ジョルジュ・サンド『スピリディオン』あらすじと感想~『カラマーゾフの兄弟』に決定的影響!?サンドの修道院小説
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に決定的影響!?ジョルジュ・サンドが描く修道院小説『スピリディオン』
私がこの本を読むことになったのは、前回紹介したジョルジュ・サンドの『ジャンヌ』がきっかけでした。
ドストエフスキーに大きな影響を与えたジョルジュ・サンド。そのサンドの作品をもう少し読んでみたいと思い、本を探していると驚くべきフレーズが私の目の前に飛び込んできました。本の帯に大きくこう書かれていたのです。
「ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に決定的に影響を与えた作品」
え!?
私は自分の目を疑いました。
これまで様々なドストエフスキー作品や参考書を読んできましたが、ジョルジュ・サンドの作品が『カラマーゾフの兄弟』に決定的な影響を与えていたというのは初めて聞きました。これには驚きでした。
というわけで私は早速この本を読んでみることにしたのです。
『カラマーゾフの兄弟』との関係
私が読んだ藤原書店の大野一道訳の『スピリディオン』の解説には以下のように書かれていました。
『スピリディオン』は後のルナン、マシュー・アーノルド、エマーソン等に多大な影響を与えたという。とりわけドストエフスキーは、その『カラマーゾフの兄弟』のゾシマとアリョーシャの対話が本書のアレクシとアンジェロのそれを踏まえたものだと、ハーク他の研究者から言われているくらい、深く学んだらしい。それは(少なくとも既成の)神が死につつある時代に、全人類が何をもとに連帯して生きてゆくかという大問題を、早くもサンドが考え始めていたとドストエフスキーが感じたからに他なるまい。三十四歳の若き女性が真剣にこうした大問題に取り組んだことには驚嘆するほかない。そしてサンドはこの作品を書いたという一点からでも、当時の大作家たち、バルザック、ユゴー、ミシュレ等に通じる問題意識を持っていたと言える、と指摘しておこう。
藤原書店 大野一道訳『スピリディオン』P321
『スピリディオン』はある修道院を舞台に、信仰深く、思慮深い青年とその彼に多大な影響を与える老修道士との魂の交流を描いた物語です。
たしかにこの作品を読むと『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老と主人公の見習い修道僧アリョーシャを彷彿とさせるシーンが多々出てきます。
もしかすると「決定的な影響を与えている」というのもあながち間違いではないかもしれません。
『スピリディオン』の概要とあらすじ
ジョルジュ・サンドの『スピリディオン』は1839年に出版され、1842年に一部改訳した第二版が再販され、それが決定稿とされています。1842年というと、当時ドストエフスキーは21歳です。若さ全開の時代です。
では、早速あらすじを見ていきましょう。
世間から隔絶された18世紀の修道院を舞台にした神秘主義的哲学小説。堕落し形骸化した信仰に抗し、イエスの福音の真実を継承しようとした修道士スピリディオンの生涯を、孫弟子アレクシが自らの精神的彷徨と重ねて語る。アレクシもスピリディオン同様カトリックの現実に絶望、一時プロテスタンティズムに傾き、ついで18世紀の無神論的哲学に惹かれる。が、最後にキリスト教を超える新しい信仰「永遠の福音」の教えを、スピリディオンの墓を暴いて発見、そこに人類全体の連帯と解放の夢を聞き取り、迫り来るフランス革命に、夢の一部の具体化を感じる。正統の中から生まれた異端的思想こそ未来を担うものであることを、サンドは主人公たちの生き方を通して描いた。
Amazon商品紹介ページより
先程も述べましたが、『スピリディオン』は修道院が舞台の小説です。
主人公は見習い修道僧アンジェロ。彼はまじめで信仰深く、真摯に学問に打ち込む思慮深い青年でした。
しかし彼はなぜか修道院中から嫌われ、嫌がらせを受け続けます。それが辛くていくら懇願しても誰もその理由を教えてくれません。
「そんなことお前の心が一番知っているだろう!」
「あんたが心から真摯に、完璧に従順な気持ちで心を開いてくれなければ、拙僧としては何もできん」
と突き放されます。
