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チェーホフ『ともしび』あらすじ解説―ショーペンハウアー的ペシミズムとの対決
チェーホフ(1860-1904)Wikipediaより
『ともしび』は1888年にチェーホフによって発表された中編小説です。
私が読んだのは中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 8』所収の『ともしび』です。
早速あらすじを見ていきましょう。
語り手は、たまたま鉄道建設の現場に迷いこんだ男という設定になっている。夜、堤、ともしび、犬の鳴き声。バラックの鉄道建設現場。ここで道に迷った「私」(語り手)が、技師のアナーニエフとアルバイトの学生フォン・シテンベルクとの問答を聞きながら、ひとごとでなく自分のこととして人生を考えつめるのである。この語り手は技師と学生のあいだにあって、いわばレフリーの役をつとめるべきなのに、ついにどちらにも軍配をあげかねるのである。そして夜があけ、朝を迎える。だが、「私」は「この世のことは何もわかりはしない」とつぶやくばかりで、結論を得ないままである。
筑摩書房、佐藤清郎、『チェーホフ芸術の世界』P133
舞台は鉄道建設の現場という資本主義建設の最先端の場です。そこで技師のアナーニエフと学生のシテンベルクと出会った「私」が彼らの問答を通して人生を考えるという筋書きです。
この作品はショーペンハウアー思想に興味がある人には画期的な作品です。
と言うのも、チェーホフ流のショーペンハウアー的ペシミズムとの対決というのがこの作品の主題となっているからです。チェーホフ研究者の佐藤清郎氏は次のように述べます。
これまで才気で書きつづけてきたチェーホフは、この作で初めて時代の問題、ぺシミズムと真剣に取り組んだのである。ペシミズムを論ずることで、何のために人間は生きるのかという窮極的な問題に、彼はじかにぶつかったのである。どっちみち死ぬる存在が何のために生きるのか。バビロンの塔も、ついには滅びる運命にあったではないか。死の前に何がいったい価値があるのか。『ともしび』はこの設問に答えようとした作品なのだ。
筑摩書房、佐藤清郎、『チェーホフ芸術の世界』P132
このブログでも以前ショーペンハウアーを取り上げましたが、やはりこの問題は私たちに強い印象を与えますよね。
もう少しこの作品について詳しく見ていきましょう。
技師アナーニエフは、肩幅の広い、中年の男盛りだが、そろそろ「老年の谷間へくだっていく」自分を感じはじめる年頃の、物静かで沈着な、ひとのいい、心に余裕を持つ男である。
一日の仕事が終った夕べ、眠るまえに人生論を語りはじめる。話し相手は、フォン・シテンべルク男爵(ミハイル、ミハイロヴィチ)という通信大学の学生である。年の頃二十三歳ぐらい。亜麻色髪の、薄い顎ひげを生やした若者で、バルチック海沿岸のドイツ系の男爵である。
彼は欲がなく、ビールをまるでいやいやのように飲み、機械的に算盤を弾き、何かを考えつづけている。陽焼けした、考え深げな顔をして。このところ、この若者はぺシミズムに取りつかれていたのである。
「一切はむなしい」「死んでしまえぽ、一切は無だ。何をしても、死が待っているだけではないか。人は何のために生きるのか。偉業のためだというのか。どんな偉業も、どれだけ寿命をもちうるのか。ダーウィンも、シェイクスピアの偉大さも、死をまぬがれなかったではないか。何をしても、何もしなくても同じではないか」と考えている。
アナーニエフ技師は、この学生とはまったく対蹠的に、現実肯定に立ち、機械文明の将来に幻想を抱いている。
「自分の手でやった仕事を見るのは、なんて愉快なんだろう!去年のいまごろ、実にこの場所は裸のステップだったのだ。人間の臭いがしなかったのだ。それなのに、どうです、いまでは文明が入りこんでいる!なんてすてきなんだろう。本当に!あんたもぼくも、鉄道建設にたずさわっているんですよ。ぼくたちが死んだあと、百年か二百年もすれば、善良な人たちが、ここに工場や中学校や病院をてることだろう―機械でいっぱいになるんですぜ!そうじゃないですか?」
資本主義勃興期に生きた技術者として、きわめて自然な「文明幻想」である。これに対して、学生は当時流行していたショーペンハウアーの哲学を底に秘めた虚無主義で対抗する。
「なるほど、いま、ぼくたちは鉄道を建設し、こうして立って哲学をぶっていますが、二千年もすれば、こんな鉄道の堤も、いま激しい労働のあとで眠りこんでいるこれらの人たちも、みな跡方もなくなっちまう。何一つ残るものなんてないんだ。実際、これはおそろしいことじゃないですか!」
「まったく、くだらないことだ。ぼくはペテルブルクで暮していましたが、いまは、このバラックにこうして坐っています。ここから、またぺテルブルクに戻ることでしょう。そして、春、またここに来ることでしょう……こういうことが、いったいどういう意味を持つのです。ぼくは知らない。また、誰も知りはしない。つまり論じることは何もないのさ……」
まぎれもなく、ショーペンハウアーの影響が顕著である。
筑摩書房、佐藤清郎、『チェーホフ芸術の世界』P133-134
少し長くなりましたがこうした対極にある二人の問答がこの作品では繰り広げられることになります。
そしてこの作品を知る上で非常に興味深い裏話があります。
それがチェーホフとトルストイの関係です。
チェーホフは芸術家トルストイを非常に尊敬していて、晩年に至るまで実際に行き来したりと深い交流がありました。
そのトルストイも1869年頃から70年代前半までショーペンハウアーに心酔していた時期がありました。彼がこの哲学者に心酔したことでロシアで徐々にショーペンハウアーの著作がロシア語に翻訳語で出版されるようになり、若者たちの間に広まっていったと言われています。
しかし後にトルストイはそこから離れることになり、ショーペンハウアー的虚無主義を批判するようになります。1889年、彼は次のように述べています。
「ぺシミズム、特にショーぺンハウアーのようなものは、いつも私には詭弁のように思われる。いや、そればかりか、愚劣にさえ思われる。それも、趣味の悪い愚劣なものに……私は、いつもぺシミストにこう言ってやりたい―『もし世界がお前の気に入らないのなら、その不満をひけらかすのをやめたまえ。そんなものは捨てて、他人の邪魔をするな』と」
筑摩書房、佐藤清郎、『チェーホフ芸術の世界』P136-137
トルストイを尊敬し、彼の影響を受けたチェーホフが同じようにショーペンハウアーを読み、そこからどう問題意識を持ってその思想と戦うようになっていったかというのは非常に興味深い問題であると思います。
そうした意味でもこの『ともしび』という作品はチェーホフを知る上で非常に重要な作品となっています。
物語としてもチェーホフらしい簡潔で読みやすいものとなっていますのですいすい読むことができます。ページ数も50ページほどとコンパクトなので気軽に読めるのも嬉しいです。
とてもおすすめな作品です。
以上、「チェーホフ『ともしび』あらすじと感想~悲観主義・虚無主義にチェーホフは何を思うのか。」でした。
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