七九三年』、ゾラの『ジェルミナール』は当ブログでも以前紹介した。

マルクス主義を信ずるということは科学や合理性を重んじることにつながる。そうした面でもゾラの作品と親和性があったのかもしれない。実際、『ジェルミナール』は抑圧された労働者の戦いの物語なので、マルクス主義者にも非常に好まれた作品だった。

バルザックシラーゴーゴリなどはドストエフスキーがたどった道であるようにやはりロシアの読書家の王道のパターンなのだろう。そして若きスターリンと同時代人のチェーホフを好んでいたという点も興味深い。

そしてトルストイの作品に対して「ハハハ」と書きなぐり、逆にドストエフスキーの『悪霊』に対してはたくさんの印をつけた。この点もスターリンを知る上で見過ごすことはできない。

そしてマルクス主義革命家になりつつあったスターリンは神学校を退学し、ギャングのようになっていく。

そしてついに彼は銃撃事件に関わることになった。その結果彼はもう後戻りができないところまで行きつくことになる。

この銃撃が意味したのは、当時よく読まれたニヒリストのネチャーエフの本『革命家の教理問答書』が言っているように、「家族、友情、愛、感謝のための、そしてさらには名誉のためのやさしい感情の一切を、ただ革命活動一途の情熱によって押しつぶさねばならない」新しい時代のスタートだった。

善悪の判断にとらわれない超道徳的な掟―あるいはむしろ掟自体の不在―は、敵味方双方の側によって「コンスピラーツィア」(陰謀)と称されている。

それはドストエフスキーの小説『悪霊』に活写されている「別世界」である。「コンスピラーツィア」を理解せずにソヴィエト連邦自体を理解することは不可能だ―スターリンがこの世界と縁を切ることは決してなかったからである。

「コンスピラーツィア」は彼のソヴィエト国家の、そして彼の心理状態の支配的精神になった。

それ以後、スターリンはピストルをべルトに差して携帯した。秘密警察官と革命テロリストたちはいまやロシア帝国を賭けた決闘で対決するプロの秘密戦士どうしとなった。
※一部改行しました

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』Pった155-156

ドストエフスキーはまさしくこのネチャーエフの危険性を重く見たからこそ『悪霊』を執筆し世に警告したのだった。

ドストエフスキーはそうした革命家やテロリストがどのように闇の世界に突き進んでいくかを驚くべきリアルさをもって描いている。

しかしスターリンはそこに自分を見出し、それを嫌悪するどころか自分の糧にしてしまったのであった。

ドストエフスキーとスターリンのつながり、そしてソ連によるドストエフスキーのイデオロギー利用の原点がここにあったのだ。このソ連的ドストエフスキーはクドリャフツェフ著『革命か神か―ドストエフスキーの世界観―』ではっきりと見ることができる。

ドストエフスキーはロシア正教を信仰し革命家たちを批判していたのだが、ソ連時代には全く逆の存在として扱われるようになった。なんと、彼は無神論者で王朝打倒を目論む革命家になってしまったのだ。ソ連的にドストエフスキーを解釈すると存命時とは全く逆の思想家になってしまうのである。この辺りのイデオロギー利用もソ連を考える上で大きな意味があるだろう。

話は少しそれてしまったがスターリンが生まれ育ったゴリという町がいかに彼に影響を与えたかが何となくは伝わったのではないだろうか。

というわけで私はこのゴリという町に強い関心を抱くようになったのである。

トビリシからゴリへ向かう途中に立ち寄ったジョージアの古都ムツヘタ

トビリシから高速道路でゴリへと向かう。

この高速道路も2004年の政権交代の結果作られたもの。経済成長に高速道路は必要不可欠。というわけで新政権肝いりの事業として始められたそうだが、建設当初は国民から「我々にアスファルトを食えというのか」とかなりの批判を受けていたそう。

と言うのも、当時のジョージアは今よりもはるかに貧しく、旧ソ連的な思考が未だに根強く残っていた。だからこそ道路に金を費やすのではなく、生活費をまずは支給すべきという発想だったそうだ。

だが今となってはジョージア国民も高速道路のメリットを理解し、喜んでいるとのこと。この道路ができるまでは道路が穴だらけで非常に危険だったそうで、街と街の移動がとにかく大変だった。だが旧ソ連時代ではそれが当たり前だったのだ。たとえ著しく不便であったとしても、それが当たり前だったとしたらそれを変えるのはなかなか難しい。高速道路建設に大きな批判があったのも何となく理解できるような気がする。