ここではっきり申したいのは、アンジェロは何一つ悪いことはしていないということです。むしろ手本とでもいうべき立派な振る舞いをしていました。彼は勤勉に勉学に励み、祈りも欠かさず、誰よりも真摯に神を求めていたのです。
では、なぜそんな彼がこんなにもいじめられなければならないのか。
それがこの小説の要のひとつとなっていくのです。
そのことについてはこの後で改めて紹介しますが、そんな苦しみに打ちひしがれていたアンジェロを救ったのが上のあらすじに出てくるアレクシという老修道僧でした。
彼も他の修道僧たちとは一切交わらず、孤独を守り祈りを捧げ続けている一風変わった人間でした。ですがこの人物からこの修道院の秘密や、真の信仰とは何かということをアンジェロは学んでいくことになるのです。
『スピリディオン』は中盤以降、ほぼこのアレクシ神父の独白で進行していきます。
真面目な修道士アンジェロはなぜいじめられたのか
いじめられ、絶望に沈むアンジェロに対し、アレクシ神父はこう言います。
修道士たちがあんたに対し意地悪を、かたくななまでシステマティックに行なうだろうが、それはなぜか、わしには分かるのだ。彼らは正義の精神と生まれつきの公正さをもっている人々を恐れて、そういう人々に対しそんなふうにふるまうのだ。
あんたの中に心優しい人、侮辱に傷つきやすく苦痛への思いやりのある人、残忍さと卑怯な情念に敵対する人を感じ取ったのだ。そうした人の中に見出せるのは自分たちの共犯者ではなく裁き手なのだと考えたのだ。
そして、美徳ゆえに彼らをおびえさせ、純真さゆえに困惑させるすべての者に対してやることを、あんたにもしようと願っているのだ。
あんたをへとへとにさせ迫害することで、あんたの中で、正義、不正義の観念すべてを消し去り、無益な苦しみによって高潔な精神力すべてを衰えさせてしまおうと思っているのだ。
得体の知れぬ下劣な陰謀、言いようのない謎、いわれのない罰によって、あんたを、自らへの愛と評価において手厳しく生きるよう習慣づけようとしているのだ。
そして人への共感をもたないで、すべての信頼を失い、あらゆる友情をないがしろにして生きるよう習慣づけようとしているのだ。
師の善意に絶望させ、祈りを嫌悪させ、告白においてもうそをつかせ、兄弟たちを裏切るようにさせようとしているのだ。
つまりあんたを、ねたみ深く腹黒で人を中傷し密告するような人間にしよう、邪悪でおろかでおぞましい人間にしようとしているのだ。
彼らが教えようとしているのは、一番良いことは暴飲暴食のような不節制にふけったり怠けたりすることであり、そうしたことに心安らかに身をゆだねるには、すべてを堕落させ犠牲にし、偉大さの思い出すべてを捨て去り、あらゆる高貴な本能を殺す必要があるということなのだ。
そして偽善的な憎しみ、辛抱強い復讐、臆病なふるまい、残忍さを教えようとしているのだ。蜜によって養われたゆえに、やさしさと純真さを愛したゆえに、あんたの魂が死ぬことを望んでいるのだ。一言で言えばあんたを修道士にしようとしているのだ。
わが息子よ、これが、彼らが試みたことだ。彼らが全員一致して終始やり続けていることなのだ。ある者たちは計算ずくで、他の者たちは本能的に、最良の者たちは弱さから、服従心と恐怖からそうしているのだ。
藤原書店 大野一道訳『スピリディオン』P33-34
※一部改行しました
これは強烈です・・・
心優しく、美徳があるからこそアンジェロはいじめられていたのです。
心悪しき者にとってアンジェロは共犯者ではなく、無言の裁き手だった。だからこそ他の修道士は血相を変えて攻撃し、自分たちのところまで引きずり落とそうとした・・・
これが真相だったのです。
修道院という神への信仰をもとにした神聖な共同体においてそういうことがなされていたのです。
ジョルジュ・サンドは既存のカトリック教団に対してあまりいい印象を持っていないようです。
はじめは純粋な精神を宿していた教団も、時代を経て社会と癒着し、真に神を求める人間がいなくなってしまった。
それをサンドは批判しているのです。
厳密に言えばもっと複雑なものなのですが、簡潔に言い表すならば彼女自身はそういう教団による「服従のキリスト教」ではなく、神そのものと一対一で差し向いになる信仰を求めています。
作中でもサンドはアレクシ神父にこう述べさせています。
神が欲しておられるのは、わしらが歩んでいくことだ。神が時代の流れのまっただ中に預言者を立ち上がらせるのは、もろもろの世代を人間にふさわしいように前のほうに進ませるためなのだ。彼らを自分のうしろに、卑しい家畜の群れにふさわしいような鎖でつないだ形にしておくためではない。イエスが足なえた人を治したときに発した言葉は、『ひれ伏しなさい、そしてわたしのあとをついてきなさい』ではなかった。『立ち上がりなさい、そして歩きなさい』だった。
藤原書店 大野一道訳『スピリディオン』P283
「神は人間をひれ伏せさせ、服従させるためにいるのではない。人間を立ち上がらせ、前へ歩かせるためにおられるのだ。」
ここがアレクシ神父の信仰の核心です。そしてこれこそサンドがこの作品で私たちに伝えるメッセージなのです。
これは『カラマーゾフの兄弟』の主要テーマのひとつであり、「大審問官の章」で語られる重大な主題にもつながっているように思えます。
そして最後にもうひとつだけ引用します。これこそ私がこの作品でもっとも驚いた言葉でした。
わしが神の言葉を理解できるようになったのは、友情を理解をし、友情を通して慈愛を、そして慈愛を通して人類の友愛の感激を理解するようになってからなのだ。
アンジェロ君、わしがまだ君のそばで過ごしていられるほんのわずかな時間、これらの手書き本をここに置いていてくれ。
わしがこの世にいなくなっても、これらをわしと一緒に埋葬してはいけない。真理はもはや墓の中で眠るのではなく、白日のもとで働き、善意の人々の心を動かさなければならない時が来たのだ。
わが子よ、君はこれらの『福音書』を読み返しなさい。そしてそれらを注釈しながら歴史をまた学び直すのだ。君の頭は、わしによって事実と文献と名言でいっぱいにされてしまったから、自らの中に生を担っているのにそれに気づかない書物のようになっている。こんなふうにして三十年間、わしも自分自身の知性を羊皮紙にしてしまっていた。
すべてを読み検討し、何一つ理解することのない者は、無知なる者の中でも最悪の者だ。そして読むすべを知らぬまま神の知恵を理解した者は、地上における最大の哲学者だ。
さあ、わが子よ、わしの別れの言葉を受けとっておくれ。修道院を去って実社会に戻る用意をしなさい」
藤原書店 大野一道訳『スピリディオン』P301
※一部改行しました
「さあ、わが子よ、わしの別れの言葉を受けとっておくれ。修道院を去って実社会に戻る用意をしなさい」
これには心の底から驚かされました。読んだ瞬間鳥肌が立ちました。
「何をそんなに驚くことがあるの?」と皆さんは疑問に思うかもしれません。
ですが何は隠そう、まさに「修道院を去って実社会に出なさい」という師のはなむけの言葉は、『カラマーゾフの兄弟』でも師のゾシマ長老から主人公のアリョーシャに贈られる言葉でもあるのです。
さらに言えば、浄土真宗の開祖親鸞聖人も、浄土宗の祖である法然上人から同じように「俗世間で生きよ」と後押しされたというお話があるのです。
細かく解説していくと神学的な難しい話に立ち入ってしまうのでここではお話しできませんが、「修道院を去って実社会に出なさい」というはなむけの言葉は非常に重要な意味があるものなのです。
おわりに
ドストエフスキーがこの作品をもとに『カラマーゾフの兄弟』を書いていったのかは正確にはわかりません。なにせ、彼が『カラマーゾフの兄弟』を執筆したのはこの本が出版されてからおよそ35年も経ってからです。
しかもその頃にジョルジュ・サンドを再び読んだのかどうかもわかりません。(1876年、ジョルジュ・サンドが亡くなった時に追悼文を書いているので、もしかしたらその時に読み返したかもしれません。※ドストエフスキーが絶賛!フランス人女流作家ジョルジュ・サンドの傑作『ジャンヌ』参照)
というわけで『カラマーゾフの兄弟』に決定的影響を与えたかどうかはなんとも言えないところではありますが、ドストエフスキーの内部でこの作品が与えた影響というのは見逃すことはできないのではないでしょうか。
カトリックについて、修道院についてドストエフスキーがどのようなイメージを受け取ったのかが想像できる作品です。そういう意味で非常に興味深い作品でした。
以上、「ジョルジュ・サンド『スピリディオン』あらすじ解説『カラマーゾフの兄弟』に決定的影響!?サンドの修道院小説」でした。
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