こうした事情からも共産主義から資本主義への移行の難しさというものを感じた。

ゴリへ向かう道中、ジョージアで有名な古都ムツヘタに立ち寄った。

まず私が訪れたのは小高い山のてっぺんに立つジュヴァリ聖堂。山の上にぽつんと立つその姿に四国のお遍路を連想してしまった。

この教会がなぜ山の上にぽつんと立っているかというと、ジョージアではかつて教会が要塞の役割を果たしていたからだ。戦が起きると住民たちは山の上にある教会に避難し、守りを固めていたそうだ。だからこそ守りやすい見晴らしのいい山の上に教会が建てられ、城壁のような壁が周囲に残っているのだ。

もちろん山の上にぽつんと教会があるのはそれだけではない。下界は人々が暮らす俗なる世界。そこから離れて祈りに専念するために山の上にぽつんと教会を建てたのである。

実用的な要塞としての教会と、宗教的な祈りの場としての教会。ジョージアの教会はこの二つの大きな理由からこのように山の上に教会を建てたのであった。

内部は巨大な岩によって壁や柱が作られていた。そのためどっしりとした重厚感を感じる。

そしてトビリシでも感じたように、やはり何か精神的な空気を感じる。祈りの場という雰囲気が強い。自分が宗教的な空間、聖なる空間にいるというのが直感的にわかる。

ジョージア・・・ここは何かが違う。来て数日で私はこの国の魅力に惹かれ始めたのであった。

この教会からはジョージア観光のハイライトの一つとして知られる景観を眺めることができる。川が交差し、ジョージアの美しい山々を堪能できるスポットだ。

そしてここでガイドからある興味深い話を聞くことになった。

ジョージアは元々女神信仰が強い地域だったそう。そしてそこに一世紀に初期キリスト教徒が布教にやってきた。しかしキリスト教は父なる神の宗教であるため、ジョージアの人々に受け入れられることはなかった。

だが4世紀に来た聖ニノという女性がこの地を訪れると事態は一変する。

グルジアの亜使徒光照者聖ニノのイコン。右手に葡萄十字、左手に福音経を持った姿で描かれている。Wikipediaより

聖ニノは父なる神ではなく、聖母マリアの教えを説いた。そして世を救う光としてのイエスを説いた。この聖母子による救いの教えが女神信仰と合致しジョージアの人々に受け入れられたとされている。もちろん、聖ニノがこの地で布教した際、雷や病気快癒、日食などの奇跡が起こったことも彼女の教えが広まる大きな要因であっただろう。

だが土着の宗教とキリスト教がいかに結びつくかという例としてこれは非常に興味深いものであると言える。これは日本の観音信仰などともつながるかもしれない。いずれ私も調べてみたいと思う。

そしてムツヘタではもうひとつ興味深い教会がある。

ここはスヴェティ・ツホヴェリ大聖堂という、トビリシのシオニ大聖堂ができるまではジョージアで最大の教会だった建物。

ジョージア正教の教会建築においても独特な建築様式で建てられており、内部にはさらに珍しいフレスコ画が遺されている。

なんとここには「聖母子像」ならぬ、「聖父子像」のフレスコ画が描かれているのである。

これは珍しい。私も初めて見た。ジョージア正教の中でもこれは珍しく、やはり古都ムツヘタは初期キリスト教と土着の宗教とが入り混じった独特な感覚というものがあるのだろうか。これはいいものを見た。

ゴリへの道中、オセチアにおけるロシアとの軍事衝突について考える

さて、これよりゴリに向かう。ムツヘタからは高速道路で40分ほど。

さあ、間もなくゴリに到着だ。

今回私は問題なくゴリの町を訪ねることができたのだが、実はこの町のすぐそこがオセチアという、ロシアが事実上軍事支配している地域なのだ。なので私はまた紛争が起きてこの近辺がいつ危険地帯になるかとここに来るまで心配だった。

ガイドによると、今も少しずつ国境線がジョージア側に動いているらしい。私がこの後に向かうコーカサス山脈もロシアとの国境線がある。だがそちらは道路の問題で侵攻が難しいようで、ロシアが次に侵攻してくるとすればこのゴリの辺りが一番その危険性が高いとのこと。なのでこのゴリ周辺はジョージア軍が常に警戒をしているそうだ。

しかもこの国境線の近くでは今もなお誘拐事件が起きていて、殺されて戻ってくるそう。ロシア側は偶然死んだと言うが明らかに殴られた跡があったそう。

かつていきなりここに侵攻してきて「今日からここはロシア領だからパスポートを発行しろ」と言われ家族と引き離されたおじいさんも最近亡くなったとのこと。

ロシアとの軍事対立が生々しいほどに感じられたお話だった。

たしかにガイドはよくジョージアの歴史を語る時「戦争」という言葉を口にする。だがそれは第二次世界大戦ではなく2008年のロシアとの戦争のことを指している。

第二次世界大戦の時、ジョージアは戦場になっていない。

だが徴兵に取られて戦死した率はソ連圏内でもトップクラスだったとのこと。つまりソ連軍の特攻兵として使われたのがジョージア人だったということなのだ。ソ連の人海戦術と特攻についてはこの「ソ連の人海戦術と決死の突撃ー戦場における「ウラー!」という叫び声とは 「独ソ戦に学ぶ」⑶」の記事を参照して頂ければ幸いである。

こうした歴史的背景を聞き、ジョージアにとってロシアの脅威は心の底からリアルなものなのだということを実感した。

ゴリに到着。スターリン博物館へ

さて、いよいよゴリの町に到着した。「ゴリの住人ほど道路を渡るのが下手な人はいない」とガイドは笑っていたが、たしかに車を気にせずすっと渡ってくる人が多いように感じた。さすがかつての「あらくれの町」。

スターリン博物館に到着。入り口の前にはスターリンの像が立っていた。これぞスターリン博物館。入場前からスターリン礼賛の空気を感じる。

博物館に入ってすぐ、思っていたよりも立派な内装であることに驚く。

しかも中の展示もびっくりするほど充実していた。

そしてガイドの女性も思っていたよりかなり若かった。私たち見学者はこの写真のガイドに説明を受けながら見学していった。

前情報ではこの博物館のガイドはスターリン大好きおばさんが熱烈にその愛を語るということを聞いていたのだがどうも今回はそのおばさんではないらしい。私はそのスターリン大好きおばさんの語りを聞きたかったのだが、今回担当してくれたこの女性はものすごくクール。とにかく淡々とスターリンの歴史を解説してくれた。スターリンへの熱烈な愛という雰囲気は感じなかった。

おそらく40歳には達していないだろうこの女性。やはり現役でソ連時代を知っている世代とは感覚が違うのだろうか。

それにしてもこの博物館の充実ぶりには驚いた。

そしてこの絵を見ていたとき、ふと「共同幻想」という言葉が浮かんできた。

ここにいてスターリンの偉業を称える展示を見ていたら、それは「スターリンに付いていけば間違いない」という感覚になってしまう。

かつてのソ連はこれを全ての局面で圧倒的な物量とエネルギーをもって行っていたのだ。

「この男に付いていけば世界はよくなる!」

「見よ!子供を抱きかかえるスターリンを!」

「見よ!労働者をねぎらうスターリンを!」

「見よ!戦争を勝利に導くスターリンを!」

「そうだ!この人こそロシアに栄光をもたらすのだ!それができるのはこの人しかいない!この人こそ我らの指導者なのだ!」

当時はこれを本気で国民一丸となって信じていたのである。作られた現実、フィクションを生きていたのだ。(信じなかった人はどうなったかは言うまでもない)

だが、かつてのソ連を私たちは笑えない。今なお私たちは共同幻想を生きている。私たちも今、現実の上に作られたフィクションを生きている。

私たちは「日常の当たり前」を生きているが、そこにある価値基準は本当に自明のものなのだろうか。何が良くて何が悪いのか、人から「良い人」と認められる人間像とは何か。生きていく意味はどこにあるのか。

ひょっとして、こうしたことは誰かが作ったものにすぎないのではないか。そしてそれを私たちは当たり前のように信じている。

これのどこがソ連と違うというのだろう。

ソ連時代も何が良くて何が悪い、「良い人間」とはかくあるべきということを推し進めていったではないか。そしてそれを人々は信じ、生きていたではないか。

いやいや、今の日本はそんな強制なんか存在していないと思うかもしれない。

だが本当にそうだろうか。日本の同調圧力、噂社会の怖さはこのコロナ禍で特に顕在化したのではないだろうか。同調圧力が発生するには「こうあるべき」という「正しさ」が必要だ。多数が正しいと思うことと外れたことをした場合「悪」として攻撃されることになる。

ではその「こうあるべき正しさ」はどこから生まれたのか。

そう考えてみると一筋縄ではいかない恐ろしい問題が見えてくる。

私たちは決してソ連を笑えない。その恐怖をこの博物館で感じたのであった。

続く

Amazon商品ページはこちら↓

スターリン: 青春と革命の時代

スターリン: 青春と革命の時代

次の記事はこちら

あわせて読みたい
(22)ノアの箱舟の聖地アララト山と時が止まったかのような修道院目指して隣国アルメニアへ はるばるジョージアまでやって来た私でしたが、せっかくここまで来たのだからコーカサス山脈に行く前にどうしても行きたい場所がありました。 それが隣国アルメニアでした。 最古のキリスト教国アルメニア、時が止まったかのような修道院、そして今なお旧ソ連の空気が残る国・・・ 知れば知るほど興味深い国です。この記事ではそんなアルメニアについてお話ししていきます。

前の記事はこちら

あわせて読みたい
(20)いざジョージアへ~なぜ私はトルストイを学ぶためにコーカサス山脈へ行かねばならなかったのか 皆さんの中にはきっとこう思われている方も多いのではないでしょうか。 「それにしても、なぜジョージアまで来なくてはならなかったのか。ドストエフスキーとトルストイを学ぶためと言ってもそのつながりは何なのか」と。 実際私も出発前に何度となくそう質問されたものでした。「何でジョージアなの?」と。 たしかにこれは不思議に思われるかもしれません。ドストエフスキーとトルストイを学ぶために行くなら普通はロシアだろうと。なぜジョージアなのかという必然性が見当たらない。 というわけでこの記事ではそのことについてお話ししていきます

関連記事

あわせて読みたい
上田隆弘『ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行』~文豪の運命を変えた妻との一... この旅行記は2022年に私が「親鸞とドストエフスキー」をテーマにヨーロッパを旅した際の記録になります。 ドイツ、スイス、イタリア、チェコとドストエフスキー夫妻は旅をしました。その旅路を私も追体験し、彼の人生を変えることになった運命の旅に思いを馳せることになりました。私の渾身の旅行記です。ぜひご一読ください。
あわせて読みたい
【ローマ旅行記】『劇場都市ローマの美~ドストエフスキーとベルニーニ巡礼』~古代ローマと美の殿堂ロ... 私もローマの魅力にすっかりとりつかれた一人です。この旅行記ではローマの素晴らしき芸術たちの魅力を余すことなくご紹介していきます。 「ドストエフスキーとローマ」と言うと固く感じられるかもしれませんが全くそんなことはないのでご安心ください。これはローマの美しさに惚れ込んでしまった私のローマへの愛を込めた旅行記です。気軽に読んで頂ければ幸いです。
あわせて読みたい
上田隆弘『秋に記す夏の印象~パリ・ジョージアの旅』記事一覧~トルストイとドストエフスキーに学ぶ旅 2022年8月中旬から九月の中旬までおよそ1か月、私はジョージアを中心にヨーロッパを旅してきました。 フランス、ベルギー、オランダ、ジョージア・アルメニアを訪れた今回の旅。 その最大の目的はトルストイとドストエフスキーを学ぶためにジョージア北部のコーカサス山脈を見に行くことでした。 この記事では全31記事を一覧にして紹介していきます。『秋に記す夏の印象』の目次として使って頂けましたら幸いです。
あわせて読みたい
(27)いざトルストイも歩いたコーカサス山脈へ!雄大な軍用道路に圧倒される! アルメニア滞在を終えトビリシに戻ってきた私は1日の休息の後、いよいよこの旅の最大の目的地コーカサス山脈へと出発しました。 首都トビリシからコーカサス山脈へと向かう道は軍用道路と言われ、かつてロシア王朝がジョージア征服のために切り開いた道として知られています。トルストイやプーシキンもまさにこの道を通ってこの地にやって来たのです。 この記事ではそんな軍用道路とコーカサス山脈についてお話ししていきます
あわせて読みたい
(28)「限りなく天国に近い教会」ツミンダ・サメバ教会とエリア修道院でカフカースの絶景を堪能 カフカース(コーカサス山脈)の拠点カズベキについた私は早速「限りなく天国に近い教会」と言われるツミンダ・サメバ教会へと向かいました。 笑ってしまうほどの悪路を走り教会へ到着。ジョージアの誇る絶景を堪能しました。 また、カズベキの町からすぐそばの絶景ポイント、エリア教会付近も散策し、カフカースの山の迫力を感じました。
あわせて読みたい
(25)アルメニアのわからなさ、ソ連的どん詰まり感にショックを受け体調を崩す。カルチャーショックの洗礼 アルメニア滞在の3日目、私はノアの箱舟の聖地アララト山や世界遺産エチミアジン大聖堂を訪れました。 しかし実はその前日の夕方から私の身体に異変が生じ、エチミアジンの辺りで完全にダウンしてしまったのです。 これは単に体調が悪くなったで済まされる話ではありません。私とアルメニアという国についての根本問題がそこに横たわっていたのでありました。 私の身に何が起こったのか、この記事でお話ししていきます。
あわせて読みたい
ジイド『ソヴェト旅行記』あらすじと感想~フランス人ノーベル賞文学者が憧れのソ連の実態に気づいた瞬間 憧れのソ連を訪問し、どれほどこの国は素晴らしいのかと期待していたジイドでしたが、そこで彼は現実を知ってしまうことになります。その心情を綴ったのがこの『ソヴェト旅行記』という本になります。 この記事ではその一部をご紹介していきます。
あわせて読みたい
(7)スターリンの故郷ゴリの驚くべき荒くれっぷりと読書家スターリンの誕生  スターリンはグルジア(ジョージア)のゴリという街に生まれました。 このゴリという街がとにかく強烈です。その強烈っぷりはこの記事で詳しく見ていきますが、とてつもない荒くれものたちの巣窟だったのです。 そんな荒くれものの巣窟に育ったスターリンでありますが驚異の読書家ぶりを発揮しています。この時の読書がスターリンの生涯に大きな影響を与えることになりました。この記事ではそんなスターリンの読書についてもお話ししていきます。
あわせて読みたい
独ソ戦のおすすめ参考書16冊一覧~今だからこそ学びたい独ソ戦 この記事では独ソ戦を学ぶのにおすすめな参考書を紹介していきます。 独ソ戦は戦争の本質をこれ以上ないほど私たちの目の前に突き付けます。 なぜ戦争は起きたのか。戦争は人間をどう変えてしまうのか。虐殺はなぜ起こるのかということを学ぶのに独ソ戦は驚くべき示唆を与えてくれます。私自身、独ソ戦を学び非常に驚かされましたし、戦争に対する恐怖を感じました。これまで感じていた恐怖とはまた違った恐怖です。ドラマや映画、ドキュメンタリーで見た「被害者的な恐怖」ではなく、「戦争そのものへの恐怖」です。
あわせて読みたい
(4)スターリンによる戦争神話の創造と歴史管理~現実を覆い隠す英雄物語の効用とは 1943年になるとソ連がついに優勢に立ちます。ここから政治家たちはさらに国民の士気を高めるために戦争神話を作り出していきます。 ソヴィエト政府にとって都合のいいように事実は解釈され神話は作られていきました。それに合致しないものはすべて黙殺されていったのです。
あわせて読みたい
T・スナイダー『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』あらすじと感想~独ソ戦の実態を知... スターリンはなぜ自国民を大量に餓死させ、あるいは銃殺したのか。なぜ同じソビエト人なのに人間を人間と思わないような残虐な方法で殺すことができたのかということが私にとって非常に大きな謎でした。 その疑問に対してこの上ない回答をしてくれたのが本書でした。 訳者が「読むのはつらい」と言いたくなるほどこの本には衝撃的なことが書かれています。しかし、だからこそ歴史を学ぶためにもこの本を読む必要があるのではないかと思います。
あわせて読みたい
オーウェル『動物農場』あらすじと感想~こうして人は騙される。ソ連の全体主義を風刺した傑作寓話 敵を作りだし、憎悪や不安、恐怖を煽って宣伝してくる人たちには気を付けた方がいいです。敵を倒した後に何が起こるのか、それを『動物農場』は教えてくれます。 この作品は150ページほどの短い小説で、読みやすくありながら驚くほどのエッセンスが凝縮されています。衝撃的な読書になること請け合いです。非常におすすめな作品です!
あわせて読みたい
オーウェル『一九八四年』あらすじと感想~全体主義・監視社会の仕組みとはー私たちの今が問われる恐る... 『一九八四年』は非常に恐ろしい作品です。ですがこれほど重要な作品もなかなかありません。現代の必読書の一つであると私は思います。 この作品は「今私たちはどのような世界に生きているか」を問うてくる恐るべき作品です。今だからこそ特に大事にしたい名作です。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